第39話
僅かな嘲笑を含みながらも、リリケラの声はイオに囁き続ける。
『カリストを救いに来たようだけれども、何をどのようにすれば良いのか、具体的な方法は得ているのかしら……?』
「そ、そんなの……何とかしてみせるわよっ!」
反射的に強がってはみたものの、カリストを連れ還るために何をすればいいのか、正直なところイオは判っていない。そもそも、こんな仮想空間に創られた大草原に入り込むことからして想定外だった。
『愚かしいあなたが戸惑う気持ちは判るけど、それにしても準備と覚悟に欠けているとは思わないかしら?』
「た、確かに……準備はできてなかったかもしれないけど、覚悟ならあるわっ!」
姿の見えないリリケラに向かって、薄いムネを叩いて宣言するイオ。カリストのためなら、どんな苛酷な試練にでも立ち向かう気概、立ち向かえる自信がある。
だが、やはりリリケラの声が酷薄に響く。
『うふふ……あなたの覚悟のほどは判ったわ。そういうことなら……』
リリケラの悪戯っぽい嗤い声にイオは厭な予感がしてくる。
『例えば……カリストを救うために、あなたは自分の命を差し出せるかしら? カリストが目を覚ましたときに、あなたは死んでしまっていたとしても?』
案の定だ。どうせそんなトコロだろうとイオは内心で毒づいた。だが、カリストを還すためにそれしか方法がないのだとしたら、その答えは決まっている。
「も、もちろんよっ! バイオロイドなら誰でもそうするし、他にカリストを救う手段がないなら……」
『愚かしいわ……私の可愛らしいイオ。滑稽なまでに愚かしい憐れな22世紀のロミオとジュリエット。そもそも、あなたの犠牲でカリストが救われることはないわ』
リリケラは心底から呆れ果てたような嘲笑でイオの覚悟を一笑に伏した。理不尽な問答にイオはイライラしてくるが、ヘタなことを言い返してリリケラの逆鱗に触れるのは憚られるため、黙って我慢するしかない。それ以上に、リリケラの不遜で高慢な言葉の端々には常に何かしらの暗示めいたヒントが隠されているような気がしていた。ここは耐えて好きなように言わせておいた方が得策だろう。
『だいたい……あなたの命と引き換えに、自分が生き返ることをカリストが望むと思う?』
「そ、それは……」
イオは返答に詰まったが、実際のところ答えるまでもない。カリストの性格上、誰かの犠牲の上に成り立つ自身の安寧を望んだりするわけがない。ましてや愛するイオが犠牲になったとあれば、その事実は他に例えようもないほどの深い悲しみとしてカリストを責め苛むことだろう。
『だけれども、すでにカリストの今の生活、人生は、常に多少なり誰かの犠牲の上に成り立っている……それにカリストは気付いてしまった』
「えっ……? それってどういう……?」
すでにある程度の「カリストに関する事情」を知っているイオには、リリケラが何を言わんとしているのかが多少は理解できた。何てことなさそうな今のカリストの平穏な生活は、影となって外敵から護ってくれているガニメデやエウロパの尽力に依る部分が大きい。もちろん、それ以外の点ではイオに迷惑のかけ通しだ。
だが、それは会社の策謀じみた思惑によるものであり、カリストが望んでしていることではないし、むしろカリストは被害者とも言える。もちろんカリストの性格を考えれば、ガニメデやエウロパに対して申し訳なく思うのだろうが、これは仕方のないことなのだ。惚れた弱みがなかったとしても、少なくともイオはカリストの不甲斐ない境遇を責める気にはならないし、おそらくガニメデやエウロパも、突き詰めればイオと同じ気持ちだろう。
それを踏まえてもなお、何よりイオを混乱させたのは、リリケラが言っていることと、今のカリストの生き死にに何か直接の関係があるのかということだった。
「あ、あんただって、あのコが会社の都合で今の生活をさせられてるのは知ってるでしょ? こんなトラブルに遭って死にかけになってるのだって、元はと言えば……」
『だから私はあなたたちを手篤く保護してあげようとしたのに、愚かしくも拒絶するから』
いよいよ面白そうにリリケラは嗤う。彼女の言う「手篤い保護」とは、どうやらカリストやイオを辱めようとした以前の一件のことらしい。
「なっ!? じょ、冗談じゃないっ! あ、あんなの黙って受け容れるほうが、よっぽどどうかしてるわよっ!?」
『うふふ……どうだったかしらね……』
しらばっくれるリリケラであったが、だが、もしあのままカリストがリリケラに連れ去られていたら、確かに今のような状況にはなっていなかったかもしれない。
『とは言え、あなたもカリストもそれを望まなかったのだから仕方がないわ……私だってあなたたちが黙って連れ去られるとは考えていなかったし、それを易々と受け容れるような軽薄な娘に育ったとは思っていない。いずれにせよ誰も正確に未来を予見することができないのだから、私たちはあなたたちを責める気にはならないし、むしろ……』
どのような理由からか、イオは一瞬だけリリケラの声に悔恨と憐憫の響きがあったことに気付いた。
「むしろ?」
リリケラが垣間見せた僅かな感情の揺らぎを目敏く拾い上げ、思わず言葉の続きを促すイオだったが、ひとつ嘆息してリリケラは嗤う。
『うふふ……これはまた別の時に論ずるべき話題かしらね……今の時点であなたが気にする必要はないわ。そんなことよりも……』
なおも闇雲に草原を直進し続けていたイオの目の前に、チラチラとした光の粒子のようなものが現れる。思わず足を止めたイオだったが、その光の粒子はたちどころに密度を増していき、やがて光のカタマリになり、最終的には実体のない揺らぐ白色光で創られたような、まばゆい柱状になった。その「光の柱」はイオの身長より少し低いくらいの全高で、太さも一抱えあるかどうかといったところだ。目も眩むほどの光量ではあったが、不思議なことに顔を背けたくなるような眩しさは感じられない。
「な、なによコレっ!?」
いくら仮想空間の中とはいえ、あまりに得体の知れないオブジェクトの突然の出現に狼狽するイオであったが、その「光の柱」が発する穏やかな輝きと暖かみは実に心地良く感じられた。思わず手を伸ばし触れてみようとしたが、刺すようなリリケラの警句が発せられたので慌てて手を引っ込めることになる。
『私に触れることを赦したかしら? 触ったとしてもどうというわけではないけれども』
「私に? コレって……あんたなの?」
ようやく姿を現したかと思えば、シュールと呼べるほどに突拍子もないリリケラの姿に、思わず目を丸くするイオ。確かに「光の柱」の大きさは、おおよそ現実世界でのリリケラと同じくらいの大きさに見えた。
『とりあえず、そう思ってもらっても構わないわ。仮想空間内での姿に深い意味なんてないけれども』