第1話 商務次官の息子は、元IT社長
熱い。
全身が焼けつくように熱い。
意識の底で、点滅するサーバーのLEDランプと、鳴り止まないチャットツールの通知音が反響している。
(納期……バグ報告……投資家へのプレゼン……)
ああ、そうだ。俺は確か、社長室のデスクで仮眠を取ろうとして――そのまま、心臓が跳ねるような音を聞いて暗転したんだった。
激務と睡眠不足、カフェインの過剰摂取。いわゆる過労死、というやつだろうか。
短くも激しい、二十五年の人生だった。
もしも次があるなら。
もしも、もう一度生きられるなら。
今度こそ、人間らしい生活を。定時帰りを。そして、心安らぐ温かい食事を……。
そんな祈りが、天に届いたのかどうか。
俺の意識は、ふわりと浮上した。
「……様! リック様がお目覚めになられました!」
「おお、リック! よかった、本当によかった……!」
騒がしい声と共に、視界が開ける。
見慣れない天井。豪奢な天蓋。そして、俺を覗き込む涙目の美女と、初老の医師らしき男。
俺はゆっくりと上体を起こし、小さく息を吐いた。
頭の中にあった「霧」のようなものが晴れ、代わりに膨大な情報が濁流のように流れ込んでくる。
俺は、俺だ。新興IT企業の社長だった俺だ。
そして同時に――俺は、リック・フォン・エルガレア。このエルガレア子爵家の長男であり、今日で一〇歳になる少年だ。
「……母上?」
「ええ、そうよ。母上よ。わかる? 三日も熱が下がらなくて、本当に心配したのよ」
抱きついてきたのは、母のミリナだった。記憶にある通りの美女だ。王都の名門カーラ侯爵家の出身で、その肌からは上品な香水の匂いがした。
俺は彼女の背中を、子供の腕でぽんぽんと叩く。
その感触。体温。
生きている。俺は確かに、ここで生き直しているのだ。
医師の診察を終え、安静を言い渡されて一人になった部屋で、俺はベッドから這い出した。
ふらつく足で、壁際の姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、銀色の髪に、宝石のような碧眼を持つ少年だった。
線の細い、陶磁器のような肌。前世の、目の下にクマを作っていた死にかけのオッサンとは大違いだ。
「……勝った」
俺は鏡に向かって、小さくガッツポーズをした。
イケメンだ。しかも貴族だ。これはもう、人生の勝利確定演出と言っていい。
俺は窓辺に歩み寄り、重厚なカーテンを開け放った。
眼下に広がるのは、俺の家――エルガレア子爵家が治める領都、エルガレアの街並みだ。
石造りの建物が整然と並び、メインストリートは多くの馬車や人々で賑わっている。
人口約五万人。
さらに領地全体を含めれば一〇万人を抱えるこの地は、リンデンバルド王国の東端に位置する辺境の地だ。
すぐ東には軍事大国・ナルクレア帝国との国境線が引かれている。
国境最前線という立地ゆえに、緊張感がないわけではない。だが、それ以上にここは、東西を結ぶ物流の要所としての活気が勝っていた。
「……ゴホッ」
窓を開けた瞬間、独特の匂いが鼻をついた。
石炭の焦げる匂いだ。
街の北側、山裾に見える無数の煙突から、黒っぽい煙がもくもくと立ち昇っている。
エルガレアの主産業、炭鉱と製鉄だ。
冬の寒さが厳しいこの地域では、暖房用の燃料としても石炭が大量に消費される。
「煙たいな……。資源があるのは強みだが、環境対策はゼロか」
前世の知識が、無意識にコスト計算を始める。
健康被害のリスク、粉塵による建物劣化、それによる経済損失。
だが、今のこの世界に「公害」なんて概念はないだろう。
空を見上げると、鉛色の空を巨大な影が横切った。
翼竜――ワイバーンだ。
背に荷物と人を乗せ、力強く羽ばたいていく。
ここから王国の中央、人口一〇〇万人を誇る王都リンデンバルドまでは、馬車で六日の距離がある。
だが、あの空の便を使えば、わずか一日で到着する。
「物流の要は空、か。だが、ワイバーンの育成と維持コストは馬の比じゃない。輸送単価が高すぎる」
俺は窓枠に肘をつき、苦笑した。
やめだやめだ。せっかく貴族の子供に転生したんだ。
経営のことなんて忘れて、悠々自適なスローライフを送るんだ。
