8.クラック・ポイント(1)
「…」
目を覚まして一瞬、周一郎は朝倉家にいるような錯覚を起こした。夢を見ていたわけではなく、なのに、滝と暮らしていたあの頃の日々にそのまま戻ってしまったような。
「?」
体を起こす。髪を搔き上げ、時計を確認する。
「…11時……?」
しかも夜だ。気配が冷たい、部屋が薄暗い、何より静まり返った、この空気。
「…滝さんと居るとやっぱりこうなるのか」
あの頃も周一郎は滝の側でよく寝落ちた。疲れていたのはいつもだったし、滝が居ても身の安全は保障されない、むしろ周一郎が滝の安全を気にしなければならない状況が常だったから、気が緩んでいたわけでもない、なのに滝が側に居るだけで意識を手放してしまうことが度々で。
驚きと困惑と、不安と。
何故なんだろうとと不審がりながら顔を上げると、時に滝にからかわれた、お前でも居眠りするんだなと。赤面したのは事態がもう少し深刻なのを理解していたからだ。居眠りではない、意識を失うほど深く、それも危険が迫っているとわかっていても熟睡してしまう状況は、『朝倉周一郎』にはあり得ないのに。
隣室のリビングで、滝は『高王ヒカル』の小説に興味があったようだった。今もまだ読み耽っているのだろう、時間さえ気にせずに。何か頼んだのだろうか、ズボンのクリーニングはどうなったのだろう。
「…通常の神経じゃない」
ベッドから滑り降り、ぼやきながら歩く。
滝の基準から言えば桁違いに豪華なホテルに連れ込まれ、しかも狙われているかも知れないと思いながら、周一郎から事情も説明されず、なのに自分のサイン会を駄目にしたライバル作家の作品をのんびり読み続けられる感覚は、いろいろな方向で吹っ飛んでいる。
「…すみませんでした、滝さん」
それでも拗ねてしまったのは自分だから、いささか言い訳がましく声をかけながらドアを開く。
「こんな遅くまで引き止めるつもりはなかったんです。もし良ければ、このまま泊まっていきますか、別室を用意し…」
開いたドアの向こうを見た瞬間、ざわっと身体中が凍えて冷えた。
置きっ放しの本、誰もいない部屋、ドアの前に落とされたズボン。
ルトガ、イナイ。
まさかとか、この状況はなどと考えることはなかった。携帯を取り出し、コールする。
『はい』
待っていたのか、佐野はすぐに出た。
「申し訳ありません。拉致されたようです」
『……そう』
しばらくの沈黙の後、静かな声が応じる。
『気づいたのは今? 寝てたの?』
冷ややかな声に返す言葉もなくて、唇を嚙む。
『わかっていたはずでしょう?』
手を打ち始めたのだろう、佐野の声の向こうからキーボードの音が響く。
『それとも巻き込むつもりだったの?』
返答のしようがない。どれほど責められようと、これは周一郎の落ち度だ。
『オリエンタル・コンチネンタルも堕ちたものね』
「信頼しすぎました」
『いいえ……彼がそれほど厄介な存在になったってことね』
佐野の声が珍しく曇る。
『真実に近づき過ぎる。真実を形にしてしまえる。だからあなたも遠ざけたのよね?』
「…小説ならばフィクションで済むと思ったんですが……高王ヒカルほど杜撰に語ってくれれば」
『妙なところで正確に本質を突いちゃうからね』
周一郎も溜め息を吐く。