第9話 血濡れ雀の噂
悠人はスマートフォンを確認し、未読の通知に目を見張った。メッセージが3件、着信が1件。すべて、就職先の採用担当・早川からのものだった。
(ああ……懇親会の連絡、完全にスルーしてた……)
あわてて電話をかけ直すと、意外にも早川は朗らかな声で応じた。
「最近大変そうだね?」
「バイトが忙しくて……今しかできないことなので、できるだけ社会勉強しておこうかと」
そうごまかしながらも、頭の片隅には澄乃の姿があった。
(俺も……ブラックな職場になんか翻弄されて、ただボヤいてるだけじゃダメだ。彼女のあの強さ、あれを見習わないと……)
対防局内の休憩室。
蛍光灯が、淡く軋むように明滅していた。壁に掛けられた時計の針が小さく音を刻むなか、柚里は紙コップのコーヒーを揺らしながら言った。
「最近、また怪異の噂が増えてるんだよね。SNSに私の友達たちがいっぱい情報を上げてる」
悠人はソファの背にもたれたまま、眠気混じりに彼女の話をきいていた。もう体がクタクタだ。一体、どれだけの怪異と交戦したか分からない。こんな状況でまだ元気な表情を保つ柚里が悠人には信じられなかった。高校生の馬力は凄い、若さには勝てない。
「そんなに友達いるの?」
柚里は胸を張った。
「五百人はいるよ」
「五百……!?」
「SNSって便利だよね。顔が見えなくても簡単に繋がれる。いい時代だと思いません?」
「それ、本当に友達って言えるのか?」
「現実と何が違うっていうの? 顔が見えないだけで、中身なんてそう変わらないよ。悠人くん、考え古いよ」
悠人は唸るように小さく笑った。「俺は柚里さんに比べて4年型落ちの旧式だから……」
「で、そのSNSで出回ってる噂なんだけどね」
柚里は空の紙コップをくしゃりと潰して、言葉を続けた。
「最初は、なんでもない出来事らしいの。夕暮れ時、道端でふと影を見上げると、電線に小さな雀が止まっているように見える。でも、顔を上げてもそこには誰もいない。雀の鳴き声だけが聞こえる。そういう些細な、見過ごしがちな違和感から始まるの」
悠人は身体を起こし、無言で耳を傾けた。
「それだけなら、気のせいで終わる。でも……次に来るのは肯定なんだって。周囲の人たちが、急に君を肯定してくれるの。何を言っても、どんな行動をしても、すごいね、いいと思うって」
「まるで王様みたいだな」
「でもその蜜月が終わると、影にもうひとつの影が並ぶようになる。自分の影に、手のない誰かの影が寄り添ってくる。そして耳元で言うの……“あなたは、自分の手がきれいだと思う?”って」
柚里の語り口は、淡々としているが妙に熱を帯びていた。物語というより、儀式のようなリズムを持っていた。
「振り返っても、誰もいない。慌てて家に逃げ込んで、鍵を閉める。息を整えたその瞬間、目の前に血濡れ雀が現れる。人の形をした雀──血まみれの羽根と眼差しで、再び問うの。あなたは、自分の手がきれいだと思う?って」
悠人はごくりと唾を飲み込んだ。室内の空気が、ひやりと揺らぐ。
「『はい』と答えると、その清らかな手をちょうだいと言って奪われる。『いいえ』と答えると、全身が捕らえられて血濡れ雀の元へと引きずり込まれる。そうして、日夜痛めつけられるの、あなたが本当に自分の手が汚れていることに気が付いていると確信するまでそれは続く。激痛に耐えれば命は助かるかもしれない。──だからね、もしも血濡れ雀に出会ったら、絶対にいいえって答えなきゃいけない。なんとしても生きたい理由があれば、ね」
悠人は黙って頷いた。柚里は声を潜めた。
「『はい』と答えた人は、手だけを残して姿を消すらしい。その手が、血濡れた状態でSNSにアップされて、拡散されてる。血濡れ雀って名前で」
「……そんなものが出回ってるのか?」
「うん、見る人によっては、何かを掴もうとしてるように見えるんだって。必死に、誰かにすがろうとしてるように」
その日の午後、悠人の頭のなかでは、柚里の語った怪異の話が何度も再生されていた。血濡れ雀。影に宿るもうひとつの影。問われる声。そして、選択。見えない何かに常に触れられているような、妙な感触が背中に張りついていた。怪異──それがこの世界には確かにいるのだと、最近はもう疑う余地がない。
* * *
――翌日
杏陽子に武器を手渡す作業は、今や悠人の日常の一部になっていた。異常と常態の境界線は薄れ、慣れは麻酔のように彼を包んでいた。死の匂いに麻痺をしてしまい、なにも感じなくなっているのだ。
勤務終了の合図が静かに鳴る。特制隊の執務室に戻り、それからロッカーから出ると、杏陽子が何か言いたげにこちらを見ていた。だが彼女は言葉を口にすることなく、机に向かい続けている。なんだか帰りづらい…。
(でも……残業は、しないと決めたんだ)
悠人は自分にそう言い聞かせた。自分にできることなど、たかが知れている。
「……じゃあ、あがりますね」
杏陽子は目線を上げ、静かに頷いた。
「おつかれさま」
