intermedio
バイク青年は夕闇迫るベルリンの街中をバイクで突っ切り、商業区の路地裏に乗り込んでいく。入り組んだ細い路地裏を躊躇うことなく右に左にと軽快に走り抜けていく様は、それこそ絶滅しかかっているカフェレーサー然としたライディングだったが、もちろんスリルを求めて疾走っているわけではない……単に「寝床」に戻ろうとしているだけだ。
ややして3面を低層ビルに囲まれた人気のない裏路地の行き詰まりに辿り着くと、目立たない小さなシャッターを開けて650SSを手押しで転がして押し込む。
薄暗いガレージの中にはカリストが見たら気絶しかねない見事な旧車コレクション……トライアンフT120やBSAゴールドスター、ロイヤルエンフィールド・ブレット、BMW・R80、ホンダCB750……などの名車がズラリと並んでいた。むしろ旧車と言うよりも、骨董品の域に達しているとも言えそうだが、いずれも品の良いカフェレーサー仕様に仕立てられている。
「さて……なんて言い訳しようかな」
ブツブツ呟きながらバイク青年は内側からシャッターを閉じ、真っ暗な階段を慣れた足取りで上へ上へと上っていく。
上りきった先には、とても人間の居住用だとは思えないような重そうな鉄扉があった。バイク青年は何度かノックしながら声を掛ける。
「戻ったよ」
ややして、鉄扉は重々しい音を立てて僅かに開いた……隙間からぼんやりした光が帯曳く。それから、思いのほか軽々と鉄扉は開け放たれた。
柔らかい室内灯の光を背に、バイク青年を迎え入れたのは10代半ばかという年頃の少女である……場所に不似合いな豪奢な長袖のメイド服を着て、カリストが見たら気絶しかねないほど端正可憐な顔立ちと佇まいであった……し、カリストが見たら気絶しかねないほど「フカフカおムネ」であった。
「ただいま……例の件は不首尾に終わったよ……」
バイク青年が苦笑いで告げると、そんな言葉を意に介さないようにメイド少女は無言で微笑んで少しだけ小首を傾げ、バイク青年のライダースを受け取る。
「サイベルは戻ってる?」
「…………」
青年の問いかけに、やはりただ無言で微笑みを返す少女。深い位置で切り揃えられた前髪の奥で柔らかい光を反射する黒く大きな瞳は、まるで彼岸でも見通すかのような、この世の者ではない何者かを見透かすかのような、どこかしら浮世離れした尋常ではない貌が感じられる。
だが青年はすでに織り込み済みなのか、少女の微細な表情の変化から返答を理解した。
「まだ戻ってないんだ? それは助かったというか何というか」
メイド少女が言葉を発しないため、バイク青年の会話は自動的に独り言となる……ブツブツ言いながら、奥の部屋へ進んだ。
ドアを開け居間に入る……一瞬のうちに青年は6世紀ばかり過去に遡る。
ベルリンの廃ビルの一室だったであろう室内は、落ち着いたゴチック調で彩られた異世界だった……少なくとも、22世紀の半ばに一般人が居住するような空間ではなかった。
大きなマントルピース、壁にはモザイク画や寒々しい風景画、どうやって空間を確保したのか判らないが天井からは華美なシャンデリアまで下がっているのだ……まるで中世の貴族の私邸のような内装である。
長テーブルの上座で、ひとりの女性が肘を突いて本を読んでいる。この女性はゴスでも何でもなく、キャミソールにレギンスという、むしろかなりラフ、というか下着同然の格好だ。
これにプラスしてロッカーズ風のバイク青年と、浮世離れしたメイド少女という、統一感のない3人の組み合わせは実に奇妙であった。
「……戻った」
静かな室内に青年の声が響く。
「正直、しくじった」
「知ってる」
女は本から視線を移さずにピシャリと応える。青年は案の定と言わんばかりに肩をすくめた。
「なんか馬鹿臭くなってきたよ……カリストは、あれはあれで楽しく生活して……」
「あんたの意見なんて訊いてなーい」
女が顔を上げる。まだ20代も半ばを過ぎた辺りかという年頃であろうが、毅然とした高潔な雰囲気と同時に、どこか成熟しきった気怠さを感じさせるところがある……その眼差しも微かな退廃感を灯していた。
一瞬だけふたりの間に緊張が走った。が、すぐに女が視線を外し、青年の後ろに寄り添うようにして立っていたメイド少女に告げる。
「アスタルテ、紅茶……セイロンのディンブラ」
無言で肯き別室へ去るメイド少女。その間にバイク青年は女性の対面の椅子に腰掛けた。
「なんていうか……サイベルはカリストのことを放っておきたいんだと思うんだけどさ?」
「ヴァレンタイン」
女はバイク青年の名を呼び、手にしていたハードカヴァー本を乱暴に閉じる。
「あんた、手、抜いたんでしょ?」
「抜くもなにも……人間だろうとロボットだろうと女の子に手を挙げるのは好きじゃない」
「よく言うわね? 昨日の晩……私に何をした?」
女は思わせぶりに呟いて、ヴァレンタインを見つめながら自分の小指を甘噛みしてみせる。ヴァレンタインは呆れたように頭を振るばかり。
「……ティア、それは品がない」
茶化すのに失敗したことを悟った女は再び語気を強め言う。
「あんたの中途半端さが世界を変えたかもしれない……悪い方に」
「オレ程度が何をしようが元から世界は悪い方に転がりっぱなしだよ」
「なんだったらリリケラでも遣わすわよ?」
「あのコを出すと話が余計に面倒になるよ」
「どうせサイベルかアスタルテにでも頼まれたんでしょ?」
「知らんよ」
ヴァレンタインの脳裏には、カリストの返還を誠実な瞳で懇願するイオの姿が蘇る。
「何にしても、ヤル気の出るような仕事じゃなかったし」
「どーしようもない男……」
ティアは呆れ、ついに表情を崩してしまった。
「ま、いいわ。取り敢えずカリストが無事なら」
「そういうこと」
悪びれることなく肩を竦めてみせるヴァレンタイン。
緊張が去り空気が程よく弛緩したところで、図ったかのようにタイミング良くティーセットを手に戻ってくるアスタルテ……その優美で清婉な佇まいでもって、まるで雲の上を往くかのような足取りで。