黒ブサにゃんこは今日も我が道をゆく
*
「これは……いっそ笑うしかない、のか?」
ローリアは家で一番大きな鏡に向かい、震える手をぺたりと付けて呟いた。
それは彼女にとって、その時その場における本心そのもの。
ありえない失敗を仕出かした時、人は総じてその言葉に辿り着くのかもしれない。
見習いとしてのひよっこ時代ですら、大抵の術式でほどほどの成果を収めてきた。そう自負していた自分が今となっては気恥ずかしい。
だが、同時に浮かび上がる疑問。
かなり入念に描いた筈なんだけどなぁ……っと。掴みにくくなった両手で術式を描いた紙を持ち上げ、満月のような目を丸々と見開き、細部まで改めて確認してみる。
いくらも時間を経ず、原因は明らかとなった。
「何だこれ。何をどうしたら『色そのまま』と『へちゃむくれ』なんて言葉が混じるんだ。もう、自分が自分で訳わからん!」
もしや昨晩、柄にもなく飲み過ぎたからか?!
ふさふさのお腹を露わにしたまま、ごろごろと絨毯の上を転がるローリア。
暫くの間、右へ左へと飽きることなく転がっていた彼女もややあって諦めの方向へと落ち着いたのだろう。
ぺたん、と弾みをつけてうつ伏せになってから柔らかな四肢を支えに立ち上がる。いわゆる四つん這いだ。
そしてそのまま円卓の上へと飛び乗った。
正面に、ふたたび見えるは、大鏡。
――鑑よ鏡。この世で一番不細工な猫はだぁれ?
――それはもちろん貴方ですよ。
うん、納得。内心で遊ぶのも大概にしておこう。
「しかし、見れば見るほど不細工な猫だな……」
しみじみと彼女が呟いた言葉は、自虐でも何でもない。
十人中十人が一目で「不細工だな」と評価を下すであろう、へちゃむくれな顔つき。
全身を覆うふかふかの毛は艶々として、手足の先の僅かな白さを除いては真っ黒。
よく言えば丸くて福福しい、ぽってりとした曲線美。
左右対称ならまだしも、右だけがやや垂れた三角耳。
いっそ惚れ惚れとするほど、見事なブサ猫であった。
*
ローリア・フェンネルは王国の魔術師だ。
事の始まりは十二歳。当人曰く『なし崩し的に』魔術に開花し、それをきっかけに副王都の教会で守護を担っていた魔術師の伯父の目に留まることとなった。
半生における不幸その一である。
王都の魔術アカデミーへと強制転入させられたのは翌年のことだ。
当人の意思とはまるで関係なく、唐突に十二層もの魔術結界に覆われたアカデミーの門の前へと放り出されたローリア。齢にして、十三。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすとはよく言ったものだが、まさに実例。
彼女は生まれたての小鹿のような足取りで、よたよたとアカデミーの門を潜る他なかった。
けれども人間、何事も慣れである。
当初こそ、教室の片隅でその挙動不審振りを隠し切れずにいた彼女も、半月も経た頃には通常の精神状態を維持できるまでに成長した。
周囲の貴族子息たちから向けられる侮蔑の目、習慣化した細やかな嫌がらせの数々、嘲笑如何も何のその。いつしかローリアは、アカデミーで得た友人たちの助言を参考にしながら巨大な猫を被る術を身に着けていった。
『微笑みは貴族の嗜み』とはよく言ったものだが、事実友人の笑みは周囲と比べても格段に完成度が高い。
特に目は笑わずとも、微笑んでみせるという特殊な芸当。あれはとても自分には真似できるものではない。いつであったか「一種の才能だな」と言ったら「それ嫌味?」と返されたが。
因みにこれは別段嫌味でも何でもなく素直な感想。今も変わらずにそう思い続けている。
それはさておき。学年の半ばからは飛び級を繰り返し、通常は七年近くかかる魔術養成課程を三年に短縮した。
周囲の視線はお世辞にも好意的といった風ではなかったものの、当人にとっては些事だ。今更気にしないよ。
ただ頑張った分だけ、認められる成果も大きかったと言うだけの話。
それもこれも早々にアカデミーの門を出て、好きなだけ甘味を買い占める為だった。
何故にここで甘味が出てくると?
説明しよう。アカデミーでの食事はその八割方が薬膳であり、大の甘党であるローリアにとってはまさに死活問題だったのだ。
誤魔化しようのない苦さ、微妙なエグみ、香草臭いの三つ揃え。終いには泣けてくる。
貴族特権とやらを振りかざし、爵位持ちの令嬢たちがアカデミーの中庭を占拠してお茶会を開く度にローリアは薔薇の陰で密かに涙を堪えていた。頑張ったよ、自分。転移魔法を悪用もせず、よくぞ耐え抜いた。
とまぁ、そんなこんなで甘味への愛ゆえに異例の飛び級を重ねた彼女にもとうとう運命の日が訪れた。
そう、アカデミーの卒業である。
周囲の畏怖の目など欠片も気にせず、意気揚々と門を潜ったローリアはそのまま王都の五つ星ランク甘味処へと足を向けようとして――
待ち伏せされていた伯父の馬車に乗せられ、ドナドナの旋律もよろしく小春日和の街道を王城へと運ばれていくこととなった。
そして到着した王城で彼女を出迎えたのは、他でもないアカデミーにおける数少ない『友人』の一人。
国で最も高貴とされる血筋に連なりながら、学園においてはその身分を巧妙に隠し通していたクリス・レインフォール(偽名)こと継承権第三位、クラウス・ジル・ガトレーデ。
そう、国の第三王子であった。
なにそれ美味しいの、って鼻で笑えない程度に雲の上の人物の招聘だった。うん、冗談でも「失礼、先約(甘味)があるので」とは言えまい。
しかしながら、無言で訴えはした。命知らずである。しかし相手も伊達に『友人』として付き合ってきたわけじゃなかったらしい。
にこりと微笑んで目の前のテーブルに置かれたのは籠一杯の焼き菓子。それに加え、指パッチンで背後にずらりと待機させていた侍女さん達の手元に燦然と輝く数十種のケーキを目にしては、こちらの惨敗は端から決していた。
「くっ、……用件は?」
「うん、察しが良くて助かる。持つべきものは友人だねぇ。リアには僕の護衛魔術師になって欲しいんだ。ゆくゆくはもう一段上の立場に上がってもらうつもりだけど、ひとまず今の君に望むのはそれだけ」
「前にも言ったと思うが、愛称呼びは却下で。あと雇用形態と給与は要相談でお願いしたい」
「構わないよ、リア。契約成立だね。あと、前祝としてこの室内に用意した甘味は全部君にあげる」
「話を聞いているか?」
「もちろん」
これから宜しくね?
