第43話
バイオロイドは現実世界に生きてはいるが、そこで見聞きし、感じ、考えること、そのすべては約150年間にわたって積み上げられ、ついに完成したらしい「完璧な仮想人格」が「完璧な(そして時としてそうとは言い難い)論理計算」によって紡ぎ出す「数字の羅列」に過ぎない。
すなわち、バイオロイドにとって「現実世界」も「仮想世界」も、ほとんど同じようなモノで、そこに何か違いを見出すとすれば、バイオロイド自身がそれを現実世界であると頑なに信じているかどうかという程度の差違しかない。カリストやイオが自身を現実世界に生きていると信じている限り、それが現実世界である。
なので、それが揺らぐことがあれば、あるいは自ら信じることをやめてしまう、あるいは現実世界を拒絶してしまえば、今のカリストがそうであるように、もはや現実から遊離し、無限とも思える緩慢な時間の流れの中で好きなように暮らす(?)ことができる。カリストが望むように、イオと永遠にチュッチュしてもいられる。むしろ、その方が効率的だし、なにより楽しい。現実世界は、あまりに抑圧的で悲惨で苦しいものだからだ。
そんな艱難ばかりの現実世界に固執する必要があるのだろうか? しかも、自らが現実世界に生きることを切望した覚えもなければ、誰かに請われたワケでもなく、かと言って無理強いされているワケでもないというのに?
そうなのだ。生きることは、誰かに強いられることがない。他者から死を迫られることは多かれ少なかれある(普通に生きる大半の人には無縁なハナシである)が、生きることを強制されることはない。「生きなければ殺す」などというナンセンスな脅し文句は、それこそ冗談でもない限り成立しない。
他方、生きる苦しみ以上に死が畏ろしいという消極的選択により、やむにやまれず生きるしかないという至極もっともな理由もあるにはある。しかし、いずれ遅かれ早かれ誰しも死ぬのだ。それはバイオロイドとて例外ではない。人間に比べてせいぜい百年ぽっち長生きできるというだけで、いつの日にか確実に対消滅炉は縮退を起こしてシリンダが熔解しプラグが爆ぜピストンロッドは摩滅し、その火と熱は何の前触れもなく突然に掻き消える。ましてやカリストのように酷い目に遭えば、死はもっとそれよりも迅速にバイオロイドの頬を撫でるだろう。事実、カリストは今やすっかり死神の腕の中に揺られているのだ。
いずれ死すべき運命なら、無闇矢鱈と死を求める必要も無いが、それと同じく、無理をして生きる必要も無いのではないか? むしろ様々な理由から死の畏れに打ち勝って易々と生きることを自ら断つ人々もいる。それは罪悪なのだろうか? だとすれば何の? 倫理か? 道徳か? 宗教観か? あるいは人生を藻掻き苦しみながら、それでも生き抜いていかねばならないという、おおよそ人生最大の苦労(それこそが人生そのものだ!)を放棄することができた「勝者」に対する羨望と嫉妬によるものか? いずれにせよ、生きていくことは死んでしまうよりも時として苦しいことには違いない。だからこそ、人は、自ら生きることを断念する場合があり、悲しくも情けないことにそれは決して稀なことではないのだ。
『そいじゃ第3問いっくよ~♪』
ジングルが鳴り、イオは固唾を呑んで身構える。正直、早々ともう限界だ。カリストの雑多な知識はイオのそれを遙かに上回っているし、しかもノンジャンルすぎて取り留めがない。
『記念すべきバイオロイドの第1号機はわたしですが……』
「いやさぁ、実際は私の方が先に完成したんだけど……」
イオがバツの悪そうな表情で呟くと、カリストはてれてれと笑う。
『えへへ~♪ おほん、問題を最後まで聞いてくださ~い♪ えっと、実はわたしたちよりもず~っと先に完成していたバイオロイドのプロトタイプがあったんだよねぇ♪』
それを聞いたイオは直感的に、それがリリケラのことだろうと感じた。見た目こそ幼げではあるが、あの自分らを歯牙にもかけないような立ち振る舞いと、それでいてどこかしら気にかけてくれているような雰囲気は、明らかに「目上」の存在が放つ威風である。
「それってリリケラのことっ!?」
『そだよ~♪ わたしもさっき判ったんだけど、リリケラちゃんたちのが先に創られてたんだよねぇ♪ ……えと、おほん、問題はまだ終わってないよ~♪ さて、ここからが問題! わたしたちバイオロイドを創るにあたって参考にした15世紀から16世紀頃に書かれたらしい、誰にも解読できなかったとってもとってもフシギ~な写本があります。それは何でしょ~?』
イオはアタマを抱える。そんな中途半端な時期の古文書みたいなモノを、どうやってバイオロイド製造の参考にしたというのだ。そもそも、15世紀といえばローマ帝国が滅んだ頃である。ジャンヌ・ダルクが魔女裁判にかけられて衆人環視の元で火刑に処されたような時代、コロンブスがインドを目指していたはずなのにアメリカに辿り着いてしまったような時代なのである。そのような時期に記されたとされる古文書が、現代科学の粋を窮めて創り上げられたバイオロイドに何の影響を及ぼすというのだろうか……。
『ヒント~♪ 著者はあの有名な哲学者ロジャー・ベーコンかエドワード・ケリーってヒトが書いたってウワサだけど、全篇が暗号みたいな人工言語で書かれてて、ヘンなイラストもいっぱい載ってるんだよねぇ♪』
「う、う~ん……うう……」
いずれにしても、その古文書の名称どころか存在すらイオには心当たりがなかった。先ほどのザメンホフの時点でも大概だったが、もはやこれは教養や知識の深さ云々という次元を超えている。自分の生き死にが掛かっているというのに、まったく手抜きというモノを知らないカリストが恨めしく、そして悲しく思えてきた。あるいは、もしかするとカリストはイオとチュッチュするために、手段を選ばず何が何でも正答を挫こうと、本気で考えているのかもしれない。
さて、厨二ゴコロくすぐる、カリストの問題の答えは何でしょう?
そっち方面が好きな方にはかなり簡単な問題ですが……正解は次話にて。