46 犬吠埼一家 ~二代目
軋む音。
犬吠埼母が扉をゆっくりと押し開く。
その向こうは応接セットの並んだ居心地の良さそうな部屋だ。
……俺は心から安堵の溜息をつく。
「みんな座りな。お茶くらい淹れてやるよ」
犬母がお茶の準備を始めると、娘が隣に並んで手伝い出す。
親子だけあって、後ろ姿はよく似ている。
犬吠埼が黒髪ならきっとあんな感じなのだろう。
……しかし母親があんなに若くて美人とは思わなかったな。
あれなら母親の方でも全然OK―――って、何を考えてんだ俺。
邪な考えを振り払おうと目を逸らすと、そこには犬父の顔。
母娘二人がお茶を淹れているということは、俺がソファで犬父と向き合うことになる訳で。
「えっと……なんでしょうか」
……なんでヤンキーの人たちは低い位置からメンチを切ってくるんだろう。
「お前、市ヶ谷と言ったか。うちの景子とどういう関係なんだ?」
え? さっき付き合ってるって言ったじゃん。
ヤンキーだから記憶力が無いのだろうか。
「ですのでお付き合いをさせて頂いております」
「ああ? んなもん認めた覚えはねえぞ。まさかうちの景ちゃんに悪さしてねえだろうな!」
えー、もうやだこの人、話が通じない。
しかも犬吠埼、家では景ちゃんって呼ばれてるんだな。
「親父こら! 余計なこと言うんじゃねえ!」
飛んできた饅頭が犬父の頭に当たって跳ね返る。
「だってよぉ! 景ちゃん、彼氏なんていらないって言ってたじゃん!」
「景ちゃん言うな!」
……何なんだこの親子。
半ば呆れて見守っていると、横からお茶が差し出される。
「あ、すいません」
「坊やが、うちの景子と付き合ってんのかい?」
犬吠埼母は俺の顔をまじまじと覗き込む。
ふわりと香水の香りが鼻をくすぐった。
俺は弾かれるように立ち上がる。
「申し遅れました! 私、市ヶ谷達也です。お嬢さんとお付き合いをさせて頂いてます!」
「待てよ! 俺は認めてねえぞ!」
「あんたは少し静かにしてな!」
鶴の一声。犬父はソファの隅で身を縮こませる。
「景子に男が出来たって聞いて半信半疑だったけど。こうして見てもなかなか信じられないもんだねえ」
犬吠埼母は口元だけで笑って見せる。
「さ、みんな座りな」
居心地悪くソファを囲む犬吠埼家+偽彼氏。
俺は形だけお茶を飲みながら、犬母の出方をうかがう。
「それで、達也くん。景子のどこに惚れたんだい」
「どこに……?」
ここは犬吠埼のいいところを言えばいいのだろうか。
可愛くて胸もデカくて―――いや、そんなこと言えるわけないよな。
こいつは中身もいい奴だが、付き合ってもない俺がどれだけのことを言えるだろう。
必死に考えを巡らせるが、頭に浮かんでくるのは犬吠埼のセクシー名場面集だ。
あ……そういやあいつ、近付くといい匂いするよな。
「その……総合的観点から、わたしは景子さんに懸想しました訳で」
「総合的?」
「は、はい。決して可愛いからってだけはなく……その、いい匂いもしますし―――ごふっ!」
鈍い音を立て、犬吠埼の肘が脇腹に入る。
重痛い。もうちょいズレてたら肋骨いってたぞ。
「確かにね。景子は私に似ていい女だ。あんた見る目があるじゃないか」
我ながら最低な回答だったが、犬母はむしろ面白がるような表情をする。
ホッとしたのもつかの間。
犬吠埼母の目付きが変わり、一気に部屋の空気が張り詰める。
「―――二人とも今日がどんな場か分かってんだろうね」
……そう。
会社の50周年記念パーティー兼、犬吠埼とヒデ兄の婚約披露の場だ。
「惚れた腫れたの話をするなら場違いだ。今日は会社同士の話の場だよ」
「……会社?」
「なんだ、知らなかったのかい。私はちんけな会社を一つやっててね。そのうち景子に継がせるつもりだよ」
「あたしは継ぐなんて言ってない」
犬吠埼は不機嫌そうに首を振る。
「あんたら二人の仲に口を挟むつもりはないさね。だけどね。一緒になるってこたぁそれだけじゃない。一緒に家族を作って互いの荷物を背負い合う。それが夫婦っていうもんだ」
犬母は懐から長煙管を取り出すと、刻み煙草を詰め込む。
流れるような仕草でマッチを擦る犬父の姿に、俺は犬吠埼一家の明確なヒエラルキーを確信する。
この家に婿入りとかしたら、苦労しそうだな……
「坊や。あんたがそれにふさわしい相手かどうか、悪いけどまだ分からないね」
「しかし……それじゃ政略結婚みたいなものじゃないですか」
「どう考えるかは自由だ。会社ってのは看板だけじゃない。100人からの従業員とその家族。あんた一緒にそいつを背負えるのかい?」