そう言って、『友人』は天使の容貌をして狡猾な悪魔の如く、矛盾に満ちた微笑みを浮かべてみせた。
それが遡る事、三年ほど前の話。半生における不幸その二である。
残りはあと幾つあるんだと突っ込まれても、急には答えられないな。まぁ、目算で六つはあると踏んでる。
現在の所属は、第三王子クラウス・ジル・ガトレーデの直属の近衛隊。地位は隊長補佐。大まかに言えばそんなところかな。
ちなみに近衛隊長も、アカデミーに通って得た友人だ。アカデミーに通っている間にローリアが得た友人の数は片手の指に収まる人数。つまり五人。
友人になった順番で上げていくと、一人目がルセル・レインフォール。レインフォール侯爵家の次男にして、剣技の鬼才。家名からも分かる通り、アカデミーに通っている間はクリス(偽名だけど)とは従兄同士という設定を生真面目に守り通した苦労役だ。当時は二人揃って貴族の令嬢たちに常に囲まれる生活を送っていた。
それもこれも当然の成り行き。容姿良し、家柄良し、文武に優れて性格も生真面目とくれば黄色い悲鳴を浴びても仕方がない。だが、当人はそれがとても面倒で煩わしいものとしか思えなかったらしい。正真正銘、生粋の硬派だ。上司として彼を仰ぐ分には文句はない。
自分に厳しく、他人には程々に厳しい。まさに理想の上司像。友人たちの中でも一番の人格者だと思う。
二人目は言わずと知れたクリス・レインフォール(ただし偽名)。ルセルと実技の授業を通して知り合いになり、自然と挨拶を交わすようになった頃に「やぁ」の一言共に視界に入るや否や、いつの間にやら隣の席を確保されるに至った。未だにあの頃の彼の思うところは不明だ。いや、今となっても分からないけどな。
お昼時になればルセルと共に何処からともなく姿を見せ、一緒にご飯。
実技でクラス対抗ともなれば休息の合間中、横にいる。
どうやら懐かれたらしいと気付いた頃には、ルセルから「色々と遅すぎたな」の一言を貰った。確かに周辺被害は以前の比ではなく、二人と一緒にいる時間以外は絶えず嫌がらせに近いあれこれを受けたものだ。とはいえ、全部ひっくるめて二倍にしてお返ししておいたが。鬼畜? いやいや、術式を発動者へ返せば必然的に威力が二倍になるのは公然の事実。基本中の基本だ。
それはさておき、クリス(以下同文)には苦労させられた記憶しかない。
半歩離れれば一歩近づく、といった行動指針を掲げているのかと本気で疑ったことは数知れず。まぁ、なし崩し的に友人枠に収まったと言うのが雰囲気としては近いな。
残りの三人については機会があればまた、ゆっくり回想しようと思う。
現在、お取込み真っ只中なのである。
「……ローリア、なのか?」
「さっきからそうだと言ってるだろう」
「初めから順を追って説明してもらわない限りは、お前がローリアだと判断できない」
「まぁ、それもそうだにゃ」
「その語尾は何だ……」
「悪戯心だ」
遡る事、数刻前。
大鏡の前で一通り今の姿を確認した後、ローリアは三度の猫ジャンプの末に自宅のノブを回して外出することに成功した。
向かう先は、ルセルの執務室。知り合いの中で一番信用出来る上、仕事場の上司に真っ先に状況を伝えるのは普通に考えても当然のことだ。
長い尻尾を揺らしつつ、低くなった視界を再確認。慣れないが、まぁ大丈夫だろうと楽観的に考えていた。
甘い考えだったとは、すぐに知れたが。
なるべく近所の人々に見られないよう、家々の塀と塀の間を恐る恐る進むも途中で近所のボスに遭遇。
壮絶な追いかけっこの果てに、道に迷った。
仕方なく見知らぬ通りを太陽の位置を頼りに右往左往するも、ふと目が合った数人の子供たちから「あ、見ろよあれ! すげーブサ猫がいる!」「ほんとだ、あんな不細工な猫いるんだな!」と口々に指を指されることで僅かながらも傷心。いや、自覚はしているんだ。でも改めて言われるとグサッとくる。馬鹿にならないこの威力。
やや俯きがちに再び塀の上を歩き出したら、何の因果か土砂降りに合う。
お蔭で全身ずぶ濡れになり、まさに濡れ鼠と言った様相になった。いや、猫だから濡れ猫か。
王城に辿り着き、衛兵たちの死角をすり抜け、やって来ました執務室。流石に正面から入るわけにもいかず、窓をトントンしたら友人の訝しげな眼に見詰められるという精神的ダメージに加え、一度は無視されるという憂き目にあった。
窓を開けてもらえたのは、二度目のギーギーの後だ。爪でガラスを引っ掻いたら自分の耳にもダメージを食らった。泣けてくる。
ジト目で見上げ、意外と動物に優しくないことが判明した友人に愚痴をこぼした。
「ルセル、全身ずぶ濡れの猫に随分と冷たいな。野良ネコ全部に優しくとは言わないが、せめて友人には優しくしたらどうだ?」
「……生憎と、猫に友人はいなくてな」
「部下にもか?」
「言うまでもない」
しかし、猫とでもこうして生真面目に対応するのがルセルらしいと言えばらしいな。
しみじみと見仰ぎ、くしゃみを一つ。やれやれ、このままだと冗談でも何でもなく風邪を引きそうだ。こういう時は、あれだな。
本能というか、経験則と言おうか、猫が水を弾こうと思えば取る動作はただ一つ。
初ブルブルだ!――とまぁ、意気込みは十分だった。
しかしその試みは不発に終わる。その場でブルブルしようとしたら、がっつり制止された。
素早く動いた両手で、がっちりホールドされていた。普通に濡れるぞ?
無言で見合うこと暫し。
「なら、何か拭くものを貸してくれ」
「……止むを得ないな。少し待っていろ。ただし、俺がいない間にブルブルしないと誓えるか?」
「分かった」
「暫し待て」
真顔。真顔で猫に誓いを求めるルセルの真剣そのものといった雰囲気に必死に笑いを堪えたら、危うくそのままブルブルし掛けた。
危うい危うい。誓いを破れば、その辺に洗濯物同然に干されかねない。気を付けないとな。
じっとりと重い毛の合間から、ぐるりと見渡したルセルの執務室はいつもより大きく広く見えた。縮尺が違うとはいえ、何だか新鮮な気持ちでウロウロしていたら、戻ってきたルセルに摘み上げられた。
いや、すまん悪気はないんだと弁解すれば、大きな溜息と共に上から真っ白なタオルが二枚落ちてきた。
お礼を言い、そのまま体を拭かせてもらう。
「それで、何がどうしてそうなった?」
「うん、順に説明をするとだな……」
タオルにぐるぐる巻きになったまま、覚えている限りの記憶をルセルに語って話した。周囲は少しずつ暗くなっていき、全てを話し終える頃には灯火が四つ。
流石に少し疲れてきたな。
「おおよその事情は分かった。つまり、術式を誤ってその姿になったのだな?」
「一応そういうことになる。正直なところ、未だに釈然としない部分はあるけどな」
「そうだな……酒を飲んでふらふらになったとして、お前の判断能力がそこまで悲惨なことになるとは俺も思いたくない」
「悲惨て言うな」
「事実だろうが」
返す言葉もない。
波打つ黒髪が、魔術適性が強い証だと周知されつつある現状。何が哀しくて術式を失敗した結果がブサ猫。
とてもじゃないが、周囲に知られるわけにはいかない。醜聞も醜聞だ。最悪の場合、役職の進退に直結しかねない。
んー? でも待てよ。このまま首にされればそれはそれで悪くないんじゃないか?
そうだ、晴れて自由の身だ。放浪の身の上として、各地を転々としつつ甘味巡り。悪くない。
「悪くないじゃない、この馬鹿」
「な……ついに読心術を身に着けたのか、ルセル」
「普通に口に出ていた。どうしてそういうところが微妙に間が抜けてるんだ、お前。だからあんなのに目を付けられて……」
「あんなの? どんなのだ?」
「この激ニブ猫が……」
首の後ろを摘み上げられ、だらーんと伸びる。おっ、話には聞いていたが確かに痛くない。母猫が子猫の首を咥えるのは理に適っているんだな。実体験で確認できたから本当だと分かる。
「とにかく、元の姿に戻るまでお前の身柄は俺が保護する。絶対にこの部屋から出るな」
「……せめてご飯と水は用意してくれ。あとトイレ砂」
「適応し過ぎだろうお前……」
いやいや、住が確保されたら次はそこだろう。衣は当面必要ないし、食は重要だ。
恥じらい? そんなものをこの状況で気にしてたらやってられないよ。排泄もまた生命の基本だ。
「……分かったから、とにかく出るな。万一お前のその姿を見たら、奴は確実に暴走する」
「奴って誰だ」
ふさふさに戻ってきた尻尾を揺らしながら尋ねるが、返って来るのは憐憫の視線のみ。えー、なんだろうか。その可哀そうな子を見る目は。
知らない方が幸せなこともある? それを魔術師に言うのか友よ。
「とにかく、出るな」
「分かったよ。友人の頼みとあっては、こちらも頷くだけだ」
ポン、というよりかはボスンと重みを加えて頭の上に乗せられた手に苦笑で返す。
心配されているのは、目を見れば分かる。上司としてよりも友人として過ごしてきた歳月の方が長いのだから、見誤ることはない。
しかし続けて言われた言葉には、薄々予期はしていたものの背筋がピンと張り詰める。
「問題は効力が一日たっても切れない場合だ。最悪、教会に秘密裏に繋ぎを取るほかないだろう」
「……はぁ。伯父上殿には、正直会いたくないんだが」
「仕方がない。シーリス師以外にこんな不測の事態を相談できる相手がいるか?」
「残念ながらいないな」
苦手なんだよなぁ、あのヒト。でも実力は折り紙付きだ。
全力で戦って、万に一つも勝てる気がしない。今も昔も、あの人より優れた魔術師を他に知らない。
我が伯父ながら、恐るべきヒトだ。しかもその姿は伯父と呼ぶには躊躇わせる容貌。
そこらの美女よりも美しいって、四十も後半にしてどうなのかな。
