42 俺は決め顔でそう言った
月曜日の朝。
トーストにジャムを塗りながら、制服姿のトト子がうさん臭げに俺を見る。
「お兄、なんでまだパジャマなんだ。可愛さアピールなのか」
「今日は学園祭の代休で自由登校だ。あとでのんびり図書室に顔を出すさ」
「なんかズルいな。お兄、クルちゃんと遊んでただけだし」
お兄ちゃん、ちゃんと働いていたんだが。
まあ、普段の授業と比べれば遊んでるようなものではあるが。
「そういうお前こそ、ずっと犬吠埼に相手してもらってたんだろ。ちゃんと御礼は言っただろうな」
「当然だ。こう見えても私はお兄と違って社会性がある」
トト子が箸で目玉焼きの黄身を割ると中身がとろりと流れ出す。
「あの日の黒毛和牛を思い出す……舌の上で肉がとろける……私の心もとろけた……」
ウットリと目玉焼きを見つめるトト子。
学園祭当日の夜。
菓子谷家でごちそうになった木箱入りの牛肉は、正に背徳の味であった。
舌で溶ける牛肉に胡桃と3人、並んで震えたものである。
「……お兄、我が家の食卓にも黒毛和牛の導入を提案する」
「さすがにあんな高い肉は―――」
言いかけた俺は言葉を飲み込む。
普段、贅沢など求めないトト子が珍しくおねだりをしているのだ。兄として叶えてやらねば。
「普段の食費を節約して……月に一度くらいなら」
「……出来るのか」
トト子の真剣な眼差しに、俺はゆっくりと頷いた。
「当分、夕飯のメニューは玉吉ストアの特売品を軸に据えよう。お茶もペットボトルは厳禁だ。鶴瓶の水出し麦茶を常備する」
「それだけで行けるのか?」
「それだけじゃ無理だな。個別のメニューも一つ一つコストダウンを考えよう」
まず、一番手を出しやすいところでは―――
「そうだな。俺の弁当のブロッコリーとささみは、モヤシと鶏胸肉に変更だ」
「構わん、一刻も早くそうしろ。むしろモヤシだけでいい」
トト子のきっぱりとした口調から強固な意志がうかがえる。
なにしろ愛する兄の弁当すら切り捨てる覚悟なのだ。
「これ以上は食卓全体に影響が出るぞ。例えば今食ってるベーコンエッグだが」
「これがどうなる」
トト子は手元の皿に視線を向ける。
「次回から卵はMSサイズ。ベーコンの代わりに、巨大な塊で売ってる謎ハムを薄切りにして用いることになる」
「謎ハム……」
呟いたトト子はベーコンをじっと見つめると、口の中に放り込む。
ついでに俺の皿からベーコンを奪うのも忘れない。
「よし、我慢しよう。他には?」
「アイスもハーゲンダッツなどもっての外。ホームランバーが精々だ」
「ハーゲンダッツなぞ食わせてもらってないぞ」
「ん? でもほら、こないだ仕送りの日に買って―――」
……あ。そういえば胡桃と二人で食っちゃったんだ。
俺の顔をジト目でのぞき込むトト子。
「……それはお兄の小遣いで買ってこい。抹茶だぞ」
「つ、つまりだな、そういった我慢を乗り越えて、月に一度の個体識別番号入りの霜降り和牛が手に入るということだ」
「その牛肉のパックに……生産者の顔写真シールは貼ってあるのか?」
「それはトト子次第だ」
トト子は口元にジャムを付けたまま、眉根を寄せて考え込む。
「……お兄、第一回目はしゃぶしゃぶだ。クルちゃん達も呼ぶぞ」
「分かった。遠慮なく霜降らせよう」
と、テーブルに置いたスマホが震える。
チラリと視線を送ったのに気付かれたか、カップスープを啜りながらトト子が不審げに俺を見る。
「……お兄、最近やたらスマホを眺めてニヤニヤしてないか。正直キモイ」
「はっはっは。お兄ちゃんがキモイなんて、相変わらずトト子は照れ屋さんだな」
まったくトト子も素直じゃない。これが思春期ってやつか。
俺がスマホを見てニヤニヤ?