「それは……」
俺はゴクリと唾を飲む。
……答えるにあたって、ひとつ大変に困ったことがある。
それは俺と犬吠埼、本当は付き合ってないってことに尽きる。
口先で娘さんを守るだの支えるだの言える雰囲気じゃないよな……
犬吠埼母の赤い唇の間から、白い煙がゆるゆると漂う。
「……男っぷりだけで相手を選べるとは限らないのさ」
物憂げに呟くその姿に、犬父の顔が青くなる。
「つ、鶴子さん……? ひょっとしてケンジのこと言ってんのか?」
「なんだいあんた。藪から棒に」
「だってよ。今の話だと、まるで妥協して俺と結婚したみたいな―――」
犬母は呆れたように笑うと、夫の顎を掴んで顔を上げさせる。
「あんたに男っぷり以外の何の取り柄があるってんだい。私が選んだ男だ。自信持ちな」
「鶴子さん……!」
……えーと、俺は何を見せられてんだ。
犬吠埼よ、そろそろ埒を開けてくれ。
助けを求めるように隣を見ると、犬吠埼が苛々と指をポキポキ鳴らしだす。
「お袋……会社がどうとか関係ねえ。つーかまだ継ぐとも言ってねえ。あたしは自分で選んだ男と添い遂げる。そんだけだ」
「景子。それがその達也君かい」
「達也は関係ねえ。会社だろうと何だろうと、あたしの荷物はあたしが担ぐ。その代わり、あたしが選ぶ相手は自分の足で立てる男だ」
睨み合う母娘。
横からオドオドと犬父が口を挟む。
「おい、景ちゃん……この男とそこまで先のことも考えてるのか……?」
「んなもん分かんねえよ!」
……確かにそうだ。
この先どころか始まってもいないんだし。
「彼氏だなんだ言ったって、今日にでも喧嘩して別れるかもしんねえ。10年後も付き合ってるかもしんねえ。惚れて始まるんなら、愛想が尽きりゃ別れもするだろ。それでも―――」
犬吠埼はテーブルを拳で思い切り叩き付ける。
「―――あたしは相手を自分で選ぶ。ヒデ兄には悪いが、今回の話は無かったことにする」
勢いよく立ち上がる犬吠埼に釣られて俺も立ち上がる。
「おい、行くぞ達也。ヒデ兄と話を付けに行く」
「お、おう」
部屋を出ていこうとする俺達の背中にドスの聞いた声が投げかけられる。
「二人とも待ちな」
三服目。
犬吠埼母はゆっくりと煙を吐きながら、煙管の首を叩いて吸殻を灰皿に落とす。
「お袋、何と言われたって考えは変わんねえぞ」
「あんたに覚悟があるんならこれ以上何も言わないよ。秀彦君なら2階のホールで打ち合わせ中だ。やるからにはケジメ付けな」
「つ、鶴子さん?」
犬母は静かに立ち上がると、俺の前で深く頭を下げる。
「達也君だったね。景子をよろしく頼むよ」
「え? いやいや、そんな。頭を上げてください」
「この子はこう見えて男には奥手でね。私らがお膳立てしてやらないと、って思ってたんだけどねえ」
「お袋! 余計なこと言うなって!」
「堪忍しな。ただの親バカだ」
母親の顔。
犬吠埼鶴子は懐から名刺を取り出すと俺の手に握らせる。
「この先、なんか困ったことがあったらこれ使いな。面倒見てやる」
「は、はあ……」
名刺って使う物だっけ……?
戸惑う俺に、悪戯っぽく付け加える。
「それとガキだけは卒業するまでこさえるんじゃないよ。私だって卒業まで待ったんだ」
「お袋っ?! だからなに言ってんだよ!」
顔を真っ赤にして食って掛かる娘の肩を強引に抱き寄せる犬母。
「景子、あんたもやるからにはイモ引くんじゃないよ。きっちりカタァつけてきな!」
「ったりめだ。行くぞ達也っ!」
力任せに引っ張られて部屋を出る。
扉が閉まったのを確認すると、犬吠埼が俺の襟首をつかんで顔を寄せて来る。
「そ、そういうのはねえからな!」
「……え? そういうのってなんだよ」
「だっ、だからガキとか……」
「あたりまえだろ?! 驚いた。なに言ってんだよお前」
犬吠埼の奴、さすがにテンションがちょっとおかしい。
とりあえずこの場を離れて少し落ち着こう。
どこかに座る場所でも……
辺りを見回すと、廊下の奥でスカートの裾がひらりと揺れたのが分かる。
角を曲がって姿を消したのはメイド服姿の給仕だろう。
今の話聞かれてなかっただろうな―――
「―――あれ?」
「どうした達也」
「なんか……今のメイドさん、やけに小さく無かったか……?」
「そうか? お前みたいに女ばかり見てねえよ」
失礼な奴だな。否定はしないが。
犬吠埼はボンヤリ突っ立つ俺の腕に手を回す。
「あと一回戦だ。しっかりエスコート頼むぜ」