「……正直、俺もあの人とは出来る限り繋ぎを取りたくない」
「あれ、ルセルも苦手だったか?」
「苦手……まぁ、間違っていない。だから、できるだけ自力で人型に戻ってくれ。それまでの仕事の穴は俺が補完しておく」
「すまない、ルセル」
「気にするな」
一人と一匹は小さく笑い合う。
執務室で友人として会話をしたのは、その日が初めてのことだ。
ルセルは残りの業務を片付ける許可を得るため、宰相殿の下へ行った。その合間、再び一匹で残されたローリアは福福しい全身を揺らしながら執務室の中をぶらぶらと歩き回った。
隙間を見ると、身体がウズウズする。壺も駄目だ。あー、本能とはこれほどに厄介なものなのか。
結局抗いきれず、もぞりもぞりと机と壁の間に潜りこんだ結果は言わずもがな。
「……何をしているんだ」
「ぬ、抜けなくなった。出来れば手伝ってくれると助かる」
溜息と共に、後ろ向きに引っ張られて生還する。うん、空気が美味しいな。
友人の冷たい眼差しに、またもや傷つく自尊心。あぁ、せめてもう少し体がスリムだったらいけたのに。
うじうじと前足をソファーの背もたれに交互に押し付けている間にも、誠実な友人たるルセルは今宵の寝床を拵えてくれたらしい。
ボスン、と飛び込んでゴロゴロする。
ふっかふかだー。幸せだー。やっただけできる男、それがルセルだー。
「砂は明日まで待ってくれ。食事は普段通りでいいのか?」
「駄目そうなのは鼻で鑑別するから、そのまま用意してもらえると嬉しい」
「分かった。もう少ししたら運ぶ。俺は隣で仕事を片付けるから何かあったら呼んでくれ」
「ルセル、もし猫の手も借りたかったら言ってくれ。出来るだけ手伝うよ」
「今は間に合ってる」
ひらひらと手を振って隣の休憩室へと消えたルセル。相変わらず男前だなぁ。上司の鑑。
猫になってもそう思わせるんだから、相当だ。
天上を見上げたまま、しばし黙考。さてもおかしな事態になった。原因は明らかだけど、経緯に不可解な点は残ったままだ。
勘だけれど、自力で人型に戻れる気がしない。自身が描いた術式なら、術者の込めた効力が切れさえすれば自然消滅する。自明の理だ。ただし、他者の手が加えられていれば話は別。
どちらに転ぶにせよ、明日には判明するだろう。
*
部屋へ夜食を持って入ると、グーグーと健やかな寝息が聞こえてきた。
何となく予想はしていたが、やはり寝たらしい。夜行性と言うのは嘘なのか。
覗き込めば、艶のある黒猫が身体を丸めて幸せそうに眠っている。不細工だが、しばらく眺めているとどことなく愛嬌もあるように見えてくるから不思議だ。
それに、見ているこちらまで脱力しそうな幸せそうな寝顔をしている。
「……ローリア。眠っているのか?」
三角の耳に指を寄せ、興味本位でツンツンと弄ってみる。
暫くは眉根に皺が寄るだけだったが、最後は前足でえいやっ、とばかりに弾かれた。意外とこれがツボに嵌った。
何度か繰り返すと、終いには球体のように丸まって顔を埋めてしまう。
尋常ではない柔らかさだ。理由は簡単。猫だからな。
「……残りの仕事を片付けるか」
息抜きを終えてルセルは隣の部屋へ戻り、執務室には一匹の寝息だけが残された。
*
うーん、と猫のように伸びをしてそのまま顔を洗い始めたところで本日も猫であることが判明した。
ピンクの肉球、ふさふさの前足、タプタプのお腹、適度な艶感。
おはよう、皆。猫の朝はまぁまぁ早いぞ。
「ウニャ―ァ」
「……随分と猫が板についているな」
欠伸と同時に、ピッタリのタイミングで入室してきたルセルの手には焼き立てのパンがホカホカと湯気を立てている。
ふんふん、いい薫りだ。ヒゲも自然と動く。そう言えば昨夜はご飯を食べ逃したな。流石にお腹がすいてきた。
「おはよう、ルセル。いつもながら早いなぁ」
「寝ていないだけだ」
「……何かすまん」
「気にしなくていい、それよりもお腹が空いただろう」
ことり、と置かれたプレートの上には二種類のパンと三つの小皿。小皿にはそれぞれ野菜のスープと一口大にカットされた鶏肉の炒め物、ふわふわのオムレツが乗っていた。
「本当にありがとう、ルセル。恩に着る!」
「部下に着せる恩はない。いいから食べろ。その間に砂の準備をしておく」
言い置いて、そのまま背を向けようとしたルセルの背中に微かに触れる小さな手。
ポンポンと肉球で呼び止められた彼は、猫の姿の友人が発した問い掛けに目を丸くすることとなる。
「ルセルはどうして結婚しないんだ?」
「待て、いきなり何の話題だ?!」
「ここまで気を配れて、容姿も性格も家柄も文句の付けようがないのに、どうして結婚相手が見つからないのかなぁと……。あ、真顔は止めてくれ。気に障ったなら謝る!」
「……見つからないんじゃない。見つける気がないだけだ」
「なるほど。ルセルは学生の時分からあんまり騒がれるの好きじゃなかったもんな。女の子に興味がない、と」
「待て、何か誤解のあるような発言はやめろ。俺も異性に興味を持ったことはある」
思わず口を割って出た言葉に、ピンと張った三角耳の動きをルセルは見逃さない。
友人としての顔を瞬時に上司としてのそれに切り替え、その一言を発する。
「食べないなら、全て下げる」
「ごめん食べる」
爛々と輝いた両目が垂れて、耳もシュンと下を向く。
もう少し言葉を選ぶべきだったかと彼は反省しかけ、けれども寸前で口を閉じる。
食べている間にみるみると活力が戻っていくのは一目で明らか。部下にして友人の幸せそうなネコ顔に苦笑を浮かべ、ルセルは猫砂の準備に取り掛かった。
「一応昼頃まで様子を見て、それでも戻らないようなら連絡を取る。それでいいな?」
「ああ、異存はないよ」
食べ終わり、再び顔を洗う。ヒゲのむずむずも収まったし、空腹は満たされた。何も言うことはない。
「昼頃には一度戻るが、それまで絶対にここを出るな」
「全くルセルは心配性だな……。いや、真顔は止めてくれ。わかった約束する、誓う!」
「……はぁ」
溜息と共に扉の向こうへ消えた背中と、窓から見える青い空。
猫になったとはいえ、変わらない日常もある。本日も快晴なり。さて、何をしようかな。
「とりあえずもう一度、魔術式の見直しから始めるか」
ごそごそと異空間から羊皮紙を取り出し、ソファーに寝ころびながら全景を目で追う。
そもそも異空間ってどこから出現したんだと疑問に思う人も少なくないが、魔術師として空間を司る魔術式を一通り把握した者は、大体持ってる。それが異空間だ。
猫になった時は、正直使えるかどうか五分だなー、と思ったけれどこれが幸いにも使用可能。ただし、制限を受ける部分も少なからずある。
例えば、召喚式。これはまるで駄目。
あとは『風』以外の属性の攻撃性魔術式はほぼ威力が半減。これも正直手痛い。
それでも、今あるもので対応する以外に道はない。ならば、出来る部分で補えばいい。無論、簡単な話ではないけどな。
「……『へちゃむくれ』と『色そのまま』か。昨日は気付かなかったけど、もう一つ書き加えてあるな」
そう、似せてはあるけれども筆跡が違う。
筆先に乗せた魔力の違いで、本人のものか別人のものかある程度修練を積んだ者なら判別可能だ。
ただ描くだけで魔術が発動していたら、対処が追い付かない。
だからこそ魔術師は時と場合に応じて使い分ける技量がまず初めに求められる。
一字でも魔力が籠らない魔術式は発動されないし、それは線も同じ。魔術書の類はたいてい頭の一字が魔力を込めずに描かれる。
だからこそ、次に読むモノに害をもたらさずに済む。
他者の術式に、異なる術式を加える。それ即ち、魔術師同士における『挑発』そのもの。
簡単に言えば、喧嘩を売られているも同じだ。
「……やれやれ、舐めた真似をしてくれる」
猫にさえなれば、相手にならないと?
そう思うなら、その思い込み自体をこの肉球一つで粉砕してくれる。
――目には目を。歯には歯を。魔術には魔術を。そうして返る魔術は二倍に膨れる。これは自明の理。
例え、使える魔力が半分に減ろうと。
例え、その姿を黒くて不細工で色々と残念な猫に変えられようとも。
普段のローリア・フェンネルとして対応するのと、少しも変わらない。
彼女はただ、彼女らしく前に進むだけなのだ。
福福しいフォルムだから、ちょっと動き辛いけどな。歩幅も狭いけどな。
でも今は敢えて言う。
黒ブサにゃんこは今日も変わらずに、我が道をゆく。
*
「やれやれ、少し長引いたな。昼ごはんには少し遅いか」
深藍の髪を風に靡かせつつ、仕事に一区切りをつけて戻って来たルセル。
彼が執務室の扉を開けた時。
その視界の先には、猫のねの字も見当たらない。
「……ローリア。全く、お前は本当に……!」
舌打ち混じりに低く呟かれた声は、魔力耐性のない者であれば気絶に追い込まれそうな代物だった。
風の如く身を翻すや、扉も半開きのまま、ルセルは駆け出していた。
だからこそ、気付けない。
確かに一見したところは見当たらなかったかもしれないが、実はローリアが室内にいたことに。
ただただ、隙間に挟まっているだけだということに。
二度あることは三度あるとはよく言ったものだが、今回の場合は一度ある事は二度あるという実例だ。
「……ルセル―、違うー、ただ挟まっただけで約束は守ってるぞー?」
随分長いこと嵌っていたらしく、息も絶え絶えのローリアは完全に助命のタイミングを逸してしまった。このままだと空気不足で死ぬかもしれない。
ニャーニャーと嵌った直後から騒いでいた所為で、肝心なところで声が出なかったのが痛い。
せめて、ルセルが来たタイミングで一声鳴ける体力が自分に残されてさえいたならば……!
