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9.紫雲英の原(1)

 静かなノックが響いた。

「入っていい」

 パソコンから目を挙げた周一郎の声に、ドアが開いて以前よりも痩せた高野が現れる。相変わらず喪服を思わせる黒スーツの執事は、足元を擦り抜け、部屋に走り込んだ青灰色の猫を止めもしない。

「参りました」

 穏やかな笑みに思った以上に安堵した。

「ルト」

「なう」

 周一郎の声に猫は人のように応じて、しなやかにソファに飛び乗った。すぐに足で踏みつけた一冊の小説に鼻を落とす。

「やっぱりそいつか?」

「にゃ」

 真珠色の歯を剥き出して見せたから、周一郎はその本をルトの足の下から拾い上げた。

『紫雲英の原』

「……古めかしいタイトルをお使いですね」

 いつの間に隣室へ入ったのか、豊かな香りを漂わせながら、高野がコーヒーを準備してくれた。

「雲霧ですか」

「知っているのか?」

「私どもにはよく知られた名前でしたが」

 高野は苦笑した。

「書かれた方は昔の小説がお好きなのでしょうか」

「さあな」

 周一郎は冷ややかに作者の名前を見つめる。

 石路技鷹。

「今は滝さんの担当編集者だよ」

「とすると、お若い方ですね」

「ちなみに、滝さんは石路技が以前作家だったとは知らない……いや、作家志望だったと言い換えるか」

 石路技鷹の名前で出したのはこの1冊切りだ。蓮華畑で出会った男女の恋愛を書いた平凡な小説、けれどもそこかしこに真実が匂う作品。

「なるほど」

 高野はくすりと笑った。

「そう言う編集者ならば、滝様と言う作家は不愉快でしょうね」

「だろうな」

 滝に関わる人間は基本誰でも最低限度は調べてある。朝倉家に障害となるか、佐野に関わりがあるか、滝に害を為さないか。もっとも調べたところで、関わりに介入することはほとんどないし、よほどの危険がない限り、見守るだけだ、消去することもない。

 だが、今回はそれでは甘すぎたのか。

「この内容はほぼ事実だ。石路技には笠間美津子と言う幼馴染が居た。レンゲ畑で将来を誓い合うような甘ったるい友人だ。だが、彼女は心臓病を患い、余命数ヶ月と宣告される。石路技は作家となって成功し、彼女を迎えに行くと約束するが、作家としての才能はなく、編集者として身を立たせる。もちろん、彼女を救うほどの財産は準備できない」

 周一郎はコーヒーを含む。いつもの慣れた香りに気持ちが安らいだ。

「心臓移植はまだまだ資金が必要ですね」

「ただのサラリーマンが準備できる額じゃない」

「なあーうー」

 ルトは匂いを嗅ぎながら甘い声を上げた。視線を向けて、爪で押さえつけている高王ヒカルの『月の魔法陣』を見下ろす。滝の匂いが付いているのかも知れないが、それでも。

「それを選ぶのが、お前らしいよ」

「にゃ」

「『いしろぎリネンサプライ』を入宮病院から傘下に変更したのがきっかけでしょうか」

「…不正に関わっていたのを暴かなかっただけでも親切だと思うが」

「契約者数は急激に減っていますね。こちらも数ヶ月内には傘下のものに変わります」

 周一郎はカップを傾ける。

「…『いしろぎリネンサプライ』が保持できていたら、『高王ヒカル』に拘る必要も、滝さんを抑える必要もなかったかも知れないな」

 石路技にとって、滝志郎と言う書き手は、絶対失うわけにはいかない作家となってしまった。失ってはならないが、売れてもならない作家だ。

「…どうして滝さんを選んだのかな」

 周一郎は嘆息した。

「それは簡単なことでございます」

 高野が意外そうに瞬きし、微笑む。

「滝様が厄介事に飛び込まれる方だからです」

「…違いないな」

 周一郎はくすくす笑う。

 そもそも、石路技鷹が『いしろぎリネンサプライ』の後継者で作家を副業としており今は編集者となっていること、『いしろぎリネンサプライ』が入宮病院の薬物横流しのルート確保に関わっていたこと、石路技の幼馴染笠間美津子は入宮病院に入院していて心臓移植を待っていたが、『いしろぎリネンサプライ』を外したことと当局の追及が始まって業績が悪化、心臓移植の費用がそちらで準備できなかったこと、同じく美津子に横恋慕していた入宮病院の一人息子の司が、事の展開に慌てて美津子にアプローチをかけたせいで負担のかかった彼女が死亡したこと、それを石路技が自分のせいだと思ったこと、そうしてその石路技が滝と周一郎が一緒に居るのを見つけたこと……などなどの理由を滝が知るわけも気づくわけもなく、今も何が何だかわからぬままに、ホテルのどこかで監禁されているのかも知れない。

「あるいは…滝様に、ハマられた、か」

 高野がぽつりと呟いて、周一郎は笑みを止めた。

「…不愉快だ」

「ご存知のはずです」

 冷静な高野の声に視線をそらせる。

「幾人もそう言う方がおられました」

「わかっている」

 周一郎は舌打ちしそうなのを堪えた。

 滝には時々妙な人種が魅かれてくる。どこに価値を認めるのか、まるで懐かしい友人のように、かけがえのない家族のように振舞おうとする輩だ。そう言う人間は、滝が滝の人生を歩むのを許さない。自分の隣に座り、自分のことを案じ、自分のためだけに生きろと望む、滝が望もうと望むまいと。

 周一郎はそう言うものになりたくない。

「石路技は違う。滝さんの小説を盗用し、うまい汁を吸い続けたいだけだ。だから次の作品を際限なく強請る、出版するつもりもないのに」

「ならば、拉致する意味がありません。滝様には安全に作品を仕上げて頂き、それを利用すればいいだけの話です。滝様は気づかれていないのですから」

 高野は静かに高王ヒカルの『作家の舞台裏』を取り上げた。

「こんな風に、自分がこのような書き手であると必死に訴えなくとも良いはずです」

「……拉致は、入宮病院とは関係がない、と?」

 高野は静かに頷き、微笑んだ。

「ずっと一緒に居て欲しいのでしょう」

 坊っちゃまのように。

「…っ」

 ことばにされなかった声を察して、周一郎は顔が熱くなった。

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