……そういや最近、矢崎と同窓会の件でLINEのやり取りをしてるが、まさかそんな。
再び震えるスマホ。
思わずソワソワする俺に、トト子が冷たい口調で言い放つ。
「女か」
「へ? いやいやいや、人聞きが悪いな。ただの友達だぞ」
カップスープを飲み終えたトト子は、コトンと音を立てマグカップを置く。
「……ってことは本当に女か。お兄、色気付いたな」
トト子は食器を重ね、時計を見ながら立ち上がる。
「遊びもいいけど、クルちゃんにはバレるなよ」
「胡桃は関係ないだろ。それとトト子―――」
良いながらスマホに目をやる。
メッセを送ってきたのは矢崎ではない。
思いがけない名前に俺は首を傾げた。
「何だお兄」
「―――今日の夕飯、何がいい?」
トト子はしばしその場で立ち尽くす。
しばらく考え、ようやく考えがまとまったのか。
スカートをなびかせ振り返る。
口元にジャムを付けたまま。
「……から揚げ。ショウガの効いたやつ」
――――――
―――
「おはようございます。先日はお疲れ―――」
図書室の扉を開けると、両手を広げた小抜委員長が目の前にいる。
「おはよう、市ヶ谷君!」
俺を抱きしめようとする腕から逃れると、テーブルを挟んで距離を取る。
「委員長、朝から元気ですね」
「……市ヶ谷君。いま私は喜びのハグをしようとしたのだけど」
小抜委員長は行き場の失った腕で自分自身を抱きしめながら、不本意そうにに首を傾げる。
「私にはあなたが逃げたように見えたわ」
「そういう解釈もあるかもしれません。そんなことより、なにかいいことでもありましたか?」
「微妙に納得いかないけど、この新聞を見て頂戴」
テーブル越しに受け取った新聞の地方欄。
割と大きく学園祭の記事が出ている。
「こないだの学祭、取材が来てたんですね」
「写真を見て頂戴。図書室のイベントが写ってるわ」
写真はオオカミの扮装をした男子生徒に、女の子が飛び乗っている光景だ。
題名は―――来場者の子供と交流をする生徒。
「……これ、俺と胡桃ですね」
胡桃、来場者の子供扱いだ。
「実は私とボランティア部長は夕方のニュースにも出たのよ。早速、まとめサイトにも紹介されてるわ」
「え、まさか炎上とかしてませんよね」
またもテーブル越しに受け取ったiPadには、ネット掲示板のまとめサイトが映し出されている。
記事の名前は―――
【画像あり】最近の一般的なJK図書委員がこちらwwww
タイトルの時点で不安しかないが、記事の冒頭にはテレビのインタビューを受けている小抜委員長の姿が。
……なんか普通の真面目そうな記事だ。
安心しながら、掲示板住民のコメントを読んでいく。
『この子なんかエロくない?』
『教師の平均不祥事数を増す女』
『絶対、愛人ってあだ名がついてるはず』
『この図書委員は貸出できますか?』
『隣の眼鏡っ子がメス顔してる件』
『絶対この二人出来てる』
……なるほど。ネット民もなかなかの慧眼揃いだ。
心底ろくでもないコメントばかりだが、悪名は無名に勝るとの言葉もある。
別に悪いことしてるわけでもないし、当事者がご満悦ならそれもありか。
しかし結構書き込みがにぎわってるな。えーと、続きもあるぞ……
『ふう……お前ら冷静になれよ。真面目な部活動だろ?』
『見切れてるロリっ子ヤバくね?』
『ロリっ子制服着てるじゃん。まさか生徒?』
『入学届出しました』
『通報しました』
……前言撤回。
やはりネット民はクソだ。全員死ねばいいのに。
「先輩、削除申請出しましょう。今すぐに」
「あら、どうして? 皆さん、喜んでくれてるじゃないの」
