目覚まし
けたたましく鳴る目覚ましのベルが、午前六時半をお知らせする。掛け布団は既にベッドの下に落ち、僕はガクブルと自室の寒さに震えていた。目を閉じたまま、左手でテーブルの上に在ると思われる目覚まし時計を探すも、覚束無いその手は、テレビのリモコンを床に落とし、テレビが点いてしまう。
気象予報士のお姉さんは、今日も健やかに天気を予報している。僕は夢現なままに、折り畳み傘を持って行こうと、自らの潜在意識に強くすり込み、再び安らかな眠りに就こうとした。
「ねえねえお兄ちゃん? 学校を遅刻するのはお兄ちゃんの勝手だけどさ、トワコとーってもお腹が減ったの。解る? これ? だから朝ご飯作ってくれないかな」
と、そこに声。凛と透き通るメゾソプラノ。僕の部屋で、ヘッドマウントタイプのゲーム機を外す長い黒髪の少女は、マイシスターである。我が妹は後頭部を搔きながら、欠伸をする。妹とは言え、人の部屋で勝手にゲームをするのは辞めてもらいたい。お陰様でガールフレンドも連れ込めない。まあ、そんなもの僕には、縁がないのだけれども。
妹はまたゲームで徹夜をしたようで、まるで兎みたいな真っ赤な目をしていた。ヘッドマウント型は旧世代のゲームマシンで、周りから見ると少し異様であるし、危険でもあるが、カプセルタイプは場所も取り、日本の住宅事情を鑑みるに、まだまだ需要はありそうである。兎に角、人の部屋でやるのは辞めてもらいたい。大事なことなので二度言った。
「ゲームばっかやって偉そうに。お前も何か手伝えよ」
「見ればわかるでしょ? 今、トワコの手には、世界の平和が委ねられているんだよ。いいの? ……世界滅んでも。あっ、スクランブルエッグ嫌だから、目玉焼きにしてね」
ゲームばっか……どの口が言うのであろうか。少し前まで自分の方こそが、ゲームばかりをして、現実を忘れていたくせに。
「はいはい。じゃあちょっと待ってろよ」
「解ればよろしい。良い子なお兄ちゃんは好きだ。学校から帰ってきたら、エッチなご褒美あげるよ」
「それ全然いらないから」
「じゃあ良い子にお留守番してるから、エッチなご褒美ちょうだい! なんとトワコとお兄ちゃんは血は繋がっていないんだよ。結婚できるね! おめでとう! 良かったね!」
「はいはい邪魔邪魔。どいて」
からかってくるトワコの頭を鷲掴みにして、わしゃわしゃと撫でると、我が妹は満更でも無さそうな表情をする。口の減らないトワコと話していたら、不覚にも目が覚めてしまって、僕はよろよろとキッチンへ向かう。シンクにあるタライに溜まった水を排水溝に流し、まな板を敷く。冷蔵庫からトマトとレタスとキュウリを出し、ばしゃばしゃと水道水でよく洗い、コンロに火を着け、油をひき温めたフライパンに卵を落とす。弱火に蓋をして、その間に野菜をちゃっちゃとスライス、そしてトースターで食パンを焼く。こんな感じで、朝食と父の弁当を作る。ついでに弁当の余りで、トワコの昼食を用意しておく。
テーブルに皿を並べていると、父が起きて来て、「零、おはよう。ありがとな」と僕に声を掛け、新聞を広げ、僕が淹れたコーヒーに口を付ける。
「弁当ここに置いておくから。あとさ、今日遅くなりそう?」
「ああ。先に夕飯食べておいてくれ」
「解ったよ。んじゃ、歯とか磨いて、お姫様に朝飯運んで、先に出るよ」
朝食を手早く済ませた僕は、洗面で歯を磨き、顔を洗い、自室のトワコに朝食を運ぶ。トワコは相も変わらず、ヘッドマウント型のゲーム機を装着して、オロオロしている。気持ちは解る。朝は狩場が空くからな。
「トワコ。僕は学校行ってくるぞ」
「解ったよー。お兄ちゃん。お土産よろしくねー。妾はパステルのなめらかプリンが食べたいぞよ」
「お前、僕の小遣い知ってるだろ」
ゲームの世界にどっぷりな妹を気にする事なく、僕は制服のブレザーに着替える。外は冷えるので、その上からコートを重ねてマフラーを巻く。そこで不意に違和感を感じる。
――トワコって、なんで学校行かないんだっけ。
一瞬脳裏に掠めた違和感。しかし忘れてしまったことを、気にしている暇はないので、僕は部屋を出る。