無念である。何だか犯人の見当もついたし、これからという時に呪われたこの体積が往く手を阻むのだ。
あと数センチなんだけどなぁー。
「ニャー」
それはほんの微かに漏れ出た、声。
多分もう最後になるだろう一鳴き。
「あら? 猫の声がすると思ったけれど気の所為だったかしら……」
コツリ、と軽い靴音が一つ。半開きのドアの向こうから、執務室の中に入って止まる。
それはとても懐かしい声だった。
そして同時に、こんな状況でなければ置物の振りをしたいくらいに複雑な心境を呼び起こす声でもあった。
しかし今、他に選択肢はない。生か死か。ならばどうしたって生を選ぶ。
死因、隙間に挟まっての窒息死だけは何としても避けたい。
「まぁ、随分と不快な音だこと……そこにいるのかしら?」
死力を振り絞り、ガリガリと机の横を引っ掻いた。あとで弁償しよう。生き延びられたらにはなるが。
コツコツと近づく足音と、正面から覗き込む凪いだ海と同じ深い青の双眸。
背中を覆うように伸びた美しい銀色の巻き毛が、視界の端にゆらゆらと揺れる。うん、相も変わらず絶世の美少女だ。
「あら、なんて不細工な猫。こんなの初めて見たわ。でも、毛艶だけは褒めてあげても宜しくてよ」
そうか、ありがとう。でも、今はとにかく言葉以上に酸素が欲しかったりする。
「太り過ぎで出られなくなったのかしら? 改めて言うのも手遅れな感は否めませんけれど、すこし痩せた方が良いのではなくて?」
うん、そうだね……。ただ、痩せる云々の前に今は、瀕死、なんだけどな……。
「まぁ、白目をむいているの? しっかりなさい。よいしょっ、と」
すー。はー。すー。はー。
ああ、空気って素晴らしい。危うく対岸で手を振る誰かの姿が見える寸前で生還した今思うことはただ一つ。
生きてるって素晴らしい。
「あらあら、本当にあれだけのことで死に掛けていたのあなた? やっぱり少し痩せた方が良いのではなくて?」
「その助言と命を助けてくれたことには、ひとまず感謝するよ。クロ―ディア」
「……あらまぁ、その声。何だか懐かしい気がすると思えばローリアではなくって? ぶふっ、あはははは! な、なんて間抜けで品性に欠けた存在に成り下がってしまったの。あぁ、こんなに可笑しくて笑える出来事を身を張って提供してくれるなんて貴女は本当に素敵な子ね!」
「……それはどうも。ところでクロ―ディア、仮にも姫君が大口を開けて笑うのはどうなのかな?」
「まぁ。それは意趣返しのつもりなの?! 素晴らしいわ、ローリア。貴女以前よりも私と波長が合うようになったのではなくって?」
「気のせいだと思うよ、クロ―ディア」
その清楚な見た目とは正反対、生粋のお嬢様言葉で周囲を威圧し、生来の立場でもって周囲を平伏させ、同時にどこでどう歪んでしまったかは全く分からない上に知りたくもない真正の被虐嗜好者でもあらせられる王国の第二王女。
クロ―ディア・ジル・ガトレーデ。
在学の折は、なるべく彼女の視界に入らない様に行動していたのだ。けれども運命の歯車はどこをどう掛け違えたものか、彼女の弟――つまり第三王子クラウスからの『友人』認定の噂を聞き及び、興味を引かれたらしい彼女はわざわざ教室へとやって来た。
やって来た時に、折悪く暴発した『風』の魔術が彼女の身体に当たって、数メートル吹き飛ばされた。
後に分かったことだが、彼女は魔力耐性が王家の中でも一際強かったらしい。それが、数メートルも飛んだ。
我ながらあの時ばかりは「終わったな」と思い、実際言葉にも出ていた。
しかし自体は、想定の遥か斜め上を超えてきた。
「此度の無礼、貴女が条件を一つ飲んでくれるなら許してあげても宜しくてよ?」
ふらふらと立ち上がり、額から伝う血を拭いながら、うっとりとした眼差しを向けられた時の恐怖。
多分一生忘れまい。
あれはまさに恍惚、といった表情だった。仮にも淑女が舌なめずりとかどうかな、と真面目に思った。
「……条件、ですか?」
「私の友人として、私の望んだ時にはいつでも最上の痛みを私に施しなさい。言葉で攻めるもよし、身体的にギリギリまで痛めつけるのも宜しくてよ。あぁ、今日は至福の一日になったわ。私は最高の友人を手に入れたのですもの!」
「それ、友人の定義からして誤りでは? あと、まだ何も返事してない」
「教師でさえ私の過ちを指摘したことはないのに、初めて会った貴女はもう私を言葉で跪かせるのね! あぁ、なんて素敵なのかしら! まさに理想の子!」
「……盛り上がっているところ済みませんが、これから授業なので席に戻っても?」
「私との会話を一方的に終わらせる! なんて無礼な子。ねぇ、不遜な方。お名前を教えて下さらない? 駄目でもアカデミーの教師を脅せばすぐにでも聞き出せるのだから、黙しても無駄よ?!」
「……ならどうして聞く。いいよ、面倒だから一度で覚えて。私の名前は――」
遠い記憶の向こう側、どうしてあの時に『風』の暴発なんてタイムリーなものを起こしたのか自分で自分を問い詰めたい衝動すらも浮かんでくる。
半生における不幸その三だ。
と言うよりも、アカデミーに纏わるあれこれがおそらくローリアにとっての地雷原そのものと化しているのだろう。
よし、空気は足りて問題は一つ増えたけど、まぁ何とかなると信じよう。
そろそろ昼過ぎだし、ルセルが勘違いしている以上はこれから外へ出たところでお叱りを受けるのは変わらない。多分。
だったら、もう行動に移しても良い頃合いだ。
「ところでクロ―ディア。貴女の愚弟が今どこにいるか知っているかな?」
「まぁ、その愚弟とはもしかしてクラウスのことを指して言っているのかしら? 仮にも王族に対してその暴言、とても許されないことだと知っていて?! ああっ、なんて不遜! そして無礼! 対象が弟だから今一つと言わせていただくけれど、その目の付け所、攻め具合は素晴らしくってよ!」
「……実際に聞きたいところが欠片も入ってない。いや、知らないならいいけど」
「知っておりますわ! 当然のことだとお思いにならない? だって私はあの子も含めて、家族全員のその日一日のスケジュールを把握していますもの!!」
「意外と優秀だね。ほんの少しだけだけど見直したよ、クロ―ディア」
「褒めないで! 私を怒らせる気?! 褒め殺しなんて、最悪の所業でしてよ? お願いだから私に貴女を軽蔑させないで頂戴!」
「…………」
「まぁ、ここでまさかの放置プレイ?! なんて……なんて素晴らしいの」
久方ぶりのこのテンションに、正直疲れてきたと言いたい黒猫が一匹。自分だよ。
無視してもこれだ。面倒なのか、簡単なのか。いまいち扱いに困るヒトなんだよなぁ。
ヒゲを揺らして、暫し黙考。
どうせなら、一度お灸を据えておくのも良い。
とはいえ、あれの身分は雲の上。倍で返せば、タダでは済まない。
正規の手段では、あれを愉しませただけで終わってしまう。それは少々腹に据えかねる。
「……まぁ、特別実害を与えられたわけでもないんだけど。やっぱり遊ばれっぱなしは主義に反するな」
小さく溜息を零す。正直気は進まない。
だって、あれは曲がりなりにも友人なんだ。
友人に自ら刃を突き立てたいと思うやつが何処にいる?
でも、ここまでされて黙ってもいられない。
だから今回は、双方ともに傷を負う形で決着を付けようじゃないか。
――クラウス?