「この喜ばれ方は想定しているものと違いません?」
「だってネットに晒された私の写真に、いい年した殿方が欲情して卑猥なコメントを書き込んでいるだなんて……控えめに言って興奮するでしょう?」
「控えめに言ってそれですか?」
……前々から思っていたが。この人は公共の電波に乗せちゃダメな人だ。
俺の引きぶりに気付いているのかどうか。
小抜委員長がテーブルに身を乗り出してくる。
「この実績を学校に大々的にアピールするわ。ネットで大反響というのもアピールポイントになるはずよ」
「委員長、お願いですからネットの件は黙っときましょう」
「でも、この恥ずかしい書き込みが職員会議で配られたりするのよ。ワクワクが止まらないと思わなくて?」
「その性癖は分かりませんが、なおさら黙りましょう。学校は性癖を開示する場所じゃないですからね?」
……この人はどう言えば分かってくれるのか。
絶望的な戦いに挑もうとした矢先、部屋の扉が開く。
「おはようございま―――」
そこには段ボール箱を肩に担いだ犬吠埼の姿。
委員長の姿を見つけると、そそくさと俺の後ろに隠れる。
「どっ、どうも先輩ちわっす!」
「あら、犬吠埼さん。せっかくだから、こっちでお話しません?」
「すいません、仕事がまだありますので! おい、市ヶ谷これ頼む!」
片手で軽く放った段ボールを受け止めた俺は―――
「重っ!」
段ボールに詰まった本の重さに仰向けに倒れそうになる。
と、力強い二本の腕が俺を身体ごと抱え上げた。
「なんだよお前、男のくせにだらしねえな」
「お前の腕力を基準にするなよ。俺、普通の男の子だぜ?」
俺を抱えるのは犬吠埼。何で俺、女子にお姫様抱っこされているのか。
いやでも、この力強さに包まれた感覚は悪くはないかも―――
カシャ。物思いを遮るようにシャッター音が響く。
見れば小抜委員長が俺達にスマホを向けている。
「……なんで写真撮ってるんですか?」
「ごめんなさい、二人の仲良さげな様子に我慢できなくて。……私ここに居たらお邪魔よね?」
「邪魔なのは確かですが。誤解ですよ?」
「安心して。私、xvideoにタグがあるジャンルなら大抵理解があるから」
その情報いらないし、少しはNG作って欲しい。
「じゃあごゆっくり。年寄りはドロンするわね」
そんなオヤジ臭い言葉をどこで覚えたのか。ドロンポーズまですると、委員長はニヤニヤしながら姿を消した。
「……相変わらずだな、委員長」
「そういや市ヶ谷。こないだは榛名をありがとな。あいつ、喜んでたぞ」
「お、おう、こちらこそトト子がお世話になったな」
……何気ない会話だが、俺はどのタイミングで降ろしてもらえばいいんだろう。
女子にお姫様抱っこされてお話しするとか、xvideoにさえタグがあるとは思えない。
「それで今朝のLINEの話だけど。片付けが済んだら時間あるか?」
「特に予定はないけど。なんかあるのか」
そう、今朝のLINEは犬吠埼からだ。
普段はこいつから連絡なんて滅多にない。
犬吠埼はここで俺の顔が近くにあるのに気付いたのか。気まずそうに顔を逸らす。
「ちょ、ちょっとお前に話があってさ」
「話って、学校じゃダメなのか」
「ちょっと学校じゃ……。どこかで待ち合わせてくれないか」
……何だろう犬吠埼のこの態度。
ひょっとして……ついに来たのか!? 俺にモテ期がっ……!
逆お姫様抱っこから始まる恋だってあってもいい。
「勿論構わないぞ、犬吠埼。俺とお前の仲だろ?」
俺は決め顔でそう言った。
犬吠埼の腕の中で。