第41話
リリケラの激励とも皮肉とも付かない言葉を背に、意を決してイオは縄梯子に手をかけ、満月のドアへ向かって昇り始める。誰に言われるまでもない、カリストを護るのは自分しかいない……そんなことを自分に言い聞かせながら何段か昇ってから何となく下を見ると、なぜかもう草木の1本1本が見分けられないほど高い場所へ到達していた。
「なっ!? た、高い……けど、こ、こんなのきっと仮想空間内でのイメージに過ぎないっ! ぜんっぜん怖くないっ!?」
1段昇るたびに、地表はどんどん遠くなっていく。墜ちたらどうなるかなんて考えもしない。縄梯子の半分を過ぎた頃には、もはやイオの眼下に拡がるのは真っ白な雲海だ。空を抜けて雲の彼方にまで昇ってしまったものらしい。一方、満月のドアは近付いても相変わらずの大きさで、まったく厚みも立体感もないし、どう見ても少しばかり巧妙に描かれている程度の張りボテのセットのようなチープさである。残りの数段をササッと昇りきり、イオはドアの中へと転がり込んだ。
微かな意識の途絶の直後、唐突にパッと目の前が明るくなり、イオは思わず手で目元を覆う。そして次に訪れたのは割れんばかりの大喝采と拍手の嵐だった。
「なっ!? 何だっていうのよっ!?」
恐る恐る目を覆った手を退かして周りを見ると、なんとそこは大物アーティストがコンサートを開けるレベルの、全週が客席になった巨大なアリーナのような場所で、自分がセンターフィールドの舞台の上でスポットライトを浴びていることを知った。こんな立派なアリーナで数万人のオーディエンスに囲まれ、ギターを弾けたら幸せだろうとイオはチラッと思いを馳せてしまうが、先ほど大喝采と拍手で迎えられたにも関わらず周囲を取り囲む客席に人影はなく、今は耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
「こ、これは仮想空間内でのイメージ、仮想空間内でのイメージ……!」
何が何だか判らないが、とにかく自分を落ち着かせることに集中するイオ。見聞きしたものの一部でも現実だと錯覚してしまったら、とてもマトモではいられそうにない。あまりにも超現実的すぎる。まるで悪夢だ。そんなイオを嘲笑うかのように再び大喝采が巻き起こり、続いてステージ上の別の場所にスポットライトが向けられた。
「なっ!? カリストっ!?」
そこにはスポットライトを浴びながら四方八方ににこやかに手を振るカリストの姿があった。なぜかパリッとした白と黒の縦縞のスーツを着て、真っ赤な蝶ネクタイまで締めている。さらに高まる喝采の中、唐突にカリストはマイクを取り出すと、客席に向かって喋りだした。
『レディ~スエ~ンジェント……』
気の抜けたカリストのトークは途中からはハウリングが酷くなって聞き取れなかったが、ますます喝采と拍手が大きくなった。カリストが悠々と客席に対して静粛を求めるようなゼスチュアをすると、即座に客席はピタッと静まりかえった。
『本日のゲストは、だあい好きなイオで~す♪』
「ちょ、ちょっと!? カリストっ!? あんたなにやってるのよっ!?」
イオの声は再び巻き起こった雷鳴のような大喝采と拍手の渦に呑み込まれ、カリストには聞こえていないようだ。カリストはイオにニッコリと微笑みかけてから、いつの間にかステージの真ん中に設置されていた玉座のような大仰なイスに座るよう、ゼスチュアで促す。
「い、いや、だから、あんたなにしてるのよっ!?」
イオは混乱し通しだ。もちろんこれが仮想空間内での出来事であり、なんら物理的な作用や現実性が無いということは判ってはいる。「この先にカリストがいる」とリリケラが言っていたが、どうやらこれが「カリストの内側」であるらしかった。だがしかし、それでも意味が判らない。こんな狂ったような仮想世界がカリストのココロの中だというのだろうか?
カリストは依然としてニコニコしながらイオがイスに座るのを黙って待っている。こうして見た限りでは、仮想空間内ではあるが、やはりカリストは普段通りのカリストのように思える。久々に見たような気がする愛するカリストの微笑みにイオは抗いようもなかった。
「わ、判ったわよっ! 座ればイイんでしょっ!?」
イオが渋々イスに座るとまた大きな喝采が起こり、すぐにピタッと静まった。カリストは気分よさげにマイクを掲げて司会進行(?)する。
『えへん……親子連れ、花柄シャツにジーンズはいて赤いヘアーに色グラス、どっちが~親だ~♪』
「!?!?」
イオにしてみれば意味不明だったが、カリストの妙な名調子っぷりに無人の客席がドッと湧いた。カリストは満足げにニヤニヤしてからイオに向き直り、続ける。
『イオがわたしの中に入るために、今からいくつかの問題を出しま~す♪ 全部に正しく答えれたら、わたしの中に入れるけど、もし1問でも間違っちゃったら……』
そしてカリストはイオの背後を指さす。イオが振り返って見ると、そこには純白の天蓋で覆われた豪奢な造りの大きなベッドが置いてあった……いわゆる「お姫様ベッド」というヤツだ。イオはたちどころにイヤな予感がする。
『もし1問でも間違っちゃったら、あそこでずっと、わたしとハダカでチュッチュってしま~す♪ だから全問正解しないほがイイかも~♪』
「あんたねえ……」
心底から情けない気分になるイオ。この期に及んでもカリストはまだそんな冗談じみたことを言っているのだから気楽なものだ。一方で、カリストの提案に僅かながらでも惹かれてしまっている自分に対しても情けなさを感じた。ここは仮想空間なのだ。イオが望むのは、現実世界でカリストと想いを交わすことであって、このような虚構世界での出来事などイオが何度となく夢見た変な妄想と大差ない。
「ずっとって言ったって、あんたが死んじゃったらそこでオシマイなのよっ!?」
『チュッチュってしてる間は、たぶんずっとだいじょぶだと思うんだけどなぁ♪』
カリストの言葉がなぜか少し引っかかったが、問い質すよりも前にカリストは懐中から問題が記入されたカードを取り出したため、その機会を逸してしまった。