13.素顔で笑う(1)
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事件後、周一郎は朝倉家に戻り、滝は『俺の死んだ日』を書き上げた。
危険な目にあったから、書けなくなるかも知れないから、と言うのではなく、戻ってから『高王ヒカル』の作品を読み直し、これはこれでありかも知れないと思ったからだ。
周一郎やお由宇が本当のところどのような意図でどう関わっていたのか、滝にはよくわからない。小説にして起こったことを追いかけて行ってようやく、ああこう言う結末があったのかと気づくことも多い。
それは滝が全てのことを見知っているのではなく、事件や物事の一方からだけしか見えていないからだ。
ならば、事件を別の方向から眺めていた誰かもいるだろう。
『高王ヒカル』はその『別の方向から眺めていた誰か』が書いた物語だ。事件をよりセンセーショナルに娯楽として楽しめるような視点で切り取られた光景。けれど、その中にも確かに、真実のかけらが含まれている物語。
作家は物語を書く仕事だ。
なぜ、書くのか。
簡単なことではないか。
何があったのかを知りたいのだ。
そこで、何が、どのように起こり、誰が動き、何が変わり、何が変わらなかったのか。
ちかっと目の前が光って、俺が今までやってきたことが何なのか、わかるような気がした。
いつも体の中に音が鳴り響く。気持ちを苛立たせ不安にさせる警告音だ。
その音をずっと聞いているのは不愉快だ。
だから滝は歩き出す、警告音の方へ。その音が何なのか、知ろうとして。そして時には、その音が消えてくれないかと願いながら。
そこに『厄介事』が待っている。
滝の命を奪い、人生を傷つけ、周囲の大切な人をも巻き込む出来事が。
それを知りながら、滝は近づいて行ってしまう、ただただ自分の『好奇心』を満たすために。
「……高野が怒るはずだよなあ……」
溜息をついた。
かけがえのない『坊っちゃま』を守り続けてきた高野にとって、周一郎を危険な場所に引き摺り込む滝は災厄でしかない。名画や絨毯や高価な茶器などを破損するのとは桁違いの悪行だ。
それでも主人である周一郎が望むから、高野には止める術がない。腹立たしさを堪えながら滝に向かう事になる。
「だから…病気になったのかなあ」
ちょっとしょんぼりした。
高野が病を得てついに入院したと聞いたのは先日だ。少し前から体調が思わしくなく、岩渕を何とか育て上げてようやく休めると思ったのでしょうと周一郎は告げたが、この間のドタバタで全身疲労困憊したのではないか。
見舞いに行った滝には穏やかに笑って接してくれたが、かけている迷惑を思うと申し訳なさが募った。
滝は、多くの人間を『厄介事』に巻き込み、心配と迷惑を撒き散らしている。
けれど止められないし、サイコロを振ってる上の奴もお役御免にする気はなさそうだ。
だから精一杯感謝しようと思う、いつでも何でも、どんな事にでも、なるべく。
誰かが書く物語は、俺が書き切れない部分を(本来ならば描き切っていなくてはならない部分を)違う視点で別の方向から書き込み補完してくれている。そしてまた、俺が書く物語も、誰かが何かの事情で書き切れなかった部分を、多少なりとも補完している。
俺にはそこまでしか作家の才能がないし、今後もそれ以上伸びる余地があるとは思えない。
そんなこんなを考えていた時、TVで囲碁の番組を見た。
数多くの棋譜が残され、先人の足跡がくっきりついたその山を、同じように辿りながら、少しでも高く登ろうとすると語る棋士に、作家もまた似ていると思った。
一番良いと思うものを目指し続けよう。
それは山と積まれた作品群の路傍に転がる砂粒だろう。
けれどその砂粒がある事で、『何が起こったのか』を知る手間が1つ省けるかも知れない。俺が辿った道筋を辿らずに済んで、より高みへ登る道を見つける作家がいるかもしれない。山の裾野が砂粒1つ広がり、砂粒1つ高く積めるのかも知れない。
人はそうやって、始めたことを磨き上げてきたのかも知れない。
ならば高野や周一郎やお由宇に守られ支えられてる俺が、多少の恩返しにものを書くのは、世界的にもあながち間違っていないのかも知れない。
書き上げた『俺の死んだ日』を持って行くと、高野は微笑んで、良い出来です、と褒めてくれた。褒められたのに気を良くして、石路技に送った。
返事はまだない。