折り畳み傘を持って、玄関でローファーを履く。指で踵を靴の中に入れ、トントンとつま先で敷き詰められたタイルの床を蹴り、外の世界へ踏み出す。僕にとって、未だに外の世界は怖くて、それと向き合うのに、毎朝勇気が試されるのである。玄関の扉を開けると、内側と外側の気圧差に、戻しそうになるのをぐっと堪えて、アスファルトを踏みしめる。吐き出す息は白く、どこまでも続く澄んだ青に消える。師走の冷たい空気は、なんだか透明で、キュッと引き締まっているように思えた。
駅までは徒歩で五分。急行と準急は停まらないので、一本見送ると結構な時間のロスになる。だからいつも早めに家を出ることにしていた。僕らの身体を都会へ運ぶ電車の乗客は多く、その人混みは、わんさか出てくるゲームの魔物を思い出す。魔法剣士でハイブリッドな僕は、その人混みに一騎当千、改札を潜る。実際はNPCの村人の一人がいいところだ。セリフは一言「○○の村へようこそ」。精々ポーションでも売って、一儲けできる人生を送れるよう、今日も勉学に励もうか。
そんなこんなで、今日も満員電車で揉みくしゃになりながら、なんとか日常をこなすことができそうである。ダンジョンも無くて、魔物もいなくて、剣も魔法も覚えなくてよい、酷く平和で平凡な日常が、こんなにも困難なものだなんて、思いもしなかった。
つり革に捕まらない女子高生たちは、揺れる電車内、器用にスマホを触っている。ぎゅうぎゅう詰めのこんな状態なのに、新聞を読む人、小説を読む人、皆こんな窮屈な場所に、思い思い自分の領域を作っている。しがみ付いたこのつり革を、当分手放せそうにもない僕には、それが平穏を謳歌しているように見えて、羨ましかった。
不意に『てぃんこーん』と、僕のスマホが鳴る。メッセージアプリの通知音である。空いてる方の手で、コートのポケットから、スマホを取り出す。
『今日終わったら、ミセド寄って行かないか?』
クラスメイトの藤原である。驚くべきことに、引き篭もりを辞めて二年、死にもの狂いで高校に入学した僕にも、やっと友人と呼べるものができた。僕みたいなNPCの村人には、ありがたい話である。村人は村人とコミュニティを作り、人が集まり村となり、いつしか大きな街に発展するのかもしれない。
電車を降りると、無機質な人の流れがあり、その流れに身を任せ、駅を出る。駅から徒歩で十分、僕の通っている高校に辿り着く。校門を潜り抜け、しばし歩くと村人の僕に声が掛かる。
「へいへいへーい。そこを行く少年よ。少し待ちたまえ、待ちたまえよー」
大きな瞳に長い睫毛をばさばさと羽ばたかせ、僕の傍から颯爽と横切り、正面に立ちはだかるのは、一学年上で二年の深津 壱花先輩。とても整った顔で、形のよい真っ直ぐな鼻筋はまるでフランス人のようである。
「えーと、市立新須賀東高等学校へようこそ」
きちんと村人らしいセリフは、言えたであろうか? 取り敢えずフランス人みたく鼻筋の通った先輩には、軽くエスプリを利かせ応対してみる。少し前まで引き篭もりだったこの僕に、まだまだボーイミーツガールは敷居が高い。
「さすがは小田切少年。朝からハイセンスを飛ばしている。わたしの見込んだ男だけある」
凄く美人であることを差っ引いても、嫌いではない。なんだか”古い友人”を思い出すからである。そう言えば、その”古い友人”は元気にしているであろうか。
「なんの用です? 深津先輩。最近ずっと僕のこと尾けていたでしょ」
「だぁぁぁ、ばれてしまっては、生かしておけないな。恥ずかしいじゃないか。さあ、どうする? 亡き者になるか、お姉さんと一緒に放課後、部室に来るか」
放課後の部室と言うと、なんだかとってもエッチに感じるが、彼女の部活はあらゆる市販されたゲームを攻略する、なんともニッチな通称ゲーマー部である。そして部員は、彼女と幽霊部員数人が在籍するのみだ。藤原のやつに、僕がエターナル・ザイオンを昔やり込んでいた事を、うっかり漏らしたのがいけなかった。あのスケベはそれをダシに、深津先輩とお近づきになろうとしたに違いない。
「僕はゲームとか、辞めたんですよ。ゲーマー部には入りません。帰宅部のエースなので申し訳ないです。来年はインターハイも狙ってるんで」
「言うじゃないか小田切後輩。見学だけでもいいから一度来てはくれぬか」
「それに今日は藤原と約束あるんで……ホームルーム始まっちゃいますので、行きますね」
「あ、待ちたまえ、少年よ」
僕は人より中学生を一年余分にやっているので、実は彼女と同じ年齢である。尤も、それは内緒の話であるのだけれども。