*
歴代の王族が有する銀の髪を靡かせて、窓枠に寝そべったまま猫のようにゴロリと向きを変えた少年。
彼は視線の先に見つけた存在に向けて、少し困った様子で微笑む。
「お前を呼んだつもりは無いんだけどねぇ、ルセル?」
「クラウス、お前に一言言いたいことがある。悪いが今だけは敬称を省かせてもらうぞ」
「……ふぅん、偶に怒ったと思えばやっぱりね。薄々気づいてはいたけど、あの子に恋慕するなら親友のお前でも容赦はしないよ?」
口許に笑みを浮かべながらも、その目は猛禽のそれに似た光を宿す。
得ると決めたものには、容赦なく向けられるそれ。どうして今までローリアがそれに気付かずにいられたかと言えば、普段は巧妙に隠されているからだ。
獲物を狩る鷹の目をして、選ぶ手段は蜘蛛の網目の如く緻密で、狡猾。優し気で、幼げな美貌を幼少の頃から持ちながら、その本質は昔から異質そのもの。
だからこそ、目を付けられた時点でそれはまさに『不幸』と呼ぶほかない。
「ローリアはお前の所有物でも何でもない。お前の享楽一つで振り回すなら、俺は彼女の友人としてクラウス、お前を許さない」
「許す許さないをお前に決めてもらおうとは思わないよ、ルセル。何か勘違いをしてない? 彼女はいずれどう足掻こうとも、私の傍らに置く。初めて会った時からそう決めて、実際その流れの通りに彼女は私の手の内にいる」
「……はぁ。前々からお前のローリアに対する執着は異常だとは思っていたが、改めて聞くと想像していた以上に歪んでいるな」
「それは仕方がない。こういう形でしか、私は人を愛せないからね」
「それはいったい、どういう意味だ」
残念だね。お前と遊んでいられる時間は、どうやらもう残っていないよ。
「おやすみ、ルセル」
クラウスの囁く様な声と、ほんの少しだけの微笑みを最後に、ルセルの意識はいとも簡単に刈り取られた。
勿論、命までは奪わない。今はまだ。
「君が本当の意味で障害になる時が来たら、その時はその時でまた考えることにするよ」
そう言い置き、窓枠から立ち上がるクラウス。
その視線の先に、ようやく恋い焦がれてやまない『彼女』の姿が映りこむ。その途端に、世界は入れ替わる。
比喩でも何でもなく、彼女がいない世界には色がない。
ローリアが傍にいるその瞬間だけ、クラウスの目には世界の色が戻る。
ある事故で、両目の視力を失った少女がいた。
生来保有する魔力が仇となり、生まれながらにして病弱だった少年がいた。
二人は偶然に医療宮の片隅で出遭い、拙い心と膨大な魔力が奇跡を起こした。
しかしその奇跡は、少年にとっての呪いへと入れ替わった。
彼が自ら望んで手向けた言葉が、彼の世界の色を奪い去った。
その皮肉に気付いた時、少年は嗤った。
自らの愚かさを、嗤った。
気付いてから長く、ずっと後悔し続けた。自分の言葉にそれだけの意味と力があったことを、それまで彼はまるで自覚していなかったから。
再び会う時には、最悪彼女を殺すしか手段はないかな、とすら考えていた。
捧げた色を取り戻すために。
元々は自分のモノであった色彩を、世界に取り戻すその為に。
けれども、少年は。
再び彼女に会った瞬間、あの日、あの時、忘れていた全部を少年は思い出した。
純粋に彼女を助けたいと思って、捧げた心と言葉。
思い出すと同時に、世界は今まで見たことのない色彩で輝き始めた。
クラウスは、この呪いから逃れる術はないことをその身をもって実感させられた。
初めて出会い、言葉を手向けたその瞬間から彼女のことを一時も忘れたことはない。
時に純粋に。
時に憎しみを込めて。
時に殺意を込めて。
時に震えるほどの歓喜を伴って。
初めから終わりまで、彼は彼女を愛してやまない。
気付けば堕ちていた。這い上がろうと思った先に、二度目の恋をして。
だからもう、どうしたってこの恋からは逃れられないと知った。
ならばと腹をくくり、少しでも彼女の意識を占有したいと思った。それは純粋な渇望そのもの。
生まれてこの方、彼女以外に抱いたことのない感情に幸福感は尽きなかった。
時間を共にし、傍で色彩を共有し、それでも初めは十分に幸せだった。
ただ、ヒトというものは何時でも『次』の幸福を求めてやまないものだと次第に知る。
だんだん物足りなくなった。互いに想い合う関係でない以上、手出しできない範囲が存在する。それに加えて身分の壁という至極面倒な障壁も存在する。
心がほしい。
同じだけの愛がほしい。
全てがほしい。
いつでも視界を共有していたい。
少しずつ、けれども確実に膨らむ一方の渇望が彼自身を苦しめ、歪ませた。
あぁ、やっぱり呪いじゃないか。
一方向の想いだけでは、支えるものすらなくなって、自らの重みでたわみ、歪んで、墜ちるだけ。
彼女からの愛がなければ、あとはもう腐り落ちるだけ。
花を付けず、実も付けなかった植物がそのまま枯れ果てるように。崩れ落ちて、なくなるみたいに。
出来ればそれは避けたい。
この花を開かせるには、どうしたらいい?
簡単な話だよ。なら、そうせざるを得ない環境を作ればいい。
アカデミーの卒業と同時に、策その一を実行に移してみた。
作戦名はずばり『餌で吊り上げて、そのまま囲い込む』。
まるで魚釣りの要領みたいに聞こえてくるから面白いよね。
暫くはその範囲の中で遊泳させて、少しずつ環境に慣らしてから、周囲の環境も切り替えていく。
囲う側の最低限の義務は果たさないと、最後は大切な魚自体を死なせてしまうからね。ここは慎重にやらないとならない。
彼女の黒髪を蔑視する貴族は、端から少しずつ毒を含ませて崩壊に追い込んだ。割と簡単なようで、これがなかなか根気のいる作業で参ったよね。意外にしぶとい連中もいて、時々無益な血を見る羽目にもなったけど活きのいい魚だったと思うくらいで済んで良かったよ。
自ら手を下していないのは、躊躇いがあるからとか強ちそういう訳でもない。ただ、もしも釣り針の先、自分の存在に気付いてそれを放逐しようとする愚者が現れないとも限らないし、その時にしくじって自分が幽閉あるいは万が一にも処刑なんてされる羽目になれば、彼女と添い遂げられない可能性が出てくるから。
だから絶対に辿られないだけの組織を作り上げた。多分やろうと思えば、玉座ですら手に届く。
まぁ、いらないけどね。正直興味も持てない。最低条件も最高条件も彼女だけで埋まってる。我ながら狂っている自覚はあるかな。
彼女を手の中で遊泳させて、約三年。
そろそろ頃合いかな。そんな直観から、まずは彼女の術式に干渉することにした。
中々面白いことになりそうだけど、お楽しみは最後に取っておくのが一番と思って中盤はあえてこちらからは干渉しなかった。
お蔭でルセルが冗長する結果になったけど、今回に限っては許すつもり。もう少し触れている時間が長ければ、その限りではなかったけどね。昔から本当に運のいい奴だ。
そんなこんなで、今回は一度目のチェックメイト。
これで吊り上がってくれるほどに可愛らしい子だったなら、端からここまで堕ちていないよ。多分ね。
でも、彼女の容姿は正直そこまでタイプだとは思わないんだけどな。我ながらそこは不思議に思う。
波打つ黒髪も、深い森と同じ色の目も、白磁の肌も要素としては悪くないけど、全体に纏めるとそこまで美女という訳でもない。可愛いけどね。ただ、絶世の美女と言えば身近に姉やら妹やらが犇き合っているから、逆に見飽きちゃったのかなとも考えた。
我ながらそれなりに筋が通っていて、納得もした。
「おはよう、ローリア。怒ってる君も可愛いなぁ」
「時間帯からしたらもう夕刻だよ、偽名君」
あー、うん。久々の冷めた眼差しに心がすごく浮き立ってるのを感じる。幸せだなぁ。むしろずっとこの視線を独り占めしていたい。
あ、眼球だけ抉り出すのも一つの手かな?
