10.交差点(2)
「あら」
入って来た連絡に由宇子は瞬く。
『白木蓮』の海云からのメールだ。職員に頼んで、時々頼みごとや連絡をメールで売ってもらっている。
『弘が帰って来たそうです。インフルエンザではなくただの風邪で、もう仕事に戻りました』
「ふうん…」
画面を眺めつつ、淹れたコーヒーを片手にテーブルに戻る。いつもなら目の前に滝が居て、いい匂いだなと目を細めて笑ってくれるところだが、姿がないのについ探す自分に苦笑する。
「入宮病院で殺されかけたのは、周一郎系じゃなかったのね」
インフルエンザで不穏状態になって飛び降りたとの噂が流れていたが、どうやら逃げ延びたらしい。
『誤診は病院評価が下がるので黙って欲しいと頼まれたそうです』
「ああ…そう言うこと」
入宮病院で鵲を周一郎側と認識したのが居て、電車事故をいいことに入り込んで来たと誤解し、短気に始末しようとしたのか。
元々鵲は迷子だった。海云に拾われたのは、無くした息子に似ていたと言うことだったが、本当の意図は手駒が一つ欲しかったせいだろう。配下としてあれこれ鍛えられ、朝倉家に潜入し、高野に温情をかけられて馴染んだ。高野も鵲をまるっきりの素人とは思っていなかっただろうが、周一郎はとっくに本性など見透かしていたし、ひょっとすると由宇子の息がかかっていると気づいていたかも知れない。それでも鵲を抱えておくあたりが、朝倉財閥の怖いところだ。いざという時の潜入者として留め置いたのか、それとも気まぐれなのかは見えない。
鵲は海云から放たれて情報を探るために朝倉家に入り、そこから朝倉家の指示で動いている矢先に電車事故に遭った。負傷者として入宮病院に運び込まれたのは朝倉家の介入でもなさそうだが、敵襲と考えた入宮病院側が先走ったのか。何れにせよ、鵲は相手を返り討ちにし、死体とすり替わった。後ろ暗い所のある入宮病院は、別人と知りつつ鵲の死亡診断を出したと言うところか。
ならば、今鵲は一体、誰の、何のために動いているのか。
『弘は取り掛かっている仕事を終えたら、一休みするのも悪くないと考えているようで、しばらく旅行に出かけると連絡して来ました。それもいいのかなと考えています』
鵲は海云の所にも『寿星老』にも戻らないらしい。けれども朝倉家に戻るつもりもないから、鵲の死亡を取り消そうともしないのだろう。
海云は薄々気づいていたのだろうか、鵲の願望を。今の自分から解き放たれて、どこかへ行ってしまいたいと言う願い。
『どこへ行こうと自分の人生、そう返答しました』
「…どこへ行こうと、自分の人生…」
最後の一文は鵲だけではなく、由宇子に向けてのものにも思える。『寿星老』に縛られている由宇子には、いつまでたっても新しい人生も、滝との生活も望めないと。けれど逆にいえば、『寿星老』を抱えていようと、由宇子さえその気になれば、いつでも滝と結婚し暮らしていけるのだと。
「……私は怖いのよ、志郎」
苦笑を重ねつつ俯く。包んだカップが急に冷えた気がした。
「あなたを確実に殺しそうで」
ほんと、そう言うところは、あの子とおんなじ。
「だから、よくわかるのよ、周一郎のことが」
背負って来た過去が、投げ捨てることのできない現在を突きつけてくる。
大事でかけがえのない人を守りたいのに、自分の存在そのものが相手を傷つける時、人は何が選べるのだろう。
「…だから一瞬、考えたの」
鵲は自殺したんじゃないかしらって。
「幼馴染の司と美津子に、どう向き合っていけばいいのかわからなくなって」
周一郎を狙うのは入宮司。美津子は入宮病院がらみの事件の当事者の娘の1人で、敵対するしかない2人の状況を作り出した朝倉家に自分は仕えているが、その役職さえも偽りのもので。優しい高野も誰に向かって微笑んでいるのかわからない。
「あなたはどこへ行くつもりなの、鵲」
由宇子は小さく呟いた。
「…情報なんか、何の役にも立たないわね……」
次の瞬間、電話が鳴り響いた。一瞬緊張した由宇子はカップを置き、受話器を取り上げて目を見開いた。
「…『いしろぎリネンサプライ』?」
『はい、お届けしました。だから許して下さいな、嬋娟』
受話器の向こうの明るい声は鵲の口調で喋る。
「何を許せばいいの? 任務の失敗? それとも組織の離脱?」
『あなたはショーチンラオ飯店のひとり娘です』
「はい?」
『滝さん、そんな風に納得しました。否定してないので、その辺りで許して下さい?』
「……何となく想像がついたわ」
『さすが、嬋娟』
由宇子は溜息をついた。
どうやら鵲は周一郎側より一歩早く滝を見つけ出し、確保に成功したらしい。自分が組織を離れる取引に、滝の身柄を交渉して来ている。おそらく、何かの拍子で『寿星老』について口を滑らせたか意図して漏らしたかして、滝はそれをどこかの中華飯店だと理解したらしい。けれども、交渉具合によっては、滝に由宇子の素性をばらす気があるとほのめかしている。
『傷つけられないように見守ってもいいけど、体は1つしかないので、僕』
「何をする気なの?」
『話す必要が?』
「海云が案じている」
『不出来な息子のことは忘れてと連絡したけど』
「愛情深いのよ」
『鎖に似てますね』
「そうね」
鵲は十分自分の立ち位置を理解していた。磯崎弘と言う架空の名前を与えられたことの意味も知っている。
『探られて横槍を入れられても面倒なのでお話しします。司は幼馴染で美津子もそう。朝倉に抵抗できるわけもないけど、美津子が悲しむだろうから、止めようかと』
「…周一郎に消される前に、ね?」
『滝さんへの執着は知ってます。ヤバそう。諦めて欲しいな、レベルが違いすぎる。大量殺戮兵器と拳銃みたいなもんですよ』
くす、と小さく鵲は笑った。
「殴られて学ぶ人生と言うのもあるけれど?」
『「坊っちゃま」は滝さんを殺そうとした人間を殴るだけでは済ませませんよ』
鵲はひんやりと応じた。
『だからその前に司攫って逃げてみます。敵対心ないって、庇ってもらえたりします?』
「努力してみるわ」
由宇子は苦笑いした。周一郎を大人しくさせるなど、こちらも綱渡りだ。
『さよなら、嬋娟。あなたと働くのは楽しかった』
「またね」
『いえいえ、2度と』
こほこほと鵲は咳き込む。
『僕も命が惜しいので』
「鵲…?」
ぷつりと切れた電話に由宇子は眉を寄せた。




