二,本物か、偽物か? その3
梨帆が学校を終わって帰ってくると、黒ビルの銀色の囲いの所に、四人の学生服の男子たちがいた。鞄も何も持っていないが、感じからして中学生だろう。梨帆には中学二年生のお兄ちゃんがいるから、だいたいそんな感じだ。
四人は中へ入る入口を捜しているようだ。
プレハブの物置と同じふつうのドアがあるが、鍵が掛かっていて開かない。
梨帆は少し手前で立ち止まって彼らの捜索の様子を眺めていた。黒ビルは向こうの角に建っていて、こちらからでは見えない奥隣は二階建ての店舗兼アパートで、一階の店には眼鏡屋さんが入っている。こちらの隣、梨帆が前で立ち止まっているのは生協のビルで、八階まである立派なビルだが、黒ビルはその二倍以上高い。見回してもこれ以上高いビルは近くには見当たらない。生協ビルと黒ビルの道路を挟んだ向かいは旅行会社なんかが入っている商業ビルが三つ並んでいる。今この歩道をまっすぐ歩いて信号を渡った老舗の写真屋さんの、奥の入り組んだ狭い路地の並びに梨帆の家がある。ついでに、テレビで女子高生霊能師が言っていたお寺は生協ビルの向こう側に、道路を挟んでちょっと奥に行ったところにある。隣にお店屋さんの並ぶ道路に面した入り口の門は狭いが、奥に行くと広がって、墓地と、そこそこ立派なお堂がある。
さて、梨帆が眺めていると、四人は手分けして入れるところを捜していたが、一人が見つけてしまったようで、「おい、こっちこっち」と三人を呼んだ。梨帆たち近所の者は知っているが、
生協ビルに面した鉄板の塀の真ん中辺りに、継ぎ目の下の方がめくれて向こうへ折り込まれた穴が開いているのだ。かがめば大人でも十分くぐれる大きさだ。
この穴は梨帆がまだ一年生か二年生の頃から開いていて、ニュースに取り上げられる騒ぎが収まってから、肝試しだか廃墟探検だか知らないけれど、ここから入り込む人が後を絶たず、何度塞いでもその度同じところがまた開けられて、何度も繰り返している内、管理している人もすっかり諦めたようでもう開きっぱなしになっている。誰が管理しているのか、今朝の校長先生の話でもけっきょく分からなかったけれど。
その穴を捜して見つけて喜んでいる中学生たちは近所の人じゃないだろうけれど、こういう穴があるという話は知っているようだった。
よし入ろうぜ?というところで一人が怖じ気づいたのか嫌がった。他の三人はその臆病者を叱るようにして無理やり腰をかがめさせて先頭で穴をくぐらせようとしたが、そこでじっと立って自分たちを見ている梨帆に気づいた。
「何見てんだよ?」
と一人が恐い声で言うのを別のが抑えて、
「おい、大人に言いつけるんじゃないぞ? 分かったな?」
と、しっかり梨帆の胸の名札を見るふりをした。その距離で文字が読めるとは思えないが、言いつけたら仕返しするぞ?という脅しだろう。梨帆は別に止める気も大人に言いつける気もない。
ここに入って四人がどうなるか、ちょっと興味がある程度だ。
梨帆は知らんぷりして歩き出したが、穴に押し込められようとしている気弱そうな一人が助けを求めるような哀れな目を向けているのだけちょっとかわいそうな気がして、立ち止まり、教えてやった。
「そこ、入らない方がいいよ? よく知らないけど、近所の人たちはみんな怖がってるみたい」
三人は面白そうに笑った。
「幽霊って見てみたいよなー?」
「まっ、本当にいるならな?」
「いるんだよねー?おじょうちゃん?」
ケラケラ笑われて、梨帆はつんとして歩き出した。あんな人たち、大人たちが恐れるようにひどい目に遭えばいい。一人には気の毒だけど。
一人のいじめられっ子を助けるために三人の不良中学生の恨みを買ってやるほど梨帆もお人好しじゃない。
横断歩道を渡ろうとしたら青信号が点滅して赤になってしまった。
青信号を待ちながら黒ビルをふり仰いでみた。
まっすぐ角を向いて、細長く空に伸びた刀みたいだ。光を反射しない素材で刀みたいにピカピカしていなくてどっしりした角材の杭みたいか。
こんなのが根元から折れて倒れてきたら下手をしたら梨帆の家だって押しつぶされてしまうかも知れない。確か町内会長さんがテレビの人にそんなインタビューを受けていたような気がする。そりゃあ不安です、と会長さんは答えていたんじゃなかったかな? でもそれから……七年も経とうとしているが、去年は大きな地震もあったというのに、こうして立派に立ち続けているんだから、あなたも偉いわね?と褒めてやりたくなる。
大人たちは騒ぐだけ騒いで、本当に危険なら校長先生の言うようにさっさと安全に解体してくれればいいのに。それとも……
本当にそんなに危険な物なのだろうか?