それだけの言葉が、今日の終わりを告げる鐘のように、やけに胸に響いた。
夜の帳が降り始めた街は、日中のざわめきを忘れたように静まり返っていた。戦いを終えた悠人は、どこか夢のなかを歩いているような足取りで帰路についていた。特異体との任務にも、少しずつ慣れてきた。
(いやぁ、仕事はきついけど……定時であがれるのだけは救われる。昔やってたバイトじゃ1,2時間残業もざらだったよな…)
自嘲めいた笑みを浮かべながら、悠人は家のドアに手をかけた。鍵を差し込む、その瞬間——ポケットのスマートフォンが震える。画面を覗くと、杏陽子からのメッセージ。何件も不在着信があり、最後の通知はこうだった。
「突然、怪異が現れた。至急、職場に戻って!」
(ま、マジかよ……)
小さく呻きながら、悠人は踵を返した。
職場に戻ると、空気は妙に静かだった。緊張ではない。むしろ、何かが過ぎ去ったあとの無言の余韻のような、そんな静けさ。
杏陽子が、何か後ろめたそうに立っていた。
「……あ、ごめん。あれ、ちょっとした誤報だったみたい」
背後から現れた八重野が、目線を泳がせつつ口を挟む。
「杏陽子ちゃん……?」
「八重野局長。誤報ですよね?」
「……そ、そうね」
どこか芝居じみたやりとり。八重野の表情には、わずかだが疑念の翳が差していた。
杏陽子は気を取り直したように言う。
「電話はちゃんと出るようにしてね。……メッセージアプリとか、あれば便利なのかな……?」
「え……? メッセージアプリ?」
悠人が言いかけたその時、室内の電話が鳴り響く。八重野がすぐに応答する。
「……どうやら本当に犠牲者が出たわ。緊急で対策を行う!」
(『本当に』って、どういう意味だ?)
空気が一瞬にして張り詰めた。やがて、特異体観測センターから正式な情報が届いた。天候の異常、地磁気の乱れ、周辺に奇妙な圧力の変動。全てが特異体の兆候を示している。招集を受けた特制隊の面々が、続々と集まる。
悠人は、いつもの顔ぶれの中に、見慣れないふたりを見つけた。
一人は長身で痩せ型の男。目に自信が宿っている。真壁 陽凪汰。
もう一人は、小柄で柔らかい印象の少女。夏目 凪咲。まるで人形のように整った顔立ちで、物腰も穏やかだ。新人として悠人と力也が紹介されると、陽凪汰がすぐに口火を切った。
「いいか、俺の足だけは引っぱらないでくれよ」
「……はぁ」
悠人は、反射的にため息をもらす。
「まぁ、一緒の現場になることはまずないと思うけどな。俺はたいがいソロ行動が多い。つまり、俺ひとりでやれるってこと。お前もまずは俺のレベルに追いつけってこった」
その高圧的な言葉の端々に、技量への確固たる自負が感じられる。だが悠人の胸のうちには、違う言葉が浮かんでいた。
(……そんな腕前なんてどうでもいい。とにかく、ここから抜け出すことができれば……)
飲み込まれた本音は、喉の奥で沈黙したままだ。
その時、扉が開き、杏陽子が入室してくる。
陽凪汰は、その瞬間だけ露骨に動揺し、目を逸らして距離を取った。さきほどまでの圧の有る立ち振る舞いは一瞬のうちに消え去っていた。
横から小さな声が囁いた。
「杏陽子さんは有名人なんだよ。この中で最も経歴が長くて、最も強い。みんなの憧れ」
凪咲だった。その声は柔らかく、温度をもっていた。
「ですよね。もう嫌と言うほどわかります……」
悠人の返事に、彼女は笑って言う。
「私は、直接戦うのは苦手だから、バックアップが主な業務なの。頼りないかもしれないけれど、よろしくね。」
「いや、自分も……できればバックアップ希望で……」
「それは、局長が決めることだから……」
「……ですよねぇ」
緊張をほぐしてくれる凪咲の存在は、陽凪汰の気迫に晒されたあとには、まるで温かい毛布のようだった。その空気を切り裂くように、八重野の声が響く。
「陽凪汰くんと柚里、凪咲、力也くんは別の現場に向かって。物理タイプの特異体がまた別のポイントで大量発生中よ。急いで!」
「了解!」
柚里は、にこにこと笑いながら杏陽子のほうに手を振った。
「杏陽子さーん。今回一緒じゃないなんて残念ですー。次こそ一緒ですからねっ!」
悠人は、思わず内心で突っ込む。
(柚里さん……杏陽子さんと話しづらいって言ってたんじゃなかったのか……女の子って、ほんと、わからん……)
そうして、それぞれがそれぞれの任務へと散っていく。
作戦室に残った特制隊のメンバーは杏陽子と悠人だけとなった。
黄昏の光が、オフィスの窓際に薄く差し込んでいた。悠人の目には、それがまるで逃げ道のように映っていた。が、逃げられる場所などどこにもないと知っている。
「杏陽子と悠人くんは、特異体のデータシートを確認して」
八重野局長の声は冷ややかで、そこに迷いの色は微塵もなかった。提示されたシートには、血のように赤い文字が並んでいた。
【特異体データシート】
特異体登録番号:0031
通称:血濡れ雀
※SNSに投稿されたぼやけた写真から、血を浴びた雀のように見えたことが由来。