2.イレギュラーな状況
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周一郎は机に置かれたインターホンを鳴らす。
「高野、コーヒーを」
かしこまりました、と静かな声が応じるのに、椅子に腰掛けてしばらく窓の外を眺めた。
キィ、とかすかな音を響かせて窓が開く。軽い足音が駆け寄ってくる。
「にゃあ」
呼びかけるように鳴いたルトはそのまま周一郎の膝に飛び乗り、澄んだ瞳で彼を見上げる。灰青色の毛並みはどこを駆け抜けてこようとあまり汚れていることがない。
「勘がいいな」
周一郎は苦笑した。
「今回は連れて行けない」
「にゃぐ」
不満そうな唸り声に頭を撫でる。
「会いたいかい?」
ぐるるると喉を鳴らして目を細めるのは、歓迎の意志か余計なことを言うなの警告か。
ルトと周一郎の視界は繋がっている。見ようと思えば、周一郎はルトを走らせて、自分が居ない場所の景色も見ることができる。けれども意志は同じではない。ルトが強く拒否し、あるいはもっと自分の望むところに出向くつもりならば、周一郎はルトの視界に引きずられて、時に見たくもない景色を見せつけられることになる。
そうしてルトは、不吉な出来事を好む傾向にある。
「お前が行きたがるのが不安だな」
呟いてまた、周一郎は苦笑いした。
不安だなどと朝倉周一郎が吐露することがあろうとは。
「また何か厄介事を拾っているのかな、滝さんは」
「…失礼いたします」
柔らかなノックに続いて扉が開く。ひらりと身を翻してルトは床に飛び降りる。
戸口に立った高野は白髪の頭を僅かに下げた。
「お持ちしました」
「ここへ」
高野は周一郎の机に銀色の盆を載せる。
盆の上にはチケットの入った袋があった。周一郎が取り上げると、盆を下げ、コーヒーを置き直す。
「早いな」
「岩淵がよく動いてくれます」
「無理をしないでいい」
「自分の体は存じております」
カップを取り上げ口を付ける。かすかだが香りが違う。岩淵が淹れたとわかる。
「お気に召しませんか」
「いや」
慣れなくてはならないんだ、とこれは胸の中で呟いた。
慣れなくてはならない。滝がこの屋敷から居なくなったときのように。もう二度と一緒に暮らすことはあり得ないのだと飲み込まなくてはならない。
時間の惨さを、周一郎も理解し始めている。
全てを失う前に、彼をこの世界で生きることに引き戻してくれた滝には感謝しかない。
「夜は私が淹れて参ります」
高野が優しく提案した。
「うん」
「いつ滝様とお会いになりますか」
「そうだな……滞在中にするつもりだ」
もちろん、誘導するのは容易いだろう、滝は周一郎の多忙さを気にしているし、今回出向くのが、サイン会を流された自分への慰めもあると思ってくれているはずだ。
「滞在を伸ばされますか?」
「…高野」
思わず咎める口調になったのを、高野は微笑で受け止めた。
「よろしいではありませんか、留守居が私共ではご不安ですか」
「…」
「滝様にお会い下さい。予定を多少変更されるぐらい、私も岩淵もすぐに手配できます」
「滝さんは…そんなに会いたくないかも知れない」
「会いたくないとおっしゃられたら、お会いにならないのですか?」
「……いや」
つい笑い出した。
「仕向けるだろう。僕は性格が悪いからね」
「滝様相手には必要なことかと」
あの方は色々と鈍感な方ですから。
「そうだな」
応じて、周一郎は口調を変える。
「鵲は?」
「連絡がありません。今朝の電車事故の負傷者は入宮病院に運び込まれたようです」
「重症なのか?」
「怪我自体は軽症ですが、入院後高熱が出ていると。インフルエンザの可能性があるとのことです」
「個室ならいい。………滝さんのサイン会を流したのは?」
「高王ヒカルという作家です。ライトノベルから歴史物や料理エッセイまで出がけているようですが」
「代表作を数作手配してくれ。知っておきたい」
「坊っちゃま」
高野が久々に眉を寄せて懐かしい呼び名を使った。
「手出しするつもりはない、ただ」
答えながら、少し顔が熱くなったのを周一郎は自覚する。
「気になっただけだ」
「………ドイツのように?」
高野の笑みに、顔を背けた。
「昔のことだ」