こんなに背の高い建物がこうしてどっしり建っているのだから、子どもの梨帆には判断がつかない。
信号が青になったので左右をよく確かめて横断した。背中に離れていく黒ビルの中に入った中学生たちなんかもう特に気にもなっていなかった。近所に住む者にとっては困ったものだとは思っても、よくあることだ。それに子どもの梨帆の知ったことではない。
夕飯をお母さんとお兄ちゃんと三人で食べた。お父さんはたいてい仕事で遅くなるので家族四人揃っての食事は土日だけだ。
梨帆は二人に朝校長先生から話があったことを話した。そこで岡本健太君が手を挙げて発言したことを言うと、二人ともひどく同情的な顔をして、お母さんは、
「健太君もお気の毒にねえ」
と言った。梨帆は不思議に思っていて、訊いた。
「健太君、どうして引っ越さないのかな? お父さんが自殺した嫌な場所の近くに住み続けるなんて、嫌だと思うけどなあ?」
お母さんは食事がしづらくなる暗い話題にちょっと顔をしかめ、
「お母さんの実家にいるんだから仕方ないわよ。健太君のお祖母ちゃんのお家ね。ローンの返済だってまだ残っているんだろうし、仕方ないわよ」
と言い、お兄ちゃんも言った。
「お金のこともあるだろうけど、それよりお母さんの意地だと思うけどなあ」
「意地って?」
「あのマンションがどうなるか、見極めてやろうってさ。自分たち家族の人生が狂わされたビルだもんな、あのまま建っていたってどうにもならないんだし、いずれは取り壊されるしかないんだから、最後まで見極めてやらなきゃ気が済まないって思ってるんじゃないかな?」
お兄ちゃんは大和という。メガネを掛けて賢そうだが、アニメオタクだ。美術部員だけれどアニメの絵ばかり描いているらしい。梨帆は見せてもらえない深夜の大人向け?のアニメなんて見ているからこうして大人っぽい難しそうなことを言うのだ。
「ふうーん……」
梨帆は一応納得し、
「健太君はどう思ってるのかな?」
と訊いた。
「さあ? 子どもの気持ちは分からないな」
とお兄ちゃんは大人ぶったことを言い、お母さんは
「健太君もかわいそうにねえ」
と同じ意味のことを繰り返した。
梨帆は体育館の健太君の顔を思い出した。幼稚園の頃は大人の難しい事なんて分からなくて他の子と同じように声を上げて騒いでいたが、お父さんが死んでからはすっかり無口になって、いつもじっと怒ったような顔をするようになった。陸上部に入っていて、春の市の記録会では一〇〇メートル走と八〇メートルハードルで上位に入賞して、体育館で行われた報告会では部を代表して校長先生から賞状を受け取っていた。背はそんなに高くないが、精悍な感じがして、女の子のファンが多い。そんな子たちは今日の健太君の態度をどう思っただろう?
健太君があのビルのこととお父さんの自殺のことをどう思っているのか、梨帆には分からない。きっと恨みに思っているんだろうけれど、きっと思いは複雑なんだろう。
健太君は強い子だと思う。でもその強さは強情さだと思う。硬くてまっすぐで、融通がきかなくて、根元からぼっきり折れやすいんじゃないか?、なんて梨帆も思ってみる。
あのビルはどうなのだろう? ぼっきり折れてしまうのか? ひび割れてバラバラに崩れてしまうのか?
ちゃんと監視していなくて大丈夫なのだろうか? 自分たちも危ない所に住んでいるものだ。
梨帆はもう一つ、帰り道に囲いの中に入っていく中学生たちがいたことを話した。
「しょうがねえ奴らだなあ」
お兄ちゃんは呆れ返った。
「うちの生徒か分からないけど、少なくともこの近所の奴らじゃないだろうな」
梨帆の小学校は中大畑小学校と言い、お兄ちゃんの中学校は礎中学校と言う。隣に礎小学校と言うのもあって、中大畑小学校の生徒は中学校に進むと二つの校区に別れなくてはならない。
「馬鹿な奴ら」
嘲るように言うお兄ちゃんに梨帆は訊いた。
「ねえ、お化けビルにお化けっていないんだよね?」
「さあな?」
お兄ちゃんはかっこつけて肩をすくめた。
「そもそもお化けなんて物がこの世に存在するのかどうかも分からないし」
お母さんにも訊いた。
「お化け、いないんだよね?」
「そうね。聞いたことないわね」
夜中聞こえる不気味な声なんて、あれだけ高い細長いビルなんだから上空で強い風が吹けばそういう音もするだろうし、誰もいないはずの窓に浮かぶ光なんて、こっそり忍び込んだ不法侵入者たちの懐中電灯の光が漏れて見えているだけだ。偉い学者に言われるまでもなく子どもだって分かる。
「テレビってほんと、嘘吐きだね? でも大人はあそこには絶対入っちゃ駄目だって言うよね? 耐震強度が不足して危険だって言うのは分かるけど、他に理由はないの? だって、そんなに危険な状態なら、さっさと壊してくれなくちゃ、こんな近所じゃ危ないじゃない?」
梨帆は校長先生の話を引き合いにお母さんの言い訳を先回りしてお母さんを困らせた。お母さんは困りながら、考えて言った。
「お化けっていうのがいるのかどうか分からないけれど、やっぱりよくない物ってあると思うわ。危険だって本能で感じる物は、やっぱり、理由がはっきりしなくても、危険な原因があるのよ。だから、ね? いいわね?」
絶対入っちゃ駄目だと言うことだ。ふつう大人はお化けなんて馬鹿馬鹿しいと笑うだけだろうけれど、お母さんも、この辺りに住む大人もみんな、やっぱりあのビルにはふつうではない何かを感じているのだ。
「はあーい」
梨帆は返事をして、危険な原因ってなんだろうと思いながら、あの四人の中学生たちのことを思ったが、駄目だって言うことをやるのだから少しくらいひどい目に遭えばいいんだわ、とちょっと残酷に思った。