でも、心身ともに傍に置かないと最終的には満足できないだろうしなぁ。
クスクスと笑いながら、柔らかな銀の髪を靡かせて、手のひらを彼女に向けて伸ばす。
まぁ、当然の如く触らせてくれないけどね。ふかふかで気持ちよさそうなんだけどなぁ、残念。
「つれないなぁ、ふふ。その偽名君は皮肉? 卒業以来わたしの名前を呼ばなくなったのも、本当は隠し事が許せなかったから、とか?」
「自覚がある分、まだマシだな。でも術式干渉までしたからには相応の代償を払ってもらう」
ユラユラと背中で揺れるふわふわの尻尾。やばいなぁ、あれ。頬ずりしてから甘噛みしたい。
見れば見るほど術式の歪みで不細工な猫に仕上がったみたいだけど、でも可愛い。抱き潰したいくらい。
色もそのままにして良かった。すべてを塗りつぶした後に残る彼女の漆黒の髪。
それを思わせる、奇麗な奇麗な黒だ。
「ねぇ、ローリア。元の身体に戻りたいよね? 私なら無条件で術式を解いてあげられる。その為に条件を一つ飲んでほしいんだ」
「文章の前後で矛盾し過ぎだろう。そして断る。こうして会いに来たのは、それが目的じゃない」
間髪入れずに返ってきた答えに、流石のクラウスも目を瞠る。
もしかして、序盤から追い詰めすぎた? そんな考えが一瞬過るくらいには、彼は確かに困惑していた。
そして再び彼女が紡いだ言葉に、クラウスはどうしようもないほどの絶望と歓喜を綯い交ぜにして聞き入った。
決意を秘めたその眼差しに射抜かれるようにして、ただただその声に聞き惚れていた。
「この術式を自力で解けるその時まで、わたしはお前の姉クロ―ディア・ジル・ガトレーデの近衛魔術師へその任を移行し、現在の役職を放棄する。本来の名を失おうと、この身をブサ猫に窶そうと、最後の最後までお前に抗い続けることを宣誓する。今回はそのことを伝えに来ただけだ」
お前の作った檻に、そう簡単に入れられて堪るものか。
自分の道で歩めないのなら、それはもう自分の生涯ではあり得ない。
なればこそ、抗う。
例えどれ程の代償を支払おうと、他人の望むままになどなってやるものか。
それが結論。痛み分けと言うにはあまりにも馬鹿馬鹿しい、返答。
そして、クラウスが片方の目から涙を流しつつ、片頬で笑うというおよそ常人では出来ないんじゃないかと思われるような表情を浮かべている件について。
本当に、昔から、背筋が凍るほどの純粋と渇望の塊だな……と諦めに似た感覚と共にじっと視線を合わせる。
王族である以上、あれを害することなど自分に出来る訳がない。
そんなリスキーな手に打って出れば、行き着く先はどう転んでも真っ暗闇だ。奈落の底だ。
それに加え、実質の魔力総量が遥かに劣る。実際問題、自分に彼を殺しきるほどの力は多分ない。
本当に化け物めいた強さだからな。『護衛とかいる? いらないだろ、あれ』とは常々思っていた。
クラウスが本当の意味で牙を剥いて襲い掛かって来たとしたら、今の自分に抗う術は実際のところ無いといっていい。
そういう意味ではいつだって、あれの手の中に囲われているも同然だ。けれども最後の最後は踏み出せない。
何故って?
それが、本当に皮肉で馬鹿馬鹿しい話。
彼が過去に私に捧げた言葉が私を守っているからだよ。
欲しながら、過去の自分が残した『心』と『術式』によって最後の最後で手が出せずにいる。
そんな不可思議なジレンマによって、今の均衡は辛うじて保たれているだけのものだ。
それを自覚しているからこそ、こうして直に会いにも来られる。
そうでなければ端から勝負になどならないし、駆け引きにもならない。
「ローリア、君がいつか私を呪うまで、私にその全てを明け渡してくれるその日まで、どれほどの歳月を経ようとも構わない」
だって君はいずれ私の横に置かれるべきものなんだ。
そう言って、彼は笑う。
純真な、心の底からそう信じて疑わない微笑み。久々にそれを前にして、やっぱり変わらないなと思った。
目だけがいつも笑わない。
友人としてずっと横で見てきたから、言えることだ。
こんな悪夢じみた存在に執着され続けている現状自体が、最上最悪の不幸。
でも、初めは私を救ってくれた存在でもある。
幸福とともにやって来た、不幸のはじまり。
それが二度目の出会いで、決定的に定められてしまったからこその現状。
初めに捧げられた『心』と『術式』がある以上、確かに最後の最後で守られているのは事実だ。
けれどもその二つが守護の力を失わない限り、本来の色彩をあれに返すことも出来ない。
進むことも出来ず、かと言って後退も出来ない。
まるで糸玉が絡まり合い、収拾がつかなくなったような暗澹たる心地にもなるさ。なんだこれ泣けてくる。
ただ唯一の抜け道は、わたしがあれに愛を捧げること。その存在と意思のすべてを。
代償が大きすぎて、考える前に切り捨てた。そもそもそれ、後には何が残るんだという話。
だから、選ばないし選べない。
そうなれば抗うしかない。
とはいえ、ここまで啖呵を切った以上はもう道は決まったようなものだ。
「クラウス、お前がわたしを諦めるまで、わたしに意思と選択を認めてくれるまで、どれ程の歳月がかかろうと私は私を諦めたりしない」
天使のような容貌を蕩かせて、幸福そうにクラウスは笑ったまま「いいね」と囁いた。
何だか途中から人間相手に弁論を繰り広げてきたとはとても思えない重圧感と、疲弊感と、無駄にシリアスな話の流れに疲れてしまい、猫なりに頭を抱える。
そうだよ。そうなんだよ。ひとまずはこの先暫く猫だよ。
ならば、まず衣食住……いや、衣はいらないか。食と住環境の確保に勤しまねばなるまい。これ以上ルセルに迷惑を掛け続けることもできない。
やることが山積してますが、何か? それでもやるからには、徹頭徹尾やりぬいてみせるさ。
「そういうことで今日は帰るにゃ」
「ふぅん、今後はそういうキャラ付けで頑張るんだ?」
「単なる悪戯心だ」
「ローリアは可愛いなぁ」
別れ際にひらひらと手を振られた。
またね、とか聞かなかったことにする。片方の耳垂れてるからよく聞こえないんだよなー。
それに、もっと優先すべき事項が一つ残っている。
去り際に意識を失って倒れているルセルを重力術式で回収しつつ、全身状態をざっと観察。よし、妙な術式の類は掛けられていない。まずは良かった。これでルセルに呪いなんて掛けられた日には、流石に自分でも猫パンチをかまさずにはいられないからな。全身の骨を砕く勢いで振り抜いたら、即牢獄ゆきだ。笑えない。
さてと、用は済んだしさっさと脱出しよう。
げ、まだ諦めずに手を振っている。
生憎と肉球で振り返すとか、そんな愛嬌は持ち合わせていないぞ。
尻尾は自然と揺れるから、仕方がない。しかし念の為断っておく。
断じて振り返している訳ではない!
