第9話
ヴァレンタインは注文したコーヒーに砂糖をドバドバ入れながらかき混ぜている。甘いコーヒーからカリストを連想してしまい、イオはムネが潰れそうになってしまった。
「なんか元気ないね? 昨日はあんなに……」
と、そこまで言ってヴァレンタインは言葉を濁す。イオが泣きそうな顔で肩を小さく震わせていることに気付いたからだ。潤んだ瞳からは、今にも涙の雫が零れ落ちそうになっていた。
「何というか……まぁ、何かと多感な時期だろうからね」
「なっ、何でも……ない……」
顔を擦って、俯くイオ。傍目から見れば世界の終わりでも見たかのように顔色だ。ヴァレンタインは何度かクチを開きかけては閉じを繰り返してから少し困ったように言う。
「……何があったのかは想像つくけど、訊かないよ」
「何でもない、何でもないのっ!」
年頃の少女が「何でもない」と言い張って泣きそうな顔をしている場合、おおよそは将来のことか恋愛のことで悩んでいるものである。ヴァレンタインは正直なところ他人の人生に口出しするのを好まない人間なのだが、自分から接触を図った手前、捨て置くこともできず、何よりイオに同情さえ感じている自分に驚く。
もちろん少なからず打算はある。イオを護ることはカリストを護ることであるし、ひいては自分の面目も立つというものだ。ただ、そういう考え自体が言い訳じみた自分への照れ隠しとも言えなくもない。カリストとイオの幼気で純粋な「恋愛のようなもの」の行く末を案じていないかといえば、それを否定しきる自信はヴァレンタインには無かった。
「ねえ……サン=テグジュペリ、知ってるかい?」
明るい口調でヴァレンタインは唐突に切り出す。イオは少し顔を上げて記憶を辿り、応える。
「……“星の王子さま”……を書いた人だっけ?」
イオの回答に大きく頷くヴァレンタイン。
「そう。読んだこと、ある?」
「ないわ……あまり文学は好きじゃないから。SFは良く読むけど」
「なんと!」
大仰に驚きの声を上げてヴァレンタインは革ジャンの下から1冊の文庫本を取り出した。
「偶然ここに“星の王子さま”がある! 貸してあげるよ」
「バカみたい」
思わず少しだけ笑顔を見せてしまうイオ。ヴァレンタインの差し出した本の表紙には、サン=テグジュペリが自ら描いたシンプルで暖かい線の「王子さま」の装画が金箔打ちされている。読んだことはなかったが、この可愛らしいイラストはどこかしらで目にした憶えがあった。
「哀しいオハナシなの?」
「読めば判るよ。そんなに難しい内容じゃない。子供が読んでも理解できるように書いてあるからね」
「うん……あ、ありがとう。ちょっと借りるわね」
表紙の「王子さま」は、少し哀しそうな不思議そうな顔で、黙ってイオを見つめている。
「……バイオロイドとは言え、君らはまだ子供なんだ。これからもずっと」
ヴァレンタインの口調には微塵も馬鹿にしたような響きや偉ぶるような態度はなかった。イオも反論するような気にはならない。それは事実だからだ。イオもカリストも永遠の未熟、永遠の思春期なのだ。
ヴァレンタインのトボケたような心遣いにイオは僅かに気分が晴れた気がした。やはりヴァレンタインは「こちら寄り」の人間なんだと確信する。それに、人間にここまで優しくしてもらったのも初めてのことだ。そう思うと、また例によってイオは気恥ずかしくなってくるのだった。
「……なななな何が“これからもずっと子供”よ! こっ、このロリコン! 変態っ!」
ヴァレンタインが家まで送ろうかと申し出てくれたのを「変態に住んでるところを知られたくない」という理由で断り、イオは独りで帰宅した。
イオもカリストが住んでいるのと同じような独居用ワンルームマンションで暮らしている。ただ、潤沢な生活資金(と言うか給料)を与えられているため、人間社会で考えれば恐ろしく裕福な生活をしていると言える。
立派なホームシアターセットや音響機器、使っているMTなんかも自社製の最上級モデルであるが、何より目に付くのがスタンドに掛けられて並べられた10本以上のエレキギターだ。イオの最も傾倒している趣味はギターを弾くことなのである。
これはカリストが珍奇な特技に通じているのと同じように、イオに与えられた一種の「才能」だ。イオはギターを良く弾き、そのコレクションにも余念がない。
「ただいま、ブラッキー」
イオは最も目立つ場所に置いてある1本のギターに声を掛ける。かつて「ギターの神さま」と呼ばれた英国人ミュージシャンが愛用していたギターの限定復刻モデルだ。復刻モデルとは言え、生産されたのは150年以上も昔であり、イオは会社から「5年分の賞与」を前借りしてオークションで競り落としたのだ(ちなみにオリジナルのブラッキーは大英博物館に所蔵されているらしい)。
そんな貴重なギター・ブラッキーでさえ、イオにとっては2番目くらいに大切なモノに過ぎないし、1番目に大切なモノに比べれば些末な存在だった。
イオはヴァレンタインから借りた「星の王子さま」をサイドテーブルの上に置くと、制服を脱いで、部屋着にも着替えず下着姿のまま、ぐったりとベッドの上に転がった。
「……カリスト……いま何してるのかな……」
枕に顔を押し付けながら、イオの胸の中はカリストへの想いで満たされていく。何があってもカリストのことばかり考えている自分が可笑しくもあり、なのに巧くできなかったことが哀しい。
バイオロイドが内蔵している電源機関である対消滅炉は無尽蔵にエネルギーを出力することができるが、反面、放熱量が甚大であるため長時間の高負荷稼働には不向きであった。そのため、バイオロイドは対消滅炉の自壊を防ぐために、「眠気」や「疲労感」という形で連続稼働を抑制するようにされているのだ。夜を徹してカリストの一件を処理し、その後、当のカリストとの気持ちの行き違いもあり、心身共に疲れ切ってしまったイオは、自分でも気が付かないうちに眠ってしまっていた。
「はぁ……カリスト……」
「……ある意味、すごいバカップルぶりだよね?」
「もうバカでも何でもイイから、変態が消えてカリスト、ここに戻ってきてよっ!」
「“星の王子さま”読んでごらんよ?」
「う~ん……ロリコンだと思ってたけど……もしかしてショタコン? うわ……ホンモノの変態だわ……」
「ちなみに本文中のレプリカギター(シグネイチュア)“ブラッキー”は、クラプトンのギターだね(競売に出しちゃったけど)」