プロローグ
その時、僕たちの手には、世界の命運が握られていた。
ネトゲ廃人の朝は早い。卓越した職人さながら、小慣れた手つきでギルドの共有財産である装備品を分配し、出陣の時を待つ。これだけの協調性が、もしも現実世界で活かされるならば、僕らは立派な社会人に成れることであろう。
ゼロとイチだけで構築された生温い風に、ギルドマスターの三つ編みが揺れる。世界はオレンジの朝焼けに包まれていた。その神秘的な光に照らされ、目に映るどれもが仮想と現実をあやふやにさせる。
小高い丘陵の上にある三階建ての砦から見下ろす一大パノラマの先端、ジグザグと草原を縫うように敷かれた石畳の道が、瘴気を放つ森へと続いている。その森の向こうの神殿に奴がいる。
「さあて、そろそろ時間だよん。OO。準備はいいかい?」
スカートの裾を翻し、眼鏡を人差し指で上げたのは、ギルドマスターである魔道士ヘミングウェイ。彼女の合図を皮切りに、警戒を知らせるアラートが、僕らの脳内に鳴り響き、瘴気の森より夥しい数の魔物が現れる。「ああ、いつでも行けるよ。生きてまた会おう」と、僕らは、各々得意の武器を引っ提げ、雄叫びを上げながら駆け出す。これはギルドの威信を賭けた大規模戦闘である。
【〇と一の神隠し】
補助魔法の力で加速した僕は、左手にこさえた炎で、瘴気の森を焼き払い、右手に構える聖剣で、魔物たちを粉微塵に粉砕していく。過去最高難易度のレイドイベント『黒帝マッスルバーニィ襲来』の先陣を切る。
ギルド最高の魔法剣士にまで昇りつめ、『神速』の二つ名を持つトップランカー中のトップランカーにして、生粋のアタッカーであるこの僕は、誰よりも最前線で戦うことを得意としている。ダメージを受けては、後方に引き、その間は仲間の壁役に前線を引き継ぎ、回復職に回復をして貰う。長期戦になるのは、初めから解っている。
メーカー非公認のレイドボス『マッスルバーニィ』。そのステータスは、かの黄昏の神龍や宵闇の魔王、そして暁の堕天使の御三家を遥かに凌ぐ仕様であるらしい。メーカーである徳川エンタープライズは、このレイドイベントに一切の情報を開示せず、未だ口を閉ざしたままである。外部からのハッキングにより、システムに混入した不正プログラムこそが黒帝なのだとか、そんな眉唾な都市伝説ばりの噂話ばかりが、インターネット上で、まことしやかに囁かれている。
瘴気の森。そこを抜けたところで現れたのは神聖な佇まいの神殿。筋肉兎の巣と呼ばれている。隠し階段から続くのは、自動生成される地下三〇〇階まで続くダンジョンで、過酷極まりない。かく言う僕たちのパーティーも、何度も全滅しデスペナルティの煮湯を飲まされてきたものである。今回は六度目の挑戦だ。
前線を何度も交代し、ステータス的にも、現実の肉体的にも疲弊するプレイヤーたち。何人もの命を落とす同志の屍を乗り越え死闘の末、ついには黒帝マッスルバーニィの元に辿り着く。
マッスルバーニィ。可愛らしいのは名ばかりで、その姿は黒き雷の如し。どの角度から見ても全容が把握できない。黒帝は全ての魔法を無効にし、その高い攻撃力で、防御に振り切った壁役たちの命をさくさくとカンナみたく削っていく。ここに来て半分魔法職の僕は、お荷物となった。何故なら黒帝には、魔法が一切通用しないからだ。僕は攻撃魔法の火力と足の速さに、全てを振り切ったアタッカー中のアタッカーで、剣士として、及び補助魔法を駆使するバッファーとしては、二流三流もいいところである。神速と呼ばれているものの、有用な補助魔法のバフは、自分にしか付与できないのだから救えない。
友情さえも感じる数多の出来事を共にしてきた仲間たちが、次々とマッスルバーニィに喰われていく。僕と同じくお荷物であるヘミングウェイは、時折アイテムを前線に送りながら、後方でずっと待機していた。
「あーあ、こりゃダメかもねぇ。魔法が効かないなんてあんまりだよ。次回は対策して来ないとねぇ」
