世界か、自分の方か
翌朝、目覚ましが鳴る前に起床する。起床してしまう。幸いにして、トワコの姿は見えない。ふと、昨夜のことが気になって、上着のポケットの中を確認する。そこにはパソコンなどに使うUSBメモリーなんかと良く似た、記録媒体と思われるコンパクトドライヴが入っていた。が、これは端子の形が違う。これはVR機器などの、大容量データの保存に使われるもので、内部のナノ構造特殊硝子に五次元デジタルデータを書き込めるクォーツメモリーと言う少し珍しいものである。ゲームデータだけを保存しておくには、ちょいと高価で、先輩が僕に何を託したのか、中身が気になるところではあるが、生憎時間がない。
僕はクォーツメモリーを机の引き出しに仕舞い、着替える。顔を洗い簡単な朝食と弁当を作るが、二階から降りてくるのは父親だけで、トワコの姿が無いので、彼女の部屋を見るがそこにもいない。探している時間は無いので、僕は出かけることにする。
改札を潜り抜け電車に乗り込む。揺れる満員の電車内で、藤原を見つける。「おお、藤原。今日は電車か。珍しいな」藤原は首を左右にぽきぽき鳴らし、僕の方を見る。彼はいつも自転車で通学しているのだ。
「おう、小田切か。愛車がパンクしてなぁ。それよりきちんと挨拶ぐらいせんか己は。ばかたれ」
「それよりさ。深津先輩から連絡来たか? 僕たちとはイベント出れな……」
ガタンと車内が大きく揺れ僕はバランスを崩す。よろめき隣にいた、少し背の高いパンツスーツの女にぶつかってしまう。「あ、すいません」声を掛けるも、ギロリと睨まれた。ゆるくシャギーの掛かったおかっぱの黒髪に、眉間に皺を寄せた鋭い目付き。おー、怖い怖い。
「イベントが何だって?」
「悪りぃ。あとで話すわ」
電車を降り改札を潜り学校に向かうも、誰も僕を待ち伏せなんかしていなかった。不毛の桜並木を抜けても、校門を過ぎても、やはり誰も僕らに付き纏わない。やはり深津先輩は本当に引っ越してしまったのであろうか。
「深津先輩。引っ越すんだってさ。イベントも何だか自分のギルドのメンバーと出るって」
「はぁ? 深津って誰だ。帰宅部の先輩か?」
……きっと、藤原お得意のウィットに富んだジョークなのだと思った。しかし藤原があまりに真顔なものだから腹が立つ。流石に不謹慎だ。
「おいおい。ふざけんなよ。昨日なんかEZO2のメンテナンスが終わったら、なんかイベント出るって」
「おおっ! その話をお前からしてくれるとは思わなかった。俺は友として嬉しいぞ。ついにその気になってくれたのか」
だめだ。話が噛み合わない。僕の話し方が可笑しいのであろうか。ホームルームが始まり、僕は窓の外を見やる。空は穏やかで、今日も何事も無いように過ぎようとしている。
『最後に君に会いたかった。それが一番の理由だ。それだけは信じてくれ』
本当に今更……今更寂しくなってきたりした。もっと掛ける言葉は無かったのか。言うべきこと、伝えるべきことは無かったのか。ご両親の仕事の事情なのであろうか。勘ぐるべきでは無いのかもしれない。しかし。
今日も初老の社会科教師の退屈な授業にノートをとる。幸福、正義、公正など、様々な観点から熱弁を振るうが、テストに関係の無い話が多いので、生徒からは不人気である。
放課後、苗代が一人になったのを見計らって声を掛ける。彼女は常に友人といたりするので、話し掛けるにも、勇気がいるのだ。
「あ、れいちゃん。お疲れさま。藤原は帰ったみたいだよ」
この寒いのに短いスカートをひらひらさせ、僕が話し掛けると、スマホから伸びたイヤホンを耳から外す。
「スタバ寄ってくけど、れいちゃんも来る?」
「いや、そういうところには縁がないもので」
入っただけで、罪悪感が湧きそうである。苗代は僕みたいな、コミュ障のオタクなんかとも喋ってくれる良いやつであるが、そこら辺の空気は読めないようだ。あまり長い間引き止めるのも悪いので、僕は慎重に言葉を選ぶ。何を聞くべきか。どうやって訊くべきか。
「なあ……昨日って、僕らミセドに行ったよな? そこで何話したっけ」
なぜ僕は、こんなにも回りくどい訊き方をしているのであろうか。素直に深津先輩のことを訊けばいいのに。
「んっ? れいちゃん若くしてぼけたの? 藤原やつがさ。うちら三人で、EZO2のイベントやらないかって話だった気がするよ」
その瞬間、ぞくっと背中に冷たいものが駆ける。……三人か。そうか。今朝、藤原と話した時点で、漠然と不可解な違和感を感じていた。もしかしたら、これは言葉の受け取り方とか、ジョークの類いでは、無いのかもしれない。
「もう一人、誰かいなかったけ」
「はぁ? ボケが進んでるね〜。うちら三人しかいなかったっしょ」
冬にも関わらず、じっとり嫌な汗が滲む。苗代に冗談を言っている様子はない。
「ほら。ゲーマー部の先輩」
「何そのニッチな部活。うけるし……ちょっ、どこ行くの。待ってよ」
居ても立ってもいれなくなって、僕は苗代に別れも告げず、その場を離れ、職員室に行っては、二年生を受け持つ教師に深津先輩のことを聞いたり、ゲーマー部の部室に行ってみることにしたりする。
ゲーマー部の部室は、旧校舎にあり、旧校舎の三階と四階は、文化部のシャングリラとなっている。ゲーマー部の部室は四階の奥の奥。この学校の最果てである。第二理科室とプレートが掛けられていて、鍵が掛かっていた。普段は使われないので、ゲーム機が散乱していた筈……引き戸の小窓から中の様子を伺うが、がらんどうとしていて、何もない。
次第に違和感は確信に変わっていく。僕は最後に彼女の自宅を訪ねてみることにする。昨日送ったばかりなので場所は解っている。
学校を出て、駅前の交差点を渡り、線路沿いを歩く。線路はどこまでも規則的に敷かれている。……可笑しい。引っ越しがあまりに急なのは、まだ解る。しかしまるで皆が皆、口裏を合わせて、僕をからかっているかのように、誰の記憶にも残っていないじゃないか。こんなこと有り得るのか。もしかして深津先輩は、僕の脳が作り出した架空の存在なのか。ああ、現実と仮想が解らなくなる。もやもやとそんなことに思考を巡らせていると件の場所に着く。
「あっ……」
否。結局、僕は辿り着くことは、できなかったのだ。なぜならその場所に、そんな建物は、存在しなかった。一度しか来ていないのだから、記憶違いなのかとも考えたが、そんな筈はない。何より深津先輩の住んでいた三階建てのマンションのある場所は、不自然にも抉り取られたかのように、空き地となっているのだ。まるで僕の生きるこの世界が、深津先輩など初めからいなかったのだと、痕跡を全て消し、全てを書き換えているようであった。可笑しいのは、僕の方なのか、世界の方なのか。