第2話 商務大臣は、孫に驚愕する
翌日の昼下がり。
エルガレア子爵家の屋敷にある広大な中庭に、突風が吹き荒れた。
バササササッ! という強烈な羽音と共に、巨大な影が降り立つ。
鋼のような鱗に覆われた巨体。鋭い眼光。
空の覇者、ワイバーンだ。
その背に据え付けられた豪華な鞍から、一人の男が颯爽と飛び降りた。
「おお、ここか! 愛しの孫の顔を見るために、王都からひとっ飛びだ!」
白髪交じりの髪を整え、仕立ての良いコートを纏ったその男こそ、この国の商務大臣にしてカーラ侯爵家当主、バーノン・フォン・カーラその人である。
55歳とは思えぬ若々しい身のこなしで、彼は出迎えに並んでいた私たちのもとへ大股で歩み寄ってきた。
「父上、ようこそお越しくださいました」
「お父様、遠路はるばるありがとうございます」
父ロイドと母ミリナが頭を下げるが、バーノンの視線はすでにその下――つまり、俺に釘付けだった。
「おお、おお! リック! 病み上がりと聞いて心配したが、顔色は良さそうだな!」
「お祖父様、お久しぶりです。ご心配をおかけしました」
俺が貴族の礼儀作法で挨拶をすると、バーノンは破顔一笑、俺を抱き上げて頬ずりをした。
「うむうむ! なんと愛らしい! さすがはミリナの子だ。将来は王都の令嬢たちが放っておかんぞ!」
完全な「孫バカ」モードだ。
だが、その直後。
父ロイドが「例の件」を切り出した瞬間、バーノンの瞳から甘さが消えた。
「……ほう? リックが『魔法のような計算』を発明した、だと?」
***
場所を父の執務室に移し、俺は再びプレゼンテーションを行うことになった。
相手は商務大臣。この国の経済のトップだ。
俺は緊張を隠しつつ、昨晩作成した『エルガレア式簿記(複式簿記)』と、比較用にまとめた『月次推移表』をテーブルに広げた。
「お祖父様。この表をご覧いただけますか」
「ふむ……なんだ、この奇妙な枠組みは。数字ばかりだが……」
最初は怪訝そうに眉をひそめていたバーノンだったが、説明が進むにつれて、その表情が凍りついていった。
借方と貸方。
資産の可視化。
そして何より、不正や無駄を瞬時にあぶり出す相互チェックの機能。
「……待て。待て待て待て」
バーノンが額の汗をハンカチで拭った。
その手は、武者震いのように微かに震えている。
「この記録法を使えば、国中の税収の『流れ』が完全に把握できるではないか。どこで滞り、どこへ消えたか……まるで神の視点だ」
「はい。それに、予算の無駄遣いもすぐに見つかりますから、来期の予算編成も楽になるはずです」
俺が淡々と言うと、バーノンはババン! とテーブルを叩いて立ち上がった。
「ロイド! この書類、すぐに書き写させろ! いや、私が直接王都へ持ち帰る!」
「は、はい! もちろんです」
「これは革命だ……。こんな子供が、変わらなかった商務省の悪習をたった一日で覆すとは……!」
バーノンは俺の肩を両手で掴み、真剣な眼差しで言った。
「リック。お前は天才だ。このシステムは、即座に商務省で採用する。王命を持って全官僚に叩き込ませよう」
「お役に立てて光栄です、お祖父様」
商務省の標準規格を取った。
元IT社長として、自社システムが採用された時のような快感が胸を走る。
これで、この国の行政効率は飛躍的に向上するはずだ。
***
興奮冷めやらぬまま夕食を終え、俺はバーノンに誘われて夜の庭園に出た。
護衛を遠ざけ、二人きりの散歩だ。
夜風が心地よい。
先ほどまでの熱狂とは打って変わり、バーノンの表情は穏やかだが、どこか憂いを帯びていた。
「リックよ。お前の才能には驚かされたが……同時に、私は自分の不甲斐なさを恥じているよ」
「不甲斐なさ、ですか? お祖父様は立派な大臣ではありませんか」
「形だけな」
バーノンは自嘲気味に笑い、夜空を見上げた。
そこには、彼が乗ってきたワイバーンが眠るシルエットが見える。
「我が国、リンデンバルド王国は停滞している。東の帝国は軍事力を背景に経済圏を広げているというのに、我が国は旧態依然とした商習慣と、非効率な物流に縛られたままだ」
「……物流、ですか」
「ああ。物価は上がり、民の生活は楽にならん。金が回らないのだ。まるで血管が詰まった老人のようにな」
金は血液。経済は身体。
その感覚を持っているバーノンは、やはり優秀な政治家なのだろう。
ただ、具体的な処方箋を持っていないだけだ。
「お祖父様。血液が詰まっているなら、血管を広げればいいんです。あるいは――新しいバイパス手術をするか」
「バイパス手術?」
「あ、いえ……なんでもありません」
思わず前世の言葉が出そうになり、俺は口をつぐんだ。
バーノンは不思議そうな顔をしたが、やがて優しく俺の頭を撫でた。
「難しい話をしてすまなかったな。だが、お前の作ったあの『表』は、必ずやこの国を救う一助になる。……ありがとう、リック」
***
翌朝。
バーノンは慌ただしく王都へと帰っていった。
ワイバーンが力強く羽ばたき、あっという間に雲の彼方へと消えていく。
その背中を見送りながら、俺は庭園に一人佇んでいた。
祖父の言葉が、胸に重く響いている。
国の停滞。経済の閉塞感。
それは、ただ帳簿を綺麗にしただけで解決する問題ではない。
もっと根本的な――産業そのものの構造改革が必要だ。
「……やるしかないか」
俺は拳を握りしめた。
王都の改革は、祖父と父に任せよう。彼らなら、俺の渡した武器を使いこなせるはずだ。
なら、俺がやるべきは、この足元――エルガレア領からの改革だ。
この辺境には、まだ眠っている資源がある。
非効率な農業。活かされていない炭鉱。そして、未発達な技術。
それらを俺の「知識」で結びつければ、ここは世界で一番豊かな土地になる。
「見ていろよ。この領地を、誰もが羨む『経済特区』に変えてやる」
10歳の少年がつぶやいた野望は、風に乗って空へと消えた。
だが、その瞳には、かつて数千人の社員を率いた若き社長の、不屈の炎が宿っていた。