「諦めるなよ。ダメージはきちんと通ってる」
「ひひっ、きみのそういう飄々としているくせに、いざとなると暑苦しいとこ、嫌いじゃないよ。でもね、それは綺麗事の絵空事さ。見なよ……もう残すところあたしたちだけだよ」
僕とヘミングウェイ以外の仲間は、見事に全滅した。レイドが始まってからの十数時間。否、このゲームを始めてからの総プレイ時間、二年で八千と数百時間。その全てが無駄なもののように思えた。
「さて、見ていておくれよ。あたしの一世一代の晴れ舞台」
「おい、ヘミングウェイ。何する気だ。やめろよ」
ギルドマスター大魔導士ヘミングウェイ。彼女は酷く落ち着いた動作で、掛けていた眼鏡を外し僕に笑みを見せる。「ひひっ、これきみにあげるよ」僕にそれを手渡す彼女の肌から伝わる体温。皮肉なもので、このゲームのこんなリアルな質感が今は悲しい。顎を剥く黒帝の方へ、その小さな身体を向け、栗色の三つ編みを解く。彼女は無詠唱で、右手には紅蓮、左手には群青の光を創り出し、それを合わせる。長い間、彼女に背中を預けてきた僕ではあるが、この魔法は一度も見た事がない。が、これは……。
これでも魔法職の端くれ。初めて見るが、初見でこれが付与魔法の一種にして、三種ある自爆魔法の一つなのだと気づく。その命と引き換えに、仲間ひとりのステータスに絶大なバフを付与するユニークスキルである。
瞬きをする間も無く、ヘミングウェイの身体が七色の光に包まれ、粒子となって虚空へと消え、僕が手にする聖剣が神々しく輝く。
せめて一太刀でも。僕はスキルと自分を加速させる魔法を駆使し、最大出力で、ヘミングウェイに気を取られ隙だらけだった黒帝に斬り掛かった。真一文字に斬っ裂く剣線が、黒帝の顔を薙ぐ。
はっきり言おう。これはダメ元で勝算なんて、これっぽっちも無かった。いくら聖剣に莫大な力を付与したところで、元の僕に大した力は無いし、物理攻撃のスキルも取っていない。しかしだ。僕らが全滅寸前であったように、黒帝マッスルバーニィもまた瀕死であったのだ。
禍々しい紫の閃光を放ちながら、地面に崩れ落ちる黒帝マッスルバーニィ。まさにバグなんじゃないかという程の、ぶっ壊れたステータスであった。
「か、勝ったのか?」
ダンジョンの天井付近に浮かび上がるCongratulationsの文字。そして黒帝は真っ黒の小さな石をドロップした。確認すると『マッスルバーニィの尻尾』と言う名で道具袋に入っていた。
ついに……ついにやったんだ。僕たちは勝利したんだ。黒帝に勝利した報告や攻略情報は、Wikiにもまだ上がっていない。僕たちが一番乗りかもしれない。数々の死んだ仲間たちの顔を思い浮かべては、空を仰ぐように僕はガッツポーズする。
…………。
プツっとそこで視界は遮断された。スイッチが切れたように、世界は暗転し、現実が巡る。目を開くと、カプセル型のゲーム機を無理矢理こじ開ける父親の顔。
そうだ。忘れていた。これはあくまでもゲームであった。ああ、何日も風呂に入っていない。棺桶のようなゲーム機の中は、獣のような酷い匂いがした。
「おい、どうしてくれるんだ。ここまで来るのに何十時間掛かったと思っている! いきなり強制終了させて。自分のやったことが解っているのか」
棺桶のような箱の中、だらし無く横たわりながら、父親に怒鳴り散らす僕に、父は叱るでもなく、謝るでもなく、ゆっくりと口を開いた。
「零よく訊きなさい。さっきな、病院から連絡があってな。母さんが……たった今、息を引き取った」
長時間のフルドライブ型ゲームによるヴァーチャル酔いなのか、頭がぐわんぐわんして、耳が遠くて、まるで体から心のみが乖離しているようであった。
徳川エンタープライズ社が全世界にリリースした、オンラインRPGエターナル・ザイオン・オンラインの世界で、僕が栄光を手にしている最中、母は誰にも看取られることなく、病院で静かに息を引き取ったそうだ。末期癌であった。