そう決めたはずじゃないか。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「リック様、旦那様がお帰りです。お加減はいかがですか?」
「父上が? うん、大丈夫。すぐ行くよ」
俺は慌てて着替えを整え、部屋を出た。
父、ロイド・フォン・エルガレア。
この国の商務次官を務める超エリートであり、今の俺にとっては、誰よりも尊敬すべき「働き者」の父親だ。
***
一階のダイニングルームには、豪勢な料理が並んでいた。
肉料理を中心としたメニューは、育ち盛りの俺を祝うためのものだろう。
上座に座る父、ロイドは、俺の姿を見るなり破顔した。
「おお、リック! 体調も良くなったな。よかった、一時はどうなることかと……」
「ご心配をおかけしました、父上。もうすっかり元気です」
「そうか、そうか! 今日は一〇歳の誕生日だからな。どうしても祝いたくて、急いで帰ってきたんだ」
父、ロイドは三五歳。
銀髪をオールバックにした精悍な顔立ちで、王都の貴婦人たちからも人気が高いと聞く。
だが、その目元には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
それもそのはずだ。
彼は王都リンデンバルドで商務次官としての激務をこなしながら、この辺境領地の統治も行っている。
本来なら馬車で往復一二日かかるところを、今回は俺のためにワイバーン便をチャーターして、強行軍で帰宅したのだろう。
「無理をなさらないでください。父上こそ、お疲れでしょう」
「はは、何を言う。愛する息子のためなら、ワイバーンの背で一晩揺られるくらい、どうということはないさ」
父は豪快に笑い、ワイングラスを傾けた。
母のミリナが、甲斐甲斐しく料理を取り分ける。
幸せな光景だ。
だが、俺の脳裏には、幼い頃に聞かされた「一五年前の悲劇」が過っていた。
俺の祖父母にあたる先代当主夫妻は、王都からこの領地へ戻る道中、魔物の襲撃を受けて命を落とした。
当時、まだ二十歳そこそこだった父は、悲しみに暮れる間もなく当主の座を継ぎ、混乱する領地と家政を立て直したのだという。
その重圧は計り知れない。
若くしてこれだけの地位と領地を維持している父の手腕は、間違いなく本物だ。
「そういえば、あなた。王都の様子はいかがでしたの?」
母の問いかけに、父の手がわずかに止まる。
「……ああ。景気は悪くない。だが、帝国との国境付近での人の出入りが増えていてね。商務省としても、検問の強化と物流の監視でてんてこ舞いだよ。それに加えて、来期の予算編成だ。大臣――義父上が、もっと数字を詰めろと仰るものでね」
義父上、とは母の父であり、商務大臣を務めるバーノン・フォン・カーラ侯爵のことだ。
父の上司であり、政界の大物。
完全なトップダウン。板挟みの中間管理職。
俺は心の中で、父に合掌した。
「大変ですね……」
「なに、仕事があるのは良いことだ。……さて、リック。食事の後は執務室に来なさい。誕生日プレゼントを用意してある」
食事を終え、俺は父の後について執務室へと向かった。
重厚な扉が開かれる。
そこは、まさに「戦場」だった。
部屋の四方を埋め尽くす本棚。
そして中央の執務机の上には、未決裁の書類と羊皮紙の束が山のように積まれている。
インクの匂いと、古紙の匂い。
父は苦笑しながら、書類の山を脇にどけた。
「散らかっていてすまない。持ち帰った仕事が少しあってね」
「少し……ですか?」
俺は机の上に広げられた一枚の羊皮紙に目を留めた。
そこには、びっしりと数字が書き込まれていた。
『エルガレア領・第一炭鉱 第三四半期 産出量および人件費推移』
どうやら、領内の炭鉱経営に関する帳簿のようだ。
だが――。
(……なんだ、これは?)
俺は思わず眉をひそめた。
見づらい。あまりにも見づらい。
ただ数字が羅列されているだけで、項目ごとの集計もなければ、月別の比較もない。いわゆる「お小遣い帳」レベルの単式簿記だ。
しかも、計算の痕跡を見ると、どうやら全て手計算で行っているようだ。
「父上。この書類、王都へ提出するものですか?」
「ああ、そうだ。税収の確定申告に必要でな。これから検算するところだ」
父は疲れ切った目で、分厚い帳簿と手元のメモを見比べている。
これを、今夜中に?
この非効率なフォーマットで?
