Другая точка зрения:девятый
その日の夕方、私はベルリンのツェーレンドルフにいた。正確には、ツェーレンドルフ地区を経由してベルリン中心部に至る循環バスの車中にいた。仕事を終えたサラリーマンが帰宅するにはまだ早い時間なので、車中には空席が半分以上。なるべく目立たないようにと座席の最後尾の隅に陣取った私は、窓縁に頬杖を突いて、過ぎていく街並みを漫然と眺めていた。
私自身はこんな時間に出歩くような用事も特にないのだけれども、気温が高くて日差しも強い日中より、涼しい夕方や夜の方が外に出る気になる。かと言って、徒歩で行ける範囲などたかが知れているので、時々、こうやって意味もなく循環バスに乗ってコースを1周してみることがあった。下らないと言えば下らないかもしれないし、事実、それほど面白いわけでもないのだけれど、循環バスに乗ってムダに時間を潰すのも、私の気を多少は紛らせてくれるのだ。幸運にも私は会社から内勤制服を与えられているので、それを身に付けているぶんには、どこからどうみても中学生か高校生には見える。憂鬱そうな顔をして循環バスの車窓から茫漠と外の景色を眺めていても不審がられることはないだろう。この年頃の娘は多感な時期だし、実際に私の気分は繊細で脆いのだ。
車窓の向こう側に流れ去っていくオレンジ色に染まった街並みをボーッと眺めていると、その流れを遡上するかのように、私の乗っているバスに1台の小型バイクが追いつき、追い越していこうとしていた。半ヘルメットにゴーグルを着けた華奢で小柄な女性が運転していた。服装はペラッとしたノースリーブの黒ジャケットにスパッツという軽装で、にも関わらずゴツッとしたグローブと重そうなブーツなんかを履いていて、まるでアニメかなんかの登場人物のようだ。半ヘルメットの下から伸びるクルンと跳ねたブロンドが印象的だった。
服装や体型からして、きっと私と同世代くらいの少女のようだ。なんだかどこかで逢ったことがあるような、見たことがあるようような少女だったが、どうしても思い出せない。ゴーグルなんかをしているから顔もハッキリとは確認できなかったけれど、含み笑いでもしているのか、何となく嬉しそうな微笑んでいるような、朗らかな表情に思えた。
少し併走した後、循環バスに乗った私と小型バイクの少女は赤信号で停まった。信号待ちをしている間、小型バイクの少女は落ち着きなくエンジンを覗き込んだりメータを見たりしている。私は私で、その少女の姿を眺めていた。小さなカラダで落ち着きのないさまは、なんだかリスや小鳥のような印象を受ける。その所作だけでも、快活だけれども和やかな不思議なチカラに満ちあふれているように感じられた。
しかし、そんな柔和な少女が唐突に殺気立ち、反射的とも言えるほど不意に顔を上げて前方を見た。思わず私も彼女の視線の先を辿る。それとほぼ同時に、タイヤが路面を引っかき回す激しいスキール音と、男の叫び声が車中の私にも聞こえた。車内の誰かが「人が撥ねられた!」と短く怒鳴る。私の座席位置からはよく見えなかったけれども、どうやら横断歩道を渡っていた歩行者が撥ねられたらしい。
信号は青になったようだけれども、交差点内で事故が起きたので、バスはなかなか発進しない。そういえば、小型バイクの少女はどうしているだろうと思って、先程まで停車していた場所を見ると、そこにはバイクだけが路上に倒されるように置き去りにされていて、少女の姿はなかった。
「……?」
私はついに窓を開けて顔を出し、視線を先に送る。別に事故現場を見る気はなかったけれども、周りからすれば野次馬根性丸出しの娘だと思われたに違いない。けど、その事故現場の真ん中に彼女はいた。彼女は倒れている被害者の男性を安全な路肩まで懸命に引き摺っていた。男性の足元には見る見るうちに血溜りができていくのが見える。
半ヘルメットもゴーグルも外し素顔を晒した少女は、同性の私ですらココロを揺さぶられるほどに可憐な少女だったが、切迫した状況の中、今は痛ましいほどに真剣な表情で救急車を呼ぶように叫んでいる。
その声を聞くか聞かないかのうちに、私はすでに懐中のMTを取り出し「112」をコールし、データ通信モードで位置情報と簡単な状況を送信していた。口頭で伝えるよりも、この方が確実で速いらしいのだ。それは単なる気まぐれな人助けだったけれど、大怪我をしている男性を助けたいというよりも、その時、私は、あの少女のチカラになってあげたかった気がする。
私とそう年が違わない少女が、一生懸命に誰かを、誰かの命を救おうとしているのだ。私は的確に救命救急活動もできるはずのバイオロイドだけれども、こういう時、とても人間を救おうだなんて考えに至りそうもない。別に人間の生き死にになんて興味がないからだとか、そんな馬鹿げた理由からではなくて、単に咄嗟に誰かを救おうという勇気が出ない気がする。もし、あの少女と私と、立場が入れ替わっていたら……私はあの怪我人を救えただろうか。救うことを自ら望んだだろうか。
少女が怪我人を安全な場所まで退かすことができたため、私を乗せたバスは事故現場を避けるようにゆっくりと発進した。私は窓に張り付いて、目下を通り過ぎていく少女と怪我人を見る。少女は私の畏敬とも羨望とも呼べる眼差しも、人垣を作って取り囲む路傍の人たちの視線もまったく意識の外に、怪我人の傍らに跪いてアルミ色のケースを開こうとしていた。その時は漫然と看過していたけれど、それが会社から支給されている携帯医療キットだったことを私が思い出すのは、それからしばらく後のことだった。