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海人  作者: 犬墓久司
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含羞の虎

 彼女は海が好きだった。好きすぎる余りスクーバダイビングを始めてしまい、暇があると海に潜っていた。

 僕はそれにつきあわなかった。泳げなかったからだ。でも海を見るのは好きなので、彼女と一緒に海に出かけた。彼女が潜っているあいだ、デッキチェアに座って飽かず海を眺めているのだ。そうして海と戯れる彼女の姿を想像する。僕の知らない世界で彼女は光り輝いていた。それはとても楽しい一時だった。だから僕は彼女の振舞に疎外感を覚えることはなかった。

 やがて彼女は海からあがってきた。バディの男性と別れ、こちらに歩み寄ってくる。いつも思うのだがダイビングスーツを着た彼女ほどセクシーさを感じさせるものはない。

「ただいま」

「お帰り」

 そう言って僕はマスクを外した彼女の唇に口づけした。サザエのような香りがする。その間に彼女はタンクなどの装備を外していく。身軽になったところを見計らって、僕は彼女の胸元に手を伸ばした。そしてダイビングスーツのジッパーをゆっくりと引き下ろしていった。

 彼女は抗う様子も見せず、それどころか悩まし気な吐息すら漏らす。僕も呼吸が荒くなる。その興奮はジッパーを下ろしきるまで続き、そして下げきったところで止まった。

 僕は名残りおしげにジッパーから手を離した。息も整い、欲情は鎮火していった。彼女も同じように平静に返り、ナチュラルな笑みを顔に浮かべた。そして滴の滴る髪を振り払うと、更衣室のシャワールームへと向かっていった。

 ホテルのバスルームで僕は念入りに股間を洗っていた。交合の後はいつもそうするのが習いだった。こうすることによって身も心も清められるような気がするのだ。

 やがて爽快感を覚えながらバスルームを出ると、彼女の鼻歌が聞こえてきた。今回のセックスにはとても満足したという印だ。

 バスローブを羽織った私は彼女のもとに歩み寄るとうなじにキスをした。そこは彼女の性感帯の一つだった。彼女は喘ぎ声をあげた。僕は微笑みを浮かべた。彼女がハッピーだと僕も幸せな気分になる。

「これからどこへ行く?」

 彼女は小首をかしげ、しばらく考えた。

「東」

 ややあって彼女の宣託が告げられた。陽の出る方角か。異存は無い。

「よし分かった。そうしよう」

 彼女は満足げな顔をした。そして一つ欠伸を漏らした。

「そろそろ寝ようか」

 僕が提案すると彼女はふんと頷いだ。そして僕にお休みのキスをねだった。僕は喜んで応じた。

 翌朝僕は彼女に起こされた。いつもは僕が先に起きるのに珍しいことだ。一緒にモーニングを取るとホテルをチェックアウトした。荷物は昨日のうちに車に積んである。僕らは笑みを交わしあうと車を発進させた。

 東へ向かう国道に僕らは乗り入れた。高架の道路には両側に防音壁が取り付けられているので、風景を楽しむという訳にはいかない。ドライブは単調なものになってきた。

「下りない?」

 しばらくして彼女が提案してきた。退屈しているようだ。

「そうだね」

 僕はナビを見た。少し先に丁度いい具合に降り口がある。僕はハンドルを切った。

 ナビの情報ではそこにどんな景色が広がっているか分からない。そこにまだ未知のものを発見できるよすががあるのだ。

 国道を降り立った先で目にしたものは裏さびれた町並みだった。賑やかなはずのメインストリートの家並は皆シャッターを下ろし、空き家の看板が掲げられている。人影は見えず、代わりに猫の姿がちらほらと認められる。

「どうする?」

 僕は彼女に訊いた。場所を変えようかという意味を込めて。しかし彼女は「降りるわ」と言った。

「そう」

 僕は車を停めた。彼女が気に入ったのならそれでいい。従うまでだ。

 車を降りると柔らかな風が吹いてきて、僕の頬をなぶる。ふとその風に乗って、楽の音が聞こえてきた。サックスの音だ。耳をそばだてるほど美しい。僕は思わず彼女をうかがう。すると彼女も頷いた。

「行きましょ」

 彼女の提案に僕は応じた。 

                4                 

 音は通りの裏手から響いてくるようだ。僕らはなぜか足音を忍ばせた。そうやって進むうちついに音の源を探り当てた。ほんの先の角を曲がれば目的の場所だ。

 僕らはそっとその先の空き地に足を踏み入れた。まるで聖域を侵すかのような気分だ。それほどまでに間近で聞くサックスの音は神々しかった。彼女も同じ心持のようで、吐息をついて興奮を抑えていた。

 そこには一人の老人が一心不乱にプレイしていた。グレーのブルゾンにくたびれたズボンというあか抜けない恰好だが、老人のたたずまいには一本芯が通っているような気高さが見受けられた。彼女もそれを感じ取ったようで「素敵な人ね」と最上級の賛辞を贈っていた。

 そうやって僕らが感銘を受けている間も、老人は気づいた素振りも見せず、演奏に没頭していた。僕らは空き地の一角にたたずみ、老人の奏でる音楽に聞き入った。

そのうち僕の心の中に火のように燃える欲情が沸き上がってきた。潤んだ目で彼女を見やると、彼女の顔も赤く火照っていた。僕は昂るままに彼女の頬にキスをした。すると彼女もそれに応えるかのように体を摺り寄せてきた。そして流れるように抱き合った。

 そのまま服を脱いでしまいたいような気分に陥ったとき、唐突に音が止んだ。僕らの興奮は水を掛けられたように静まった。二人して顔を見合わせ、苦笑いを漏らす。それから老人の方を見やると老人は子供の悪戯を咎める親のような顔つきをしていた。

「何をしておる」

 深みのある渋い声で老人は呼びかけた。

 僕は顔を赤らめ口ごもった。

「おじいさん、あなたの奏でる音楽があまりにもセクシーだから私達感じてしまったんです」

 すると彼女が何の恥じらいも見せずにストレートに答えた。それを聞いた老人は虚を衝かれたように口をポカンと開けたが、ややあってやりきれない思いを現すかのように首を二、三度振った。

「わしの音楽を……」

 老人の呟きは最後まで聞き取れなかった。

「彼女の言い方はなんですが僕もおじいさんのサックスは素晴らしいと思います」

 僕は赤心をこめて言った。すると老人は驚いたように目を見張った。

「ありがとう。お世辞でもうれしいよ」

 僕はお世辞ではありませんと言い募った。その時彼女が手を叩いて「ブラボー、おじいさん。アンコールをお願い」と歓声をあげた。

 すると老人は「人様に聴かせるものではない」と言ってそっぽを向いてしまった。そして逃げるように歩み去ってしまった。

「残念ね。もっと聞きたかったのに」

「仕方ないさ。彼は含羞に捉われた虎なんだ」

「どういう意味?」

 そこで僕は山月記の話を持ち出した。説明を聞き終えた彼女は一言「やり切れない話ね」と呟いた。

「さ、行こうか」

 僕に促されて彼女はその場を離れた。「虎、虎……」と同じ言葉を何度も繰り返しながら。

 



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