05 愚妹 市ヶ谷トト子
「ただいまー」
玄関で靴を脱ぎながら腕時計をチラ見する。
すっかり遅くなった。確か今日は俺が夕飯当番だったはず――
「お兄、遅いぞ。このごく潰し」
リビングに入った俺に悪態をつくのは妹の市ヶ谷トト子。まだ中学生の小娘のくせに態度はデカい。
トト子はコンロのスイッチを消すと、フライパンをガチャリと置いた。
「お兄、後は作れ。野菜炒め、香味シャンタンは特盛で」
エプロンを外しながらぶっきらぼうに言うトト子。どうにもこいつは愛想が悪い。
俺は脱いだブレザーをソファに投げると、入れ替わりにエプロンを受け取った。
「なんだよ、途中までやってんなら作ってくれよ」
「嫌だ。これからまいんちゃんの平成懐かし総集編があるんだ。朝から心の全裸待機してたんだぞ」
まいんちゃんか。それなら仕方ない。
伸びをしながらソファに向かうトト子の姿に俺は何かを感じた。
……これはひょっとして。
――俺は獣の視線でトト子を眺め回す。
妹に『疑惑の保健医』を使うのも久しぶりだ。
年齢 13
身長 145センチ
体重 39キロ
バスト―――C
「お前、少し胸デカくなっただろ」
「……キモイ。お兄は寸暇も惜しまず死んだほうがいい」
心の底からの言葉を吐き捨てると、トト子は俺のブレザーをつまみ上げる。
「あ、悪い。どこか適当に除けといて――――って、お前何やってんの?!」
なぜかトト子は俺のブレザーを鼻に押し当て、ゆっくりと深呼吸。
……いやまさか。トト子が俺にそんな感情を持っているとは。
悪いがお兄ちゃんは実の妹をそんな風には見れないぞ。
しかしこれはデリケートな問題だ。頭ごなしに気持ちを否定するのではなく、一緒にお風呂に入るくらいは受け入れてあげるとか――
「お兄……女の匂いがする」
「人の制服吸って何言ってんだお前」
こいつ、夫の浮気を疑う人妻か。
トト子は更に大きく息を吸うと、何かに気付いたのか。眠そうな目を見開いた。
「この匂いは……クルちゃん?」
「……え、なんで分かった」
トト子はブレザーを鼻に当てたまま、俺をじろりと睨みつける。
クルちゃんこと菓子谷胡桃。トト子と昔から仲が良い。
「ついに……ついにやってしまったか……」
「いやいや、何にもやってねーよ」
「言い逃れはできないぞ、このロリコンめ。正直私も身の危険を感じざるを得ない」
トト子はブレザーを投げ捨てると、俺に歩み寄り両手で胸ぐらを掴んでくる。
そのままシャツに顔を埋めてクンカクンカと鼻を鳴らし、
「……未遂だな」
―――と、安堵のため息を漏らす。
「そういえばクルちゃん可愛いし、お兄なんかと付き合う訳無いしな。誤解だ、悪かった」
……あれ、謝られているのにかえって辛い。
そういや、俺と胡桃は恋人の体で過ごす訳だし。付き合い出したって言っていいんだよな。
ここは兄の威厳を見せるべき場面である。
……俺は咳ばらいをすると、右斜め45度の決め顔でトト子に向き直る。
「いやいや、トト子よ。お兄ちゃんを見くびっちゃいけないな。実は俺と胡桃、付き合い始めたんだ」
俺の渾身のドヤ顔に、トト子は呆れた視線を向ける。
「嘘だね。お兄にそんな甲斐性がある訳ない」
「これが証拠だ。このラブラブのプリクラを見るがいい」
「……殴られてんじゃん」
確かにそうだ。
それでもプリクラから伝わる雰囲気に気付いたのか。小さく「マジか……」と呟くトト子。
「クルちゃん、早まった……。私に一言、相談してくれてたら」
実の兄に随分な言い草だ。俺にもいい所あるんだぜ?
トト子はスマホを取り出し、どこかに電話をかけようとする。
「まだ遅くない。思い直すように説得しないと」
「待て待て! 何だってそんなことを」
トト子の手からスマホを奪い取る。
「返して。お兄がどれだけ腐れドブ野郎か、13年分のエピソードトークで伝える必要が」
……こいつ、兄をそんな風に思ってたのか。
いや。それよりこいつ、胡桃に何を言うか分かったもんじゃないぞ。
「分かった。本当のことを話そう」
俺が神妙な表情でそう言うと、トト子の目が険しくなる。
「……嘘だったの? やはりお兄はゴミカス――」
「いや、本気で凹むから。ちょっと話を聞いて?」
……俺は全てを話した。
黙って聞き終えたトト子は納得したようにうなずいた。
「なるほど、話は分かった」
「分かってくれたか」
「つまり……偽彼氏って名目で、責任を取らずにクルちゃんをもてあそぼうと……。今晩中に死ねばいいのに」
なんでそうなる。
「いやいや、ちゃんと責任は――じゃなくて、そんなことしない! あくまでも偽装だからな? 本当に付き合ってるわけじゃないから」
「どーだろ。実の妹を視姦するような変態だしな。しかも早速殴られてるし」
……なるほど。否定できない。
俺はトト子のジト目から逃れるようにテレビの電源を入れる。
「ほら、まいんちゃんの総集編、始まるぞ?」
「そうやってごまかそうというところが感染性廃棄物―――」
トト子は言いかけて黙ると、テレビに向かって正座する。
画面の向こう側に、現人神まいんちゃんが登場したのだ。
夢見るような表情で、トト子は手の平を合わせてテレビを見つめている。
隣に座ろうとした俺は乱暴に押しやられた。
「お兄は夕飯作って。……豆板醤も特盛で」