44 二人の偽彼女
俺は貸し出しカードを抜き出すと、本を2年生の女生徒に渡す。
「返却は2週間後です。ありがとうございました」
図書室から出て行く今日初めての客を見送りながら、カードを隣の胡桃に手渡す。
「そろそろ電子化して欲しいよな。他の市ではICチップの導入も始まってるんだってさ」
「……なんか女子をじろじろ見てませんでしたかー。利用者をそういう目で見るのは困りますネー」
久しぶりの二人での図書当番。
菓子谷胡桃はご機嫌斜め。
日付印をスパンと押すと、ラックにカードを差し込む。
「なんだよ胡桃。今日はやけに当たりが強いな」
「別にー。打ち合わせと称して、犬ちゃんと毎日内緒話してる男のことなんて、私知らないしー」
カウンターに突っ伏し、足をパタパタ。
構って欲しい時の胡桃の拗ね方だ。
まあ、最近忙しくてあんまり胡桃を構ってなかったしな。
「仕方ないだろ。彼氏のフリするにも色々と準備がいるじゃん」
「私の時は何もしなかったじゃん」
「プリクラ撮ったし。それに俺達なら今更準備なんかいらないだろ」
「お、おう……。そ、そう言われたら確かにそうだね。達也と私の仲はそれだけの積み重ねがあるってことだしー」
今度は機嫌良さそうにカウンターをペチペチ叩く胡桃。
秋の空と胡桃の心。これが乙女心という奴か。
「まあしかし。犬吠埼との距離を縮める良いチャンスなのは確かだ」
「……ふうん。やっぱ下心かー」
「そういう訳じゃないけどさ。一般的に言えばだ。こういった偽恋人の関係から、本当の付き合いに発展するなんてことも枚挙にいとまがないと聞く。それはある意味、友達以上恋人未満に代わる男女の新しい関係と言っても過言では無い」
「……早口だ。ここにもう一人の偽彼女いるんですけど―」
俺の熱弁に、またも不機嫌になったらしい。
胡桃はカウンターにおでこをグリグリしている。
胡桃心、秋の空どころか山の天気だ。
「犬吠埼のはこの場限りというかさ。婚約の件さえ撤回できればそれでいいんだし。スマートにやっつけようぜ」
「勿論手を貸すけどさ。達也、犬ちゃんにデレデレし過ぎなんだよー」
胡桃の奴、やけにこだわるな。
まあ一年生3人組、自分抜きで動いてれば寂しいのは分からんでもない。
俺は読みかけの本を閉じると、胡桃の頭をポンポン叩く。
「胡桃をおミソにしてるわけじゃないんだぜ。いざとなったらお前の力、借りるしさ」
「ホント? じゃあ私も犬ちゃん、助けてあげるよ!」
元気良く起き上がる胡桃。
「私はパーティーで何したらいい?」
「え、いや。胡桃は当日、何もしなくていいんだけど」
「え……やっぱ私おミソなの……?」
あ、なんか胡桃泣きそうだ。
俺は慌てて胡桃の頭皮マッサージをして機嫌を取る。
「ほら、お前にしかできないことあるしさ。そっちで頑張ろうぜ」
「私にしかできないこと? なに?」
……俺は一瞬言葉に詰まる。
教訓だ。気休めを言う時にはその続きも考えておくべきである。
「えっと……その……あれだ」
「うんうん!」
子犬のように目をキラキラさせて俺を覗き込む胡桃。
犬のよう……犬……
「そう! 犬吠埼の奴、お前に罪悪感を感じてるだろ?」
「お、おお……やっぱそうかな」
「だからそれをサポートしてやれるのって、お前だけじゃないかな」
「おお。それが私だけに出来ること……」
胡桃はポカンと口を開けたまま宙を見つめる。
「どした?」
「私と達也の本当のこと……犬ちゃんには言った方がいいかな?」
「お前次第だけどさ。今更言いにくければ言わなくたっていいぞ」
「でも……」
「今回のことはそのこととは別だ。それに俺も共犯者だしな」
駄目押しで胡桃の頭をぐりぐり撫でる。
「それにだな……最近、胡桃の言った通りになってるんじゃないかなって」
「私の? なんだっけ」
「胡桃と付き合ってるフリをしたらモテるって話。俺、モテ期が来てるような気がするんだ」
「ふぁっ?! だ、だれ? 誰に迫られてるのっ!?」
胡桃も流石に驚いたのか。
ワタワタと身を乗り出そうとして椅子から落ちそうになる。
「具体的に誰って訳じゃなくてさ。俺を取り巻くラブのオーラが増してるというか……期待値が増大している状況なんじゃないかなって」
「妄想……? 達也いま、妄想の話してるの……?」