バタン、と音を立てて扉を閉める。
視界の中からクラウスが消えた途端、へなへなと全身が弛緩するのが分かる。
久々に友人にあったら、何だかラスボス化していた件。
まぁ、あれだ。一言で纏めればこれから先に不安しか覚えないな。
クラウスと話している間、扉の外で待機してもらっていたクロ―ディア。
彼女は歩み寄るやいなや、同情に満ちた眼差しを送ってきた。
これが地味に精神に堪える。
「よりにもよって王家内でも一番面倒且つ手に負えない弟に気にいられて、貴女もこれから大変ねぇ? でも、これから先は私がなるべく貴女を守って差し上げるわ。ただし、私が弟に殺されない程度の範疇に限られるけれど、宜しくて?」
「そう言ってもらえるだけ心強いよ、クロ―ディア」
「足りないわ! 感謝の気持ちを表したいのなら、その思いの全てを罵倒に変えてくれるくらいの気概が欲しいのよ。お分かりになって?!」
「…………」
「放置プレイ!? 全く困った子ね。でも、その冷めた眼差しが堪らないわ!」
さてと、放置放置。
ポテポテと肉球で床を踏みしめながら、クラウスの居住塔を脱出する。早ければ早いに越したことはない。
太陽もだいぶ傾いて辺りは暗くなり始めているし、そろそろお腹に何か入れたい。空腹だ。
ヒゲを揺らしながら、浮かばせて運んでいるルセルの意識にも気を配る。
まずは考えを纏められるだけの時間と場所の確保に努めないとな。なにしろここから先は、気が遠くなるくらいの長期戦を覚悟して望まないとならない。
「クロ―ディア。暫くの間は貴女の陣営のどこかで、なるべくあれの手が届かないところに匿ってもらえないか? ついでに三食寝床付き、トイレ砂完備だと有難い」
「あら、私のところで寝起きすれば宜しいのではなくて?」
当然の如くそう言い、小首を傾げる第二王女殿下。
ぱちぱちと猫目で瞬きをして、沈黙するローリア。
ややあって、のっそりとその首を横に振る。
「いや、貴女と四六時中一緒にいるとか流石に遠慮したいな」
「ああん!……もっとその冷めきった眼差しを私に頂戴。堪らなく素敵よ! 考えてみれば、四六時中一緒に過ごせば、貴女は私をずっとその冷めきった眼差しで見つめてくれるのでしょう?! 決めたわ。貴女は私の部屋で寝起きなさい。これは命令よ!」
「……いや、本当に遠慮したい」
「命令よ!」
「なら条件が一つ。ルセルの身の安全を保障してくれるなら考える」
「その程度、私に掛かれば造作もないわ!」
うふふ、これで私の夢の日々が始まるのね! と夜の王城の片隅で高らかに勝利宣言を行う第二王女殿下を横目にローリアは思っていた。
あぁ、色々と早まったなぁ自分。前門の虎後門の狼とはよく言ったものだが、この状況はさながら前門のクラウス後門のクロ―ディア、という図式になるんだろうなぁ。と。
きらきらと星屑のような輝きを舞い踊らせながら、クロ―ディアが上機嫌に進んでいく。
見た目が絶世と言えるほどの美少女であるだけに、その内面が残念でならない。まぁそれはクラウスにも同じことが言えるか。
……大丈夫なのか、この国の王族。
残りの兄弟姉妹をざっと脳裏に羅列して、うーんと首を捻る。猫なりの意見を言わせてもらうと、正直あんまり大丈夫じゃないかもしれない。
「猫に憂いられる国とか、どうなんだろうなぁ」
半眼で見上げた空は、薄紫に染まってとても綺麗だ。
猫の背丈だと、今まで以上に広く高く見えて来るから少し得した気持ちにもなる。
うん、悪いことばかりじゃない。
「ローリア、今夜は眠らせませんわ!」
うん、悪いことばかりじゃないと信じたい。
にゃー、と溜息を零してポテポテ歩く。うっ、肉球が大理石に当たってちょっと冷たい。王城はもう少し動物に優しい作りに改良する余地があるな……。
*
「それで?」
「まぁ、つまり今後は全面対決に移行せざるを得ないだろうからな。直属の上司に何も言わずに辞めるのはどうかな、と少し思ったが。今回の流れでは止む得ないと思っての事後承諾という形で……」
「……ローリア、お前はあれに理由を与える恐ろしさを本当の意味で理解しているのか?」
「うーん。どうかな。正直あれがここから先どれくらい周到に動いて来るかは想像の範囲内と言うか……いや、真顔は止めてくれ。いつもの倍怖いな」
目が覚めるや否や、上司モードで強制的に本日起きた全ての事柄を時系列で語らされましたよ。
ええ、それはもう当然の如く。心配させたんだろうな、としみじみと思う暇すら与えられませんでしたが何か?
そして猫の背丈的に、普段の倍以上に見下ろされると怖いことが判明した。
よくもまぁ、ラスボスことクラウスの前では平静を保てていたものだ。頑張った、自分。偉い。
「遠くを見つめている場合か? こうなれば、一刻も早く教会に繋ぎを入れる他ないだろう」
「このタイミングで伯父上に繋ぎを入れるのか?」
「他にどのタイミングで入れるつもりだ……?」
「すまん、ルセル。そして少しでもいいから怒気を押さえてくれ。主にわたしの心の平穏の為に」
「……お前は本当に何でそんな暢気にしていられるのか」
「まぁ、そんなことは言わなくても分かっているのではなくて? ルセル近衛隊長様」
ひょい、と首根っこを掴まれて浮遊したかと思えば鼻に届く花の薫り。そして尋常ならざる二つのふくよかな感触。
きらきらと水滴に輝く銀色の髪を辿り、その麗しい顔に死んだ魚の如き目を向ける黒猫が一匹。自分だよ。
クロ―ディア、お前もか。お前もやはり着やせするタイプだったんだな……!
内心で色々と懊悩している合間に、ふと周囲の温度が冷え切っているのに気付いた。嫌な予感しかしない。
恐る恐る元を辿れば、ルセルの絶対零度の眼差し。凍死ものだな。
それに対するクロ―ディアも負けてはいない。なんだろうな、この女帝じみた余裕の笑みは。
この二人、アカデミーにいた頃には全くと言っていいほど目を合わせていなかった気がしたが、成程ようやく理解した。
徹底的に合わないのだ。
正直これは意外な結果だった。
究極の被虐嗜好者、クロ―ディア。
時として絶対零度の威圧を放つ、ルセル。
噛み合いそうなのになぁ……。
中々どうして上手くはいかないのが人と人の相性という代物である。難しいな。
ちなみに余りの寒さにジタバタしたら、渋々といった様子で離してもらえた。ふぅ、助かった。
あのまま、あの位置にいれば凍死するところだった。
とりあえずスープを飲んで温まろう。
「……変態に用はない。失せろ」
「まぁ、しばらく見ない内になんてお馬鹿さんに成り下がったのかしら。出て行かれるのは貴女の方でしてよ?」
普通に飲んでいたスープを吐いた。そのまま噎せた。……変態! 仮にも王族の姫君にそんな直接的な暴言を吐くなんて普段のルセルならまずあり得ないんだけどなぁ。
余程過去に腹に据えかねることがあったのだろうと思わざるを得ない。
「どういう意味だ?」
「この子は今日から私の所属に変更になりましたのよ? ですから、貴方がこの子に何かを強制することは原則として不可能。足らないオツムでもお分かりになりまして?」
「……ローリア」
「ひっ、まずはその威圧を抑えてくれ。低い、怖い、寒いの三重苦とか!」
「話にならん。帰るぞ、ローリア。とりあえず俺が教会に連絡を取る」
ぐっ、と首根っこを掴まれて再びの浮遊感。
うえ、若干これは勢いが付き過ぎて酔いそう。でもそれ以上に哀しそうなルセルの目に息が詰まって、抵抗する気力なんて碌に湧いてこないな。
うん、我ながら酷いことをしたとは思ってるんだ。だから動けない。
事情はどうあれ寝ている間に部下に見切りを付けられるとか、きっと酷く傷ついたことだろう。根が優しいから尚更だ。
でもそんな感傷など全くもって読めない御仁がその場にいたことに、自分はもっと意識を割くべきだった。
「聞こえなかったの? ルセル・レインフォール。私の部下の拘束を今すぐ解きなさい。これは警告よ」
翻る鉄扇(これが胸元に収まっていたのが最大の驚きだ)と、首筋にピタリと押し当てられたルセルの氷雪の眼差し。
交互に見て、冷たい汗が背筋を伝う。おや、おかしいな。猫は足の裏で汗をかくんじゃなかったっけ。
「これは俺の部下だ」
「この子を所有物のように扱うのはお止しなさい。この言葉の意味が本当に分からないのなら、貴方はここで私が処分して差し上げるわ。だって今の貴方は、まるであの愚かな弟と同じ! この子に一害あって一利なしと私は貴方をそう判断したのですもの! ここまで言っても強行するのなら、この鉄扇で貴方の命を貰い受けるけれども宜しくて?!」
「………」
「少し、落ち着きなさい。冷静にこの子が話したことを思い返せば、貴方がこの子に対して感謝こそすれ、非難の眼差しを向けるなんてことにはならない筈だわ。ねぇ、私、間違っているかしら?」
「……いや。悪かった、ローリア。不甲斐ない上司を許せ」
ゆっくりと椅子に戻されて、見上げた先には後悔の表情を浮かべた友人がいる。
そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、中々どうして上手くはいかないものだ。
「いいんだ、ルセル。相談もせずに決めてしまったことは状況がどうあれ、やっぱり浅慮だ。その上でお互いに謝って仲直りしないか? 一緒にご飯も食べよう」
「あら、これに出す食事なんて元より用意していませんわよ?」
