十,霊界 その2
姫倉が廊下に出たときだ。
「うん?」
眉間に神経質なしわを寄せ、何かを探るように辺りに視線を向けると、
「まさか…」
と、沙希を追い越し階段へ駆けだした。ADに先導された他のゲストたちは下りてこない姫倉を待って二十二階の階段の下り口で待っていたが、駆け下りてきた姫倉はそれを無視して回廊の手すりに走り、下を覗き込んだ。
「チッ。油断したわ」
なんだなんだとぞろぞろ追いかけてきて姫倉に倣って手すりから下を覗いたゲストたちは
「えっ!?」
と、驚きの声を上げた。
吹き抜けの底に白いスモークが溜まり、ぐるぐると渦巻いていた。
重いカメラを担いだカメラマンが、ADにズボンのベルトをしっかり持たせながら下を覗き込んで撮影した。
「ひ、姫倉センセ、ありゃなんですか?」
モッチー兆也に訊かれ姫倉は、覗き込んでいた顔を上げ、「しっ」と自分の唇に人差し指を当てた。視線を周りに向け、ゲストたちも不安な顔でそーっと周りを探るように見回した。
ガタガタガタガタガタ、と、窓ガラスやドアの震える音が聞こえた。それは何重にも、建物全ての窓とドアが震えているようだった。
「じ、地震やろか?」
そう思うと体の芯が揺れてめまいのするような気持ち悪さを感じる。
「せ、センセ、あきまへんでえ! このビル、耐震強度不足やないですか! でかいのんが来よったら、爆破なんてせえへんかて、勝手に潰れてしまいますがな!」
ヒイッと、パニックが起きかけた。
「いえ。地震ではないわ」
姫倉は冷静に言ったが、その顔はきつい目つきをして、別の不安を感じているようだった。
「何者かが結界を張ってわたしたちをビルに閉じ込めようとしている」
「結界だと?」
うんざりしていた朝日奈博士が我慢も限界とばかりに言った。
「そんな物はあるわけないだろう!? ……はあー…。勝手にやってなさい、わたしは行くから。どうせ下の煙も、お得意の演出なんだろう?」
姫倉は浮かない顔で博士を見て、
「どうぞ。皆さんも急いだ方がいいでしょう。出られるものなら……、急ぎましょう」
博士を追い越し、先頭でダダダダダン、と音を反響させながら階段を駆け下りだした。御堂が遅れじと走り、それを見たゲストたちも慌てて追いかけた。カメラマンとスタッフも追う。
「センセ、待ってえな!」
「置いてかないでー!」
「こ、こらっ、待たんか!」
皆、壁に囲まれた階段室を派手に足音立てて駆け下っていったが、その間に「ゴゴゴゴゴ」という地鳴りのような振動が聞こえだし、
「ビシイイイッ」
と、すさまじく大きく、硬い重い物に亀裂が走る音が響き渡り、皆思わず悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
「みんなー、だいじょうぶー?」
下の方から姫倉の呼ぶ声がして、皆は立ち上がると一目散に声のした階目指して駆け下りた。
「ストーップ!」
先頭の天衣が踊り場を曲がって下りてきたところで、回廊の方に立つ姫倉に呼びかけられ、慌てて止まると、後ろにドタドタ押されるかっこうで残りの段を下り、姫倉の下へ集合した。
「あれを」
姫倉は再び手すりの角から吹き抜けの下を指さし、覗いた皆は、「げっ」とうめき声を上げた。
五階分下を、濃い白煙がうねうね渦を巻いて漂い、その奥で、ピシッ、ピシッ、と、青い電流が走るのが見えた。
「さ、さっきより大分上がってるんとちゃいます? まだそこまで下りてへんですよ?」
「ここは……十四階だね」
渡井が壁の数字を見て言った。
「姫倉さーん」
吹き抜けの下から呼びかける声があって、皆は横に走って身を乗り出すように覗き込んだ。下の手すりから体を横にひねって出し、撮影スタッフの若い男性がこちらを見上げていた。
「姫倉さん。これ、なんだか分かりますか? サブとの連絡が途絶えちゃって、ハードディスクに撮影は続けているんですけれど……、なんなんでしょう?」
