47 おてんば社長令嬢は婚約破棄して幸せになります!
一階のホールに向かって大きく広がる階段。
犬吠埼と並んでヒデ兄の居る二階に向かう。
きっと結婚式では新郎新婦がこの大階段を降りて来るのだろう。
階段の手すりに飾られた花を見るに、ひょっとして婚約披露の際にここを降りる演出を予定しているのかもしれない。
……やばいぞ。ちょっと心が痛い。
ヒデ兄、まさか断られるとか思わずに、ウッキウキで打ち合わせとかしてるんだろうか。
生い立ちをまとめたDVDとか作ってたらどうしよう。
「おいどうした。しゃっきりしろよ」
犬吠埼の声に前を向くと、俺達は大きな両開きの扉の前にいる。
「なあ犬吠埼、ちょっと一旦休んでから―――」
問答無用。
犬吠埼が大きな両扉を力一杯押し開いた。
大きな部屋の真ん中では、テーブルを数人の大人が囲んでいる。
その内の一人、グレーのスーツに身を包んだ若い男が驚いたようにこちらを見る。
「ヒデ兄、ちょっと話がある。人払いを頼む」
犬吠埼のただならぬ雰囲気―――と、俺の姿に気付いたか。
ヒデ兄は周りの大人達を下げさせる。
犬吠埼の許嫁―――ヒデ兄。
一回り上というのだから20代終盤だ。
スラリと背の高い美丈夫といったところか。見ただけで育ちの良さと洗練された所作が伝わってくる。
「景子君、丁度良かった。今日の婚約披露の段取りを話しておきたかったんだ」
「……ヒデ兄。今日はそのことについて話があるんだ」
「ああ、分かってるよ。君が噂の景子君の彼氏かい?」
予想に反し、落ち着いた態度のヒデ兄はゆっくりとこちらに近付いてくる。
「一度会ってみたかったよ。僕は神宮寺秀彦。景子君の許嫁だ」
「えっと……始めまして。市ヶ谷達也です」
差し出された手は力強く暖かい。
秀彦氏はもう片方の手で気楽に俺の肩を叩くと、犬吠埼に向き直る。
「じゃあ景子君。早速だが打ち合わせを始めよう。すぐに会場のプランナーを呼んでくるよ」
……あれ、なんか話がおかしい。
「あの、ちょっと待って下さい。俺と景子、付き合ってるんです」
「知ってるよ。もちろん構わない。高校生が誰かと付き合うのは自然なことだ。僕も君時分にはお付き合いしている人がいたからね」
「はあ」
……あれ、俺達の交際を認めてもらえたってことは。
俺は犬吠埼と顔を見合わせる。
「解決……したのか?」
「してねえよ、馬鹿」
犬吠埼は俺を突き飛ばすと、腕組みで秀彦氏と向かい合う。
「あのな、彼氏いるのに婚約とか出来る訳ねえだろ。ヒデ兄、その若さでボケたのか?」
「あんまりだな。僕は君に随分と譲歩したつもりだよ」
「……つまり婚約さえできりゃあ、あたしが誰と付き合っても構わないってのか?」
一瞬、犬吠埼の目元にピリッとした光が走る。
お願いだから切れるなよ……
「正直に言えば。僕だって妬くし、今すぐ一緒になりたい気持ちはある」
「じゃあなんで―――」
「僕が彼と別れて欲しいと言って、君は別れるのかい?」
「んなわけねえだろ」
秀彦氏は寂し気に微笑む。
「じゃあそれが答えだ。君を縛ることはできないし、そこが僕が君の好きなところだよ」
「す、好きっ?!」
「ああ。僕は最後に君が傍にいてくれればいい」
「な、なに言って……」
思わず顔を赤くする犬吠埼。
……あ、なんかこいつ意外とチョロいぞ。チョロ犬だ。
「さあ市ヶ谷君、悪いが外してくれないか。会場に料理をたくさん用意しているから楽しんでいってくれ」
「え? そ、そういう訳には……」
俺がモニョモニョと反論しようとすると、被せるように犬吠埼が声を張り上げる。
「だっ、だからよ! 付き合うとか結婚って、そういうもんじゃないだろ?!」
「そうですよ。いくら何でもそれはどうかと思います!」
いいぞ犬吠埼、もっと言え。
俺は何気に、犬吠埼の背中に隠れる。
「じゃあ、景子君にとって結婚とはどういうものなんだ?」
「は? そりゃ決まってんだろ。いつか……白馬の王子様が迎えに来てくれるっつーか……」
……?
