第40話
光の柱がフラリと揺らぎ、イオが歩を進めていた方向とは別の方向にゆっくりと動き始めた。足元の草花を倒すことなく、風が撫でるような足取り(?)で進んでいく。
「ま、待って」
特に付いてくるようにとの言葉はなかったが、慌ててイオが追従すると、確かに光の中からリリケラの幼くも傲岸な声が聞こえてきた。
『今は細かな部分は無視するとして、とりあえずあなたはカリストを連れ還らなくてはいけない』
「ちょ、ちょっと待ってよっ! だいたい、ここって何なのよっ!? カリストはどこっ!?」
仮想空間内での事象ではあるが、次から次へと目にする想像を絶する事態に際してイオは軽いパニック状態に陥っていた。そも、カリストに同期直結を試みたはずなのに、なぜリリケラが出てくるのかが判らない。イオとカリストの間には何も介在していないはずで、だからこそ「同期直結」と呼ばれているはずなのだ。
『ここはバイオロイドとバイオロイドの“隙間”にある仮想空間……詳しい説明はまた別の機会に譲るとして、状況的にはあなたは今の時点ではカリストと同期直結できてはいない』
「じゃあ、早くカリストとコンタクトしないとっ……!」
『うふふ……愚かしいイオ。気ばかり急いても仕方がないわ。こういう場合は正しい手順を踏まないと。カリストを救いたいのでしょう?』
「っていうか、あんたなら簡単にカリストを連れ戻せるんじゃ……?」
リリケラの持っている破滅的な性能と、与えられているであろう強大な権限を考えれば、それこそバイオロイドの生殺与奪は自由自在なはずだとイオは考えた……が、リリケラの返事はつれない。
『愚かしくも可愛らしい私のイオ。それはできないことはないけれども、今はしない』
「なっ!? やれるならやってよっ!?」
相変わらずリリケラの発言は真意不明で、イオの混乱は深まるばかりだ。いまだに何者なのか良くは判らないが、もはやイオの中では、リリケラは善悪を超えた天使とも悪魔ともつかない、ただ混迷と変化をもたらす存在になりつつあった。まるで北欧神話に出てくるロキのようなものである。
『もちろん私がカリストを救うことは容易なことだけれども、それでは意味がない。もしかしたら私がカリストを救って、そのまま連れ去ってしまうかも……うふふ……そんなの厭でしょう? だから、あなたが自分のチカラで救わなくてはならない』
「エウロパもそんなようなことを言ってたけど、どうして私じゃなきゃダメなのよっ!? ずっとカリストの世話をしてる自認はあるけど、保全権限も持っていないし、そういう訓練だって受けてない……」
カリストを想う気持ちは誰にも負ける気がしないが、こういう作業に関して自分に適性があるとは思えない。むしろ苦手なくらいだ。
「だいたい、もう時間もない……もし作業に失敗したら次のチャンスはないかもしれない……」
泣き言じみた文句を言うイオに、光の柱は歩みを止め、おそらく振り返り、ハッキリとした口調で言う。
『私の可愛いイオ。こういう時だからこそ、今までがそうであったように、あなたがカリストを護らなくてはいけない。あなたがカリストを想い続けている限り、どのような艱難も障害も問題にはならない。あなたが理解するまで、何度でも言うわ。あなたがカリストを救うの』
リリケラの言葉は少しも説明になっていなかったが、そこに普段のような冷たい響きはなく、妙な説得力と揺るぎのない力強さがあった。納得できない一方で、イオにも不思議な自信が湧き上がってくる。
「ん……よく判らないけど、あんたがそうまで言うなら……そんな気がしてきたかもしれなくもないかも……」
『聡いわ、無知ゆえに勇敢な私の可愛いイオ。あなたはそうでなくてはいけない。カリストもそれを望んでいる』
相変わらずの小馬鹿にしたような言い回しで満足げに呟き、光の柱は再び草原の上を進み始めた。
『カリストの元へ案内してあげる……あの娘を助けたいなら付いてきなさい』
それからはふたりは会話をすることもないまま、ややしばらく草原を移動した。体感時間では数時間は経ったようにも感じられたが、実時間にすれば瞬きほどの時間ですらないだろう。やがて光の柱は唐突に立ち止まる。周囲には特に何も見当たらないが、イオもそれに従うしかない。
『着いたわ。この先にカリストがいる』
「この先? さんざん連れ回してくれた挙げ句にそんなこと言ったって、何もないじゃないっ!?」
ふたりの周囲は依然として見渡す限りの大草原が拡がっているばかりで、それっぽい目印や目標物は見当たらないし、もちろんカリストの影も形もない。戸惑うイオを尻目にリリケラは普段と同じように嗤う。
『うふふ……愚かしいイオ。頭上をご覧なさい?』
「え?」
リリケラに言われまま空を仰ぎ見たイオは、想像だにしていなかった光景に苦笑いするしかない。
「……シュールというか何というか」
薄暮の空に輝いていた巨大な満月に開け放たれた木枠のドアが付いており、そこから20段ばかりの縄梯子が垂れているのだ。
「この満月、ずいぶん近くにあったのね……」
『仮想空間ですもの。すべては単なるイメージでしかないわ』
「ここを上がった先にカリストがいる……えーっと、すなわちカリストに直結することができるってことよね?」
そう言ってイオが光の柱を顧みると、そこにはもう何者の姿もなかった。思わず声を張り上げるイオ。
「リリケラ……!?」
『私の可愛いイオ。私が手助けできるのはここまで……。“出来の悪い子ほど何とやら”とは言うけれども、少しばかり甘やかし過ぎたかしらね……うふふ』
遠くからリリケラの嗤い声が聞こえたが、それもすぐに微風のように掻き消えた。