そういう彼の頭の下で白い煙は大きく不気味にうねり、奥底で、ピシリ、ピシリ、と、青い電流を走らせているのだった。
「待って。今行く」
姫倉は呼びかけて階段へ走り、皆も追いかけて走った。階段室に入ると「ゴゴゴゴゴ」という振動が響いている。十三階に着くと今にも壁が崩れかかってくるような圧迫感から皆は回廊へ駆け出した。
そこには今も肩にカメラを載せて撮影を続けるカメラマン始め六人のスタッフがいた。若い女性ADも一人混じっている。彼らも興奮し、不安な顔で、姫倉の言葉を待った。姫倉は向こう岸を下の階まで迫ろうとする煙の渦を眺め、
「やっばいなあー……」
と呟いた。
「みんな、ここで待ってて。ちょっと様子見てくる」
姫倉はついてこないように手で制しながら階段へ向かい、御堂は当然のように後に続き、いっしょに下りてきたカメラマンとマイクが追った。逡巡するゲストたちは
「皆さん、ちょっと待ちましょう」
現場のリーダーのチーフADが呼びかけ、留まらせた。彼も緊張で青白い顔をしている。どうなったのか? 階段を姫倉が戻ってくるを待っていると、
「ビシイイイイッ」
再びすさまじい音が、背後でして、一瞬、視界が真っ白な閃光に包まれた。
「な、なんだ?……」
おおっと、と、背中を風圧で押され、不気味な感じに振り返ると、ムウッと濡れた金属をこすりつけ合うオゾンの臭いが鼻を突いた。
なんだったんだ? 薄ら寒い恐怖が背中を伝い、
「ビシイイイイッ」
渦巻く雲海の中心と天井を真っ白な電流が貫き、ドンッ、と風圧が全身にぶつかってきて、網膜に赤く雷の筋が焼き付いた。
「きききき、きやあああああーーーっ!!!」
沙希が悲鳴を上げ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。皆もすっかり意識が吹き飛ばされたみたいに口を開き、心臓をバクバクさせ、膝と腰を震わせていた。
照明の向こうは湖の中のような青黒い暗さが支配している。
ゴゴゴゴゴゴゴ…、と不気味に低い轟きが起こり、ビリビリとドアやガラスが鳴り、足下に振動が感じられた。
朝日奈博士がもう済んだかと恐る恐る手すりまで出て、
「おい、ライト。天井を照らしてみろ」
と命じた。ライトが手すりから腕を出して上を向くと、カメラも負けじと上を撮した。
遠い天井を、黒い蜘蛛の巣のように衝撃を受けた証拠のすすが付いていた。
「いくらなんでもやり過ぎだぞ、おい。いったい何万ボルトの雷を発生させやがったんだ?……」
ぼやく博士は眉をヒクヒクさせ顔が強張っていた。
「すみません皆さん」
声を掛けられ皆わあっと驚いた。姫倉が戻ってきた。
「ちょっと、わたしでも難しいみたいです。危ないですから取りあえず上に上がって、待機してください」
「先生!」
沙希が床を這うように姫倉の脚にすがりつき、泣きながら問い詰めた。
「いったい何が起こってるんですか? わたしたち、ちゃんと生きてここから出られるんですかあ?………」
姫倉は持て余すように困った顔をし、御堂が沙希の肩を抱いて立ち上がらせた。
姫倉は面白くない顔で、ふてくされたように外を向き、
「ちっくしょー、モグラの残党どもね。この時とばかりに狙って襲ってきたんだわ」
と独り言のように言ったが、
「モグラの残党!」
鹿尻編集長が興奮した声を上げた。
「高野山の地下組織、土鬼衆のことですね!? するとつまり、やはりあなたは、紅倉美姫の生まれ変わりなんですね!?」
朝日奈博士は白けた顔をしながら横目で姫倉の反応を覗き見るようにし、事情を知らない渡井と若手たちは怪訝な顔で姫倉を見つめた。ふてくされたように黙っていた姫倉は、
「あ〜〜〜っ、うるさーーいっ!!」
と癇癪を起こした。
「くっそー、あの連中、こしゃくな。わたしを本気にさせて無事でいられると思うなよ! 皆さんは大丈夫、わたしが助けてやります。外で結界を作っているモグラ連中、モグラ叩きで一人ずつ始末してやるわ。数が減って結界が弱まれば、こんな雑魚連中、ちょっと痛いお仕置きをしてやって、たちまち大人しくさせてやるわよ!」