失礼な。
妄想かもしれないが、俺の電話帳に女子の連絡先が増えつつあるのは確かである。
「ゲームだと、内部パラメータがMAXになるとレアアイテムがドロップしたりするだろ? 同じように目に見えない小さな積み重ねがモテに繋がるんじゃないかと思うんだ」
「目に見えないと言えば。ひょ、ひょっとして、ほら。身近なところにモテが転がっていて、達也はそれを感じてるんじゃないかな……?」
なにやらモジモジと意味深なことを言い出す胡桃。
はて、俺の身近にそんな女子が……
「……トト子か」
「はい?」
「トト子の奴。最近ようやく反抗期を脱して、兄貴ラブモードに入ったんじゃないかって思うんだ。今度あいつの好きなブラックサンダーでも箱買いしてやるか」
「お、おう……良いお兄ちゃんだ……」
何故かがっくり肩を落とす胡桃。
「胡桃、どした?」
「ううん。犬ちゃんの件は達也の言うとおりだ。私、ちょっと意地悪だったかもしんない」
胡桃はいきなり立ち上がる。
「犬ちゃんに、私も応援してるってちゃんと言ってくるね。達也、ありがと!」
「おう。頑張れよ」
カバンを肩にかけ、パタパタと図書室を出て行く胡桃の後ろ姿。
俺はそれを見送り―――
「……あ、図書当番」
―――当番を逃げられたことに気付いた。
――――――
―――
ジーンズ及びスニーカー禁止。
シャツは襟付きで。
犬吠埼から聞かされたドレスコードはそれだけだ。
俺はチノパンと襟の付いた長袖シャツ姿。足下は親父の茶色い革靴だ。
家の前で落ち着かずに迎えの車を待つ。
「まあ、あんまり堅苦しく考えなくていいぞ。襟さえ付いてりゃいいんだ」
そんな犬吠埼の言葉を思い出しつつ、腕時計で時間を確認。
そろそろ約束の時間だ。
……車で迎えに来てくれるということは、犬吠埼家と同伴ということだろう。
彼氏として犬吠埼の両親と会うのか……
やっぱ格好はもっとヤンキーっぽい方が良かったか。
見せられた招待状にも『平服でお越しください』って書いてあったし―――
とりとめのないことを考えていると、通りの向こう側から目立つ黒塗りの車が現れる。
……知らないけどきっとあの車だ。ヤンキーってデカい車が好きだと聞くし。
背中をぴんと伸ばして立っていると、予想通り黒い車が前で停まる。
運転席から降りてきた男性に、俺は頭を下げる。
「はっ、初めまして! 私、お嬢さんとお付き合いさせて頂いている―――」
言いかけた俺は、何か違うとようやく気付いた。
降りてきた男性は紺ブレザーと白い手袋。早い話が運転手の人だ。
運転手が後部座席のドアを開けると、すらりと長い脚が外に出てくる。
思わず見惚れた俺の前に出てきたのは、赤いドレスに身を包んだ犬吠埼。
金髪を綺麗に編み込み、一部を片側に垂らしている。
「よお、待たせたな。準備はできてるか?」
見た目の非日常感とは裏腹に、口を開けばいつものこいつだ。
「お前、凄い恰好してるな。俺、普通の服だけど大丈夫なのか?」
「大丈夫だけど、せめてシャツの裾はしまっとけ」
「シャツインかよ」
……まあ、かしこまった場ではそういうものなのだろうか。
俺が納得するより早く、犬吠埼がシャツの裾を掴んでズボンにグイグイ入れ始める。
「うわっ! お前、なに―――」
「ほら、時間ねえんだからジッとしてろ」
そうは言うけど、これってズボンに手を突っ込まれている訳で、むき出しの肩とその下のたわわな果実が目の前にあるこの状態は―――
……いかん。ジッとしてても一部がジッとしてない惧れがある。
「2・3・5・7・11・13……」
素数を31まで数えた頃、犬吠埼が俺の背中をバンと叩いた。痛い。
「よっし、これでいい。さあ早く車に乗れよ」
「お、おう……それじゃ世話になるぞ」
―――悪寒。
刺すような視線を感じて振り向くと、リビングのカーテンの隙間からトト子が殺し屋の目で覗いている。
トト子の口元は『死・ね・ば・い・い・の・に』と確かに動いた。
「おい、市ヶ谷。どうした!」
車の中から犬吠埼が叫ぶ。
「悪い、何でもない」
……そう、これからの婚約破棄に比べれば何でもない。
ちょっと今晩の兄妹会議のことを考えていただけだ―――
俺は溜息をつきながら、車の座席に身体を滑り込ませた。