おい、犬吠埼。何言い出した。
「いや、来ないと思うぞ……?」
「は? そりゃホントに馬乗ってるとか思わねえよ! だけど……昔から言うだろ。運命の人と会うと初対面でビビビッと来るって」
「そう言った往年のアイドル、離婚したけどな」
つーかお前、家族の前であんな啖呵切っといてそんな乙女な結婚観なのか。
「運命の人とかいるかもしんないけどさ。70億の人口の中で、まず出会えないって」
「まだ分かんねえじゃん………なんでそんなこと言うんだよ……」
あ、やばい。犬吠埼が凹みだした。
「だ、だからさ、周りにちゃんと目を向けてだな。出会いを大切にしてけば、きっと運命の人にも出会えるって」
「お前さっき、出会えないって言ったじゃん……」
ああもう、なんなんだ。
なぜ彼氏(偽)が彼女(偽)の出会いを励まさなきゃいけないんだ。
俺達を見て、秀彦氏が声を押さえて笑い出す。
「ヒデ兄、なにがおかしいんだよ!」
「……失礼。その息の合い方、二人は仲がいいんだね」
「ったりめえだろ。付き合ってんだからよ」
「でもとても初々しい」
秀彦氏は大人びた笑みを浮かべて肩を竦める。
「何故だろうね。君達からは男女の艶っぽさを感じない」
……正解だ。
流石アラサー。伊達に一回りも年を食ってない。
図星を指された犬吠埼はムキになって食って掛かる。
「はあっ?! んな訳ねえだろ! あたしと達也、ラブラブだっつってんだろ!」
「若い二人が求めあうことを否定はしないよ。むしろ自然で良いことだと思う」
「ヒデ兄……あたしが子供だと思って馬鹿にしてるだろ?」
……嫌な予感。
さり気に距離を取ろうとする俺の腕を、必要以上に力強い指が掴む。
「おい、達也。あたしらがガキじゃねえってとこ見せつけてやるぞ!」
「なに言っ―――」
犬吠埼は俺の身体に腕を回すと、強引に顔を近付けて来る。
ひょっとしてこれは……キスしようとしてるっ?!
「やっ、やめろ! 人前でこんな―――っていうかお前、力強っ!」
これは良くない。良くないけど、これは不可抗力だよな……?
……不可抗力なら仕方ない。
俺は目を閉じた。
口に伝わってきたのは、金属のように冷たく硬い感触―――
??……あれ? 犬吠埼、実はサイボーグとかそんな展開?
パッと目を開けると視界は一面の銀色だ。
力の緩んだ犬吠埼の腕から抜け出すと、俺達の顔の間に挟まっていた銀色のお盆がカラカラと音を立てて床に転がる。
「おい、達也。いつの間にこんなもの挟んだ?」
「俺も知らないって」
……この部屋には忍者でも居るのか?
毒気を抜かれたようにキョロキョロ見回す俺達に、秀彦氏はパンパンと手を打ち鳴らす。
「さ、もういいだろう。身体の関係の有無じゃない。君たちの付き合いを僕は認める。景子さん、僕は君の将来をもらいたいんだ」
「え? でも誰か部屋に居―――」
秀彦氏は混乱したままの犬吠埼の手を掴む。
「お、おい、ヒデ兄―――」
「ちょっと待って下さい!」
俺は犬吠埼の手を奪い取る。
余計なお世話か、それとも助け船か。
犬吠埼の表情からはまだ読み取れない。
……だがしかし。
パンケーキと俺を信用してくれたお礼をするのはきっとここだ。
「確かに俺達はまだ子供です。実を言えば、付き合ってても身体の関係があるわけじゃない」
「お、おい! なに言ってんだよ! あたしら全部……ほら、あれだろ!?」
あれってなんだ。
俺は犬吠埼に構わずに言葉を続ける。
「でも付き合い方って、分かり合い方って、いろんな形があっていいと思います。年齢に関係なく、手を繋いだだけで満たされるならそれでいい。反対に身体の関係から始まっても、本人達がそれで分かり合えるならそれでいい」
繋いだ手はいつもと違って大きくて。
それでも華奢な女の子の指だ。
「俺と彼女はまだ……手を繋いで満たされて、それでいいんです。極論を言えば付き合うとかそれさえ必要じゃなく。俺達は手の平から順々に分かり合っていければそれでいい」
言いながら、一瞬、脳裏を誰かの顔がよぎった気がする。
……犬吠埼と付き合っているわけじゃないし、今俺が紡いでいる言葉は彼女を想って出た言葉じゃない。
「時間はかかるかもしれません。分かり合う前に別れるかもしれません。でも俺はそれでいいと思うし、彼女とはそうやって付き合っていきたいと思うんです」
だけど、今まで胸に詰まっていた気持ちが言葉になって口から溢れるのを止めることが出来ない。
俺は真っすぐ秀彦氏の顔を見つめる。
「だから俺達には時間が必要です。確かなものが何もないのに婚約だけするとか、景子はそんな女じゃない」
俺と犬吠埼。
本気で恋をするには、まだ少しばかり早すぎる気がする。
お互いが、ではなくそれぞれが。
恋心とか異性との心の向き合い方について、自分なりの答を出すのにまだ少し時間がかかる。
きっと―――俺達は似ているのだ。
多分、俺達は将来付き合うことは無いだろう。
でも俺達は、10年先も馬鹿言って笑っているような、そんな気がする。
少し不安そうに俺を見つめる犬吠埼に向かって、俺は軽く微笑んで見せる。
犬吠埼は俺に微笑み返すと、改めて秀彦氏に向き直る。
「ヒデ兄。あたしはあんたのことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きだといってもいい。もし結婚したら……きっと幸せになれるんだろうなとも思う」
犬吠埼は震えを隠すように、俺の手を握る指に力を込める。
「でもあたしは、自分で選んだ相手と一緒にやってきたいんだ。幸せだろうと不幸せだろうと」
犬吠埼のむき出しの肩が震える。
罪悪感―――安堵―――不安―――喪失感―――
多分、いろんなものが混ざり合った、想いのこもった涙が犬吠埼の大きな瞳から零れ落ちる。
「わりぃ。ヒデ兄のこと、キープとかそんな風にできねえ。結婚の話は無かったことにしてくれ」