姫倉はこぶしを握りしめて宣言し、
「さあさあ、あんたたちはさっさと上に上がって。わたしがしばらく霊たちを抑えておくから」
と、手すりに向かい、
「むん!」
両手を開いて角から突き出し、気合いを込めた。
クワッ、と赤いアバウトな網目状の光が渦巻く煙の表面を覆い、それまで無意識的に体に感じていた重低音が収まり、ふっと静まり返るのが感じられた。
一同は姫倉の見せた具体的な霊能力の発現に驚きと恐れを感じた。
「ほら、みんな、急いだ急いだ。邪魔!」
姫倉にせき立てられ、ゲストたちは戸惑いながら、やはり本心では逃げ出したくて、階段に向かった。
「ほら、あなたたちも行って」
姫倉はカメラスタッフたちにも言ったが、十三階でスタンバイしていたチームは
「冗談じゃない、こんな面白い画を撮らずにいられますかって」
と、残って姫倉の活躍を撮影し続ける決意を見せた。
「じゃ勝手にどうぞ。寿命が十年くらい縮まるのは覚悟するのね」
姫倉は赤い光の網で霊たちの煙を押さえ続けながら言い、チーフのカメラマンは若い女性ADに、
「長谷川。おまえは行け。おまえは後でVの編集をたっぷりやってもらうからな」
と命令し、彼女が「わたしも…」と震える声で言うのを、
「行けって! 気が散る!」
と叱りつけ、彼女は頭を下げて階段に向かった。
「よっ、大将。男だねー」
「無駄なおしゃべりしないでください。編集が面倒になる」
姫倉にからかわれてカメラマンは仏頂面で言い、直角の通路を奥へ、姫倉と赤い網が入るポジションに下がって「箱」と機材のボックスに乗って撮り続けた。
御堂は当然のごとく姫倉の後ろに控えている。
「美久さんも、一気に老けちゃっても知らないわよ?」
「ご心配なく」
平然としている御堂に微笑み、姫倉は霊の集団に集中した。赤い網の下で、停滞した煙は沸騰するように所々ボコボコと大きく噴き上がった。
「くそ…、外から煽られてどんどん膨れ上がってくるわね。イースト菌かっつーの」
ニヒルに笑う姫倉のこめかみに汗が流れ落ちた。
「ちょっと……、きついかな…………」
網を掛けられた雲海は色を濃くしていき、内部で青い電流が毛細血管の重なりのようにあちこちで細かく枝分かれして広がって流れるようになり、奥で不気味な青い大きな光が瞬きだした。
「本格的に、魔界化しそうね…………」
姫倉の顔に余裕がなくなった。
階段を上がるゲストと追っかけるカメラクルー。
静寂の中、足音だけ響かせて階段を急ぎ駆け上がっていたが、再び「ズウーーン……、ズウーーン……」と巨大な太鼓を打つような音が地の底からのように聞こえてきた。そして、「ビシイイイーッ」という大きな硬い亀裂音が再び響き渡った。
「おい、鹿尻君」
ヒイヒイ言って汗だくになりながら階段を上っていた博士が、立ち止まり階段の下を見ている仲間に呼びかけた。
「おい、どうしたんだ? いいよ、認めてやるよ、ここでは何か尋常ではない事が起きているんだ。きっとプラズマだ。そうに違いないが、とにかく、安全な所に逃げよう。さあ、来なさい」
鹿尻は見上げ、
「朝日奈君。僕は戻る。僕がしっかり見ないでどうするんだ。それに、この様子、姫倉君に何かあったのかも知れない。行って見てくるよ」
言うと、階段を下り始めた。
「おいこら! 勝手なことを……」
「きゃあーーっ」
上から悲鳴がして、先頭にいたはずの沙希が泣きながら駆け下りてきた。続いて天衣、渡井も。
「ひ、火の玉! 火の玉が!」
そう言って博士を追い越し、呆気にとられる鹿尻氏も追い越して下っていった。
上で「ゴロゴロゴロ」という雷みたいな爆発音が轟き、真っ赤な光が瞬くのが見えた。
「だ、駄目です!」
カメラクルーも青い顔で撤退してきて、火の玉と聞いた博士は大いに興味をそそられながらも、結局皆の後を追ってまた下りだした。




