3.『麗しの君』
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ああ、そうだよな、こういうやつだったよな、こいつは。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ありがとう」
運ばれてきたコーヒー、にっこりと笑ってウェイトレスを見上げた周一郎に、滝は密かに毒づく。
いい加減にしろよ、この猫かぶりめ。
案の定、ウェイトレスは瞬きしたまま、ぼうっと周一郎を見つめていて、俺のコーヒーを置く気はなさそうだ。
「彼にもコーヒーを?」
「あ、はいっはいっ」
がしゃがしゃんっ。
「っ」
慌てて置かれたコーヒーカップから、危うく飛び散りかけた中身にひやりとした俺に構わず、周一郎は上品にカップを持ち上げる。薄赤く頬を染めてウェイトレスは失礼いたしましたと小さく謝り、早々に立ち去っていく。
「…反則だろ」
「はい?」
「お前、幾つになった?」
「23ですね」
「ハタチ超えてる男が、なんでそこまでキラキラしてる」
「キラキラ」
くすりと周一郎が笑った。心なしか声が低くなり甘みを帯びて、そりゃあこれで囁かれると大抵の女は落ちるだろうと確信できる。
「ちっ」
一瞬、昔に引き戻された気がした。周一郎と2人、あれやこれやの事件に巻き込まれては死にそうになったり死にそうになったり…死にそうになったり。今から考えると、よくもまあ無事だったものだ、お互いに。
「今は大丈夫なのか」
「何のことですか」
「家だよ」
「…落ち着いていますよ」
カップから離れた唇が微かに笑むのに違和感が広がった。
こんなに笑うやつじゃなかったのに。それとも、これもまた例の仮面で、離れた時間の間に再び滝は『他人』の立ち位置に追いやられたのか。
「名実ともに継ぎましたからね、心配無用です」
「高野は元気か」
「最近体調を崩しがちです」
「歳だもんな」
「そうですね」
もどかしい。感覚が戻らない、若い頃に楽しんだスポーツみたいだ。コツもわかっていて、知識は衰えていないのに、伸ばす指先1本の場所がもう違う。
「周一郎?」
「はい?」
コーヒーに手をつけずに覗き込む滝に、さすがにおかしいと思ったのか、周一郎は表情を消した。
「何があった?」
「…高王ヒカル」
「はい?」
「読みました」
「はいい??」
読んだ? ラノベを? こいつが? 朝倉周一郎が?
俺はどすんと胸を突かれた気がした。
そうなのか、やっぱりこいつも興味を持つほど面白いのか、高王ヒカル。
密かに抱いていた胡散臭さが惨めな落ち込みに変わっていく。
「何を読んだ?」
「『麗しの君』」
「…へえ」
へえ以外にことばが出るか? あれはラノベの中でもハーレクインロマンス一歩手前も手前、すんごく美形な少年と、いじらしい美少女が、奇怪な迷路で作られた館の中で巡り合って愛し合うとかいう展開だぞ? なのに聞いてしまうのは、どうしたわけだろう。
「……面白かったか?」
「かなり」
「そう、か…」
続くことばが出なかった。
サイン会を乗っ取られた相手が高王ヒカルだとか、ヒカルのいろいろな作品になんだか読んだ覚えがあるような気がするのは気のせいかとか、ああそれもつまりは、そこまで俺の発想が平凡でしかないと言う証明かとか。
「彼の最新作はまだですか?」
「俺に聞くのかよ」
「同じ業界なので詳しいと思って」
「あーまあな」
「彼のサイン会はもうないんでしょうか」
「今回は流れたからなあ。あの電車事故で…」
「失礼」
周一郎が軽く手を上げて俺のことばを制する。相変わらず仕草一つで相手を従わせるのが上手い。取り出した携帯を耳に当てながら、席を外す後ろ姿を滝はしょんぼり眺めた。
時間は経ってしまった。懐かしさを追いかけているのは滝だけなのかも知れない。久しぶりの連絡で、懐かしくて嬉しくて、舞い上がっていた自分が恥ずかしいし、これほど立派な『青年』を捕まえて、日の目を見るようなまともな作品一つ書けてない自分が、訳知り顔にあれやこれやと大丈夫だの心配するなだの、世話焼きじじいみたいな振る舞いもみっともないし。
もう適当に帰ろうかと思ったあたりで、周一郎が戻ってきた。
「すみません、滝さん。急用ができました」
「あ、ああ、そうだな、こっちこそすまん。時間を取らせたよな」
滝は急いで立ち上がり、その途端、がしゃりとコーヒーカップを当てて中身をズボンに浴びた。
「うわっ」
「あ…すみません、おしぼりを」
さりげに周一郎がフォローに入り、なお惨めになる。こんな時までドジなのかよ、俺は。
「シミになりそうですね」
「大丈夫だって、大したズボンじゃないし、そう着ていく場所もないし、サイン会だってもう…ない、だろうし…」
「滝さん」
慌ててごしごしとズボンを擦っていた滝を覗き込んだ周一郎がぴたりと動きを止めた。
「お腹、空いてませんか」
「へ?」
「僕、まだ昼を食べていないので、一緒に如何ですか」
「いやあの周一郎、今俺ズボンがこれで」
「はい、ですからそんなものを気にしなくていい場所で、お昼にしましょう、滝さん」
「あ、あ…うん…わかった」
またもやキラキラした笑顔を向ける周一郎に押し切られ、俺は喫茶店の支払いを済ませ、外に出ていく相手に続きながら、ふと振り返る。
気になったのはさっきのテーブルだ。
あんな端に、立ち上がるとすぐぶつかるような場所に、俺はコーヒーカップを置いただろうか?
「もうちょっと真ん中に置いてたような」
「滝さん! タクシーが来ましたから!」
「わ、悪い!」
周一郎に急かされ、滝は慌てて後部座席の開いたドアに向かって走った。