第4話
ふたりは食事の後しばらくパリ広場を歩きながらお喋りして、それからブランデンブルク門の下でサヨナラすることにした。名残惜しいと言えば名残惜しいが、明日はカリストのバイトの日、すなわちイオが喫茶店に遊びに来る日でもある。ちょうど24時間後には再会できるのだ。
それでも華やかなベルリンから独りでポツダムに帰るカリストは、一種の喪失感に少しだけ寂しくなる。生まれ故郷を離れたくない。大好きな人が目の前にいるのに、それを振り切って帰れる気がしない。
「……やっぱし帰りたくないかも……」
「なっ!? いいい今さら、ななな何を言ってるのよっ!?」
「そだけど……アルバイト、明日の夕方からだし、もっとずっとイオといっしょにいたいよぉ……」
カリストは心底から寂しそうにイオの制服のソデを掴み、モジモジとしている。イオは一瞬だけ内心で快哉を叫んだが、カリストの柔弱さ以上に自分の惰弱さに腹が立った。カリストの願いなら何でも聞いてあげたかったが、一旦ナシにした話を呑むのもイオのポリシーに反することなのだ。
『バカっ! そんな下らない意地張ってないで引き留めなさいよっ! 私のバカっ!』……内なる声に耳を塞ぎながらイオは平静を装って言う。
「そ、そんなこと言ったって、もう仕方ないわよっ! わ、わた、私だって……その、ああああんたと…… ほらっ! いま帰らないと、夕日が沈んじゃうわよ? 暗い夜道をバイクで走るの危ないでしょ?」
私だってあんたと離れたくないんだから……そんな言葉を喉の奥に引っかけながら、歯切れ悪くカリストを諭すイオ。恥ずかしくって、とても言えそうにもない。
「明日になれば、またすぐに会えるんだから……ワガママ言わないのっ!?」
「……うん♪ そだよねっ♪」
イオの高説に素直なカリストはウンウンと頷き、容易に説得される。コレはコレでイオとしては少し残念に思わずにはいられないのだが、そんな態度はおくびにも出せない。
一方、気を取り直したカリストはバイクに跨りかけてから何を考えてか再び降り、ほとんどイオに接触寸前まで対面に近寄ったかと思うと唐突に両手をムネの前でパッと広げる。なんだか誰かを突き飛ばす寸前のような変なポーズだ。
カリストは少し顔を赤くしながら言う。
「イロイロ考えたんだけど、コレにしよっかなぁって♪」
「なにそれ?」
「イオも~♪」
カリストに言われるままイオは同じ姿勢を取る……と、カリストはイオの左右の手を、それぞれ自分の左右の手で握りしめた。ふたりの距離は完全に詰まりきり、もう顔と顔、唇と唇が接触してもおかしくない(というか、元から接触すべき)体勢となっていた。思わず息が詰まるイオ。
「ふっ!?」
「イ~オ~♪ ホントはギウギウってしたいけど、ちょと恥ずかしいもんねっ? だからコレでサヨナラのアイサツ~♪」
目の前にはカリストの夢見るような星の多い瞳、そして、微笑みを湛えた小さく柔らかそうな唇。どう考えても普通にハグするよりも気恥ずかしい体勢であるのは間違いないだろう……むしろいっそこのまま抱きしめてしまいたいとさえイオは思ったが、よりにもよってカリスト自身に両手を塞がれてしまっているのだ。……両手が塞がっていても、顔は自由に動くわよね? じゃあ……と、一瞬は思いはしたが、それも今のイオの根性と、無垢なカリストの様子から無理な話であった。
それでもふたりは少し躊躇いながらも、どちらからともなくオデコとオデコをくっつける。イオもカリストも、思わず目を閉じた。
同じ、空気を、吸って、吐く。
「イオ……だあい好き……♪」
カリストが、カリストにしては抑えめな声で、小さく囁く。少なくとも今は世界中でイオだけが聞くことを許されている、世界で一番、甘く優しい声。
「……わ、わわわわたわわたわたたわし」
「えへへ♪ イオ、そいじゃまたあした♪ オヤスミなさ~い♪」
「じゃじゃじゃじゃあオヤスミ!」
そしてふたりは目を開き、ゆっくりと手を離し、それぞれ一歩後退する。カリストは無言でバイクに跨るとニコッと笑う。
「そいじゃ行くね? ばいばい♪」
「うん。気を付けてね。ば、ばいばい♪」
夕暮れの中、人混みを縫って走り去っていくカリストの小さなバイクと後ろ姿を見送りながら、イオは内心で嬉しいような寂しいような、そして自分が少しずつ恥知らずになっているような気がして、思わず苦笑いする。
「でも……ちょっと恋人同士っぽい感じだったかも……うふふ……ふふ……」
まだ手に残るカリストの温もりを握りしめ、幸せな気持ちでブランデンブルク門を後にしようとしたイオだったが、雑踏の中に見覚えのある姿を確認し思わず足を止めた。なんという偶然か必然か、それは件のバイク男だ。と言っても、今はバイクには乗っておらず徒歩であるが。
ヴァレンタインもイオの姿を認めたらしく、何を思ってか軽く手を挙げて真っ直ぐに歩み寄ってくる。
「やあ。カリストは帰った?」
「何の用なのよっ!? この変態っ!」
気安く声を掛けてくるヴァレンタインに容赦なく罵声を浴びせるイオ。ヴァレンタインは諦めたような笑顔で肩を竦める。
「酷いなあ……客観的に見たら割とカッコイイと思うんだけど、オレ」
「馴れ馴れしく話しかけてこないでよっ! 私は今、制服着てるし、女子校生に雑踏で気安く声を掛けてくる大人なんて、どこから誰が見たってロリコンの変態じゃないっ!? それ以上近づいたら大声出すわよっ!?」
どうにもイオはヴァレンタインに対して必要以上に警戒心を抱いているようだ。
「中学生?」
「高校生っ!!」
「ちょっと無理がある」
「建前上は16歳ってことになってるのっ!」
イオは小さな握り拳を振り回して懸命に強弁するのだった。
「むふ~♪」
『……あんたって、基本、恥知らずよね』
「ふぇ? だあい好きな女のコと仲良くするの、ぜんぜん恥ずかしいことじゃないよっ?」
『……はぁ……(この想い、カリストに届け!』