俺の中で、前世の「社長魂」が疼いた。
いや、それ以上に「システム屋」としての本能が警鐘を鳴らした。
このままだと、父はいずれ過労で倒れる。かつての俺のように。
それだけは阻止しなければならない。
「……父上」
「ん? どうした、リック」
俺は羊皮紙を指さし、静かに、しかしはっきりと告げた。
「ここの計算、間違っていますよ。それから――この書き方だと、誰かが横領していても気づけません」
「……何?」
父の手が止まった。
ロイドの瞳が、驚きに見開かれる。
一〇歳の子供が口にするには、あまりにも具体的すぎる指摘だったからだ。
「リック、どういうことだ? 横領とは穏やかじゃないな」
「見てください。この『雑費』と『消耗品費』の項目です。月によって変動が激しすぎます。それに、売上に対して経費の比率が計算されていないから、無駄遣いが見えなくなっているんです」
俺は机の上の羽ペンを手に取ると、裏紙にさらさらと図を描き始めた。
前世で幾度となく叩き込んだ、最強のビジネスツール。
すなわち、『複式簿記』の概念図と、『スプレッドシート(表計算)』の枠組みだ。
「父上、お金の流れには必ず『原因』と『結果』があります。何に使ったか(借方)と、どこから出たか(貸方)。これを左右に分けて同時に記録するんです」
「原因と……結果……?」
「はい。そうすれば、計算が合わない時はすぐに分かります。それに、こうやって縦軸に『項目』、横軸に『月』を取って表を作れば……」
俺は手早く罫線を引き、父の帳簿から数字を拾って書き写していく。
ただ写すだけではない。カテゴリごとに整理し、右端に『合計』と『推移』の欄を作る。
まだ電卓もパソコンもない世界だが、ロジックさえあれば紙の上でも再現は可能だ。
「――ほら、見てください。この表なら、どこで無駄が出ているか一目瞭然でしょう?」
完成した即席の決算書を差し出す。
ロイドはそれを受け取ると、食い入るように見つめた。
最初は困惑していた表情が、次第に驚愕へと変わり、最後には震え始めた。
商務次官として数字を扱い慣れている彼だからこそ、この「表」が持つ革命的な意味を瞬時に理解したのだ。
「……信じられん」
ロイドが掠れた声で呟く。
「たった一枚の紙で、炭鉱の経営状態が……すべて見える。どこに無駄があり、どこが不正の温床になり得るかまで……。リック、お前、一体どこでこれを……?」
父の視線が、俺に突き刺さる。
当然の疑問だ。一〇歳の子供が、国家の商務省ですら採用していない高度な会計システムを編み出したのだから。
俺は無邪気な子供のふりをして、にっこりと笑った。
「うーん、高熱で寝込んでいる時に、夢の中で女神様に教えてもらったんだ。……変かな?」
「女神様……!」
ロイドは感極まったように俺の肩を掴んだ。
「変なものか! これは革命だ、リック! この『表』と『記録法』があれば、商務省の仕事は半分……いや、三分の一以下になるぞ!」
「三分の一になれば、父上も早く家に帰れますか?」
「ああ、帰れるとも! 毎日だって夕食を共にできる!」
父は興奮冷めやらぬ様子で、俺を力強く抱きしめた。
その腕の温かさに、俺は密かに安堵の息を吐く。
よかった。これで父の過労死フラグは一本折れた。
ついでに、この領地のどんぶり勘定な経営も改善できそうだ。
俺たちは夜遅くまで、新しい計算方法――後に『エルガレア式簿記』と呼ばれることになる手法――について語り合った。
父の疲れた顔に、久しぶりに生気が戻っていた。
「……そうだ、リック」
不意に、父が真剣な顔つきで言った。
「実は明日、王都から大切なお客様がいらっしゃるんだ」
「お客様、ですか?」
「ああ。商務大臣――お前の祖父である、バーノン・フォン・カーラ侯爵だ」
その名を聞いた瞬間、俺の背筋が伸びた。
母の実父にして、父の上司。
そして、この国の経済を牛耳る超大物。
「お前の快気祝いと、私の仕事の視察を兼ねてな。……リック、明日、お祖父様にもその『表』を見せて差し上げなさい。きっと腰を抜かすぞ」
ロイドは悪戯っぽくウインクした。
俺はゴクリと喉を鳴らす。
いきなりラスボス級の要人が登場か。
だが、これはチャンスだ。
大臣を味方につければ、俺の「異世界改革」は一気に加速する。
「わかりました、父上。お祖父様を驚かせてみせますよ」
窓の外では、夜の闇の中で炭鉱の火が赤々と燃えている。
俺の第二の人生は、まだ始まったばかりだ。
前世の知識と、この恵まれた地位。
手札は揃っている。
さあ、ここからが本当の「経営」の始まりだ。