「懐の狭い女は、男女ともに敬遠されるよ。クロ―ディア?」
「……っ、っ……素敵。無味乾燥な眼差しが、私の心を容赦なく突き刺すの! あぁ、なんて幸福なの。夢見心地の今なら、どんなに嫌いな客でも持て成して差し上げてよ?!」
「……ローリア、いつからこんなに上手く扱えるようになった?」
「人は諦めと共に成長するものだよ、ルセル。まぁ、今は猫だけどな」
ようやく少し笑ってくれて、友人としては嬉しいばかりだ。
真横の喧騒に完全に慣れるにはもう暫く掛かりそうだが、まぁ何とかなるだろう。逆境においては気持ちを強く持ち続けることが大切だ。
*
「でも、実際問題として膠着状況が長引けば長引くほど貴女が私の義理の妹になるのは時間の問題だと思うわよ? 状況次第では最悪あれも王座を取ることを見据えているでしょうし、その際に諦める覚悟はできていて?」
「……変態、少しは言葉を選べ」
「煩くてよ、害虫。前々からあれの執着に気付いていながら、何もしてこなかった貴方に私を責められる権利があると思って? 思い上がりも程々にして頂戴」
「……っ、相変わらずのその毒舌はどうにかならないのか」
「黙りなさい、害虫! 貴方みたいな表層冷酷、薄弱ヘタレ男は存在していることすら烏滸がましいということを、この機会に認識したほうが宜しいのではなくて?!」
「魔力の重ね掛けで害虫と俺の名前を同時に発音するのはやめろ! 魔力の無駄遣いだ!」
端的に言おう。寒いと。
そしてご飯が少しも進まない。
繰り広げられる会話の応酬から嫌が応にも理解はさせられた。この二人の相性が最悪な訳を。
そうだな、言われてみるとヘタレな一面も確かにある。でもやる時はきっちりやるんだけどな。そこがルセルの尊敬すべきところだし、人間らしい部分でもあると思う。
とはいえ、これは当人同士の話。部外者が口出しすべき場面ではないし、寧ろ怖くて出来るか。
ルセルが魔力の無駄遣いを指摘する一方で、おそらく彼自身から無意識で放出された魔力の欠片が、熱々だったスープをぬるぬるにするという悲劇が起きていた。
まぁ、猫舌だから実質的に被害はないんだけどな。
だがしかし、他者に言う前に己が足元を見ろ。余程にそう言おうかとも思ったが、一見して上司モードに近かった為やむなく撤退。
心の平穏を優先した。ビビりと言ってくれるな。冷静な判断だ。
「でも確かに、変態の意見も一理ある。ローリア、このままだとどう構えてもジリ貧だぞ?」
「変態で本当にいいのか? 仮にも一国の王女だが」
「あれは紛うこと無き変態だからな」
「黙りなさい! 貴女に言われるのは別として、虫けらに罵られるのは私、我慢がならないわ!」
「クロ―ディア、話が混乱するから今は少し黙っていてくれ」
「あぁん! 私は今、言葉の刃で虐げられたのね! これ程の快感が他にあって?!」
「…………」
さてと、クロ―ディアが寝台の上でゴロゴロと悶絶している間に出来るだけ話を進めておこう。
ルセルの微妙な眼差しにも反応なんて返していられないよ。何しろこちらには時間がない。
さて、出来ることから始めていこうか。
「近い内に、王城を出る手筈を整えようと思ってる。いずれにしても、この王城内はクラウスの領土も同然だ。中で出来ることが限られる分、どうあっても外へ出なくちゃ話にならない」
「待て。それをあいつが見逃す訳がないだろう。最悪無実の罪を着せられて、牢獄送りを名目に裏で囲われるぞ?! そうなれば俺でも手を出すことが出来なくなる!」
「だろうな。だから、一か八かだよ。もちろん闇雲に突破するなんて勝算のない賭けはしない」
「……まさかと思うが、騒ぎに紛れるつもりか?」
「心配するな。さすがに王城内部から火を起こしたり、城壁を崩したりなんかしないよ。ただ、何人かの協力は得ないとどうにもならないし、その為にはルセルの同意も必要だ」
ヒゲを揺ら揺ら、しばらく目を閉じていたローリアはここで深緑の目を開けて、ニマリと笑う。
元が不細工なだけに、妙な迫力があった。
「クレアとフェルに繋ぎを入れる。あの二人の『声』を借り受ければ、祭りの喧騒を盾にこの国を脱出出来る可能性が格段に上がるはずだ」
「……確かに、あの二人の助力を得られれば脱出の可能性は残る。だが一番の問題を忘れたのか? そもそもこちらから連絡を付ける手段がない。ましてあいつらの居場所を探り当てるなんてことをやっていたらどう考えても手遅れになる」
「あるんだなぁ、それが」
福福しいフォルムを揺らして、よっこらせと立ち上がったローリア。右の手を空に掲げ、徐に異空間から取り出して来たのは古びた羊皮紙だ。
スルスルと広げて、トントンと猫の手が示した先を覗き込んだルセルは絶句した。
「な、まさか……いつの間に術印を? あの二人がよく受諾したな?!」
「いくつかの条件と交換に取引をしたまでだ。一通限りの紙鳥も貰ってあるから、連絡を取ること自体は難しくない」
おそらく二、三日中には交渉の段階まで漕ぎ付けられるかな、と。合間に顔を洗いながら猫顔で笑うローリアに呆れ半分、感嘆半分で溜息を吐いたルセル。
しかし続く言葉に、空を彷徨った片手はそのまま額を抑えていた。
「ただ、目晦ましの方法がまだ思いつかないんだ」
「……どうしてそこまで段取りを付けておきながら、一番初めのところで躓くんだお前は」
「苦手なんだよなぁ、色々と。普段は計画を立てるよりも実行する側にいるだろう? 自分の研究の区分はさておき、それ以外のことを考えるのは苦手なんだよ」
「……はぁ。そっちは俺が手筈を付ける。確実に紙鳥を送るためにも、幾つかのダミーと同時に放つことが一番有効だろうな。念の為に紙鳥の方にも術式を加えておくといい」
やっぱりルセルは頼れる男だ。状況に応じて常に最善の策を模索できる能力は、自分など足下に及びもしないのだから。
よし、と気合を込めて拳を握ったら爪が出てしまった。おっと、危ない。
この長さは切るべきか否か、実際のところ見当もつかないな。まだまだこの身体も使いこなせていない。
具合を確かめるためにも、計画当日までに出来る限り動いておこう。
序に少しでも体重を落とせると御の字だ。二度あることは三度あると言う。再び誰かが助けてくれる確証など、どこにもない。
やはり自分の身は自分で守らないとだな!
とん、とソファーを軽く蹴ってバルコニーへと駆けていく。見仰げば、煌々と輝く欠けるところのない丸の月。
満月の下で、猫目。まさに死角はなしだ。ウズウズしてきた。
「ローリア、目の届く範囲にいろ。お前は本当に危機感が足りない」
「あらあら、過保護にも程があると思うわよ? だから最愛の子に見向きもされないのではなくて?」
「黙れ変態、その口を閉じろ」
「その台詞、そっくりそのままお返しさせて頂きたいけれど宜しくて?」
「宜しくない」
再び始まる口論を背に、だんだん慣れてきたなぁと大欠伸を一つ。これもこれで一つの関わりの形なのかもしれない。表面上は罵り合いながらも、最後の一線は踏み越えない。そういう遠慮のなさは友人特有のものでもあると、自分はもう知っている。
アカデミーに通って得た、大切な友人たち。
残りの友人も招集して、今度は此方から仕掛ける番だ。
先手を打たれればどうしたって後手に回る。相手が各上なら尚更だ。だからこそ、向こうが行動を起こす前にこちらから動かなければ僅かな可能性すら零れ落ちてしまう。
きっとクラウスはこうして自分たちが策を講じてくるのも予想して、それを封殺するためのプランを立ててくるはずだ。
正直、はっきりした勝機は見出せない。というよりか、あるのか勝機? と言いたいくらいだ。
それでも、立ち止まらないと決めた。
「クラウス、お前に告げた通りだ。私が私のままでいる為に、この意思を貫くために、悪いがこの城出て行かせてもらうぞ」
ポツリ、と。
決意表明をしたその頭にポン、と乗せられた手はちょうど二つ。
「私としては、貴女が義理の妹になるという響き自体は悪くないと思いますわ。でも、あの愚弟に嫁にやるには少し上等過ぎるとも思うの。従って、今回は友人としての貴女の意思を尊重して差し上げたいと思うのですけれど宜しい?」
「変態の義理の妹なんて悲惨なところへ俺の部下をやれるか。たとえ所属は変わっても、ローリアは俺の大切な部下で、同時にかけがえのない友人だ。この剣に掛けてその意思を守る。今この時を以って、宣誓する」
二つ分の温もりが、友人の労りが、僅かに怯えていたこの胸を打つ。
そう。
例えどれほど勝機が微かでも、逃れる隙間が僅かでも、諦めない限りは共に歩き続けられる。
私は良い友人を得た。
それ以上の事実など、今この場においては必要ない。
「よし、まずはこの身体に慣れるためにも夜のお散歩へ出かけてくる!」
「この馬鹿! 少しは人の話を聞け!」
「ニャン! じ、地味に痛い!」
「あらあら、暴力は感心できないわねぇ」
賑やかな夜は更け、そうして迎える本番は今より数えること七日後。
祭りの喧騒の合間に二つの歌声が降り立ち、王都は一瞬の静寂に包まれる。
猫は駆け、剣は交わされ、そうして辿り着く彼と彼女の一応の結末も、今はまだ夜の闇の中。
それでも分かることが一つだけ。
黒ブサにゃんこは今日も明日も変わらずに、我が道を歩き続ける。
ここまでお読み頂いた読者の方々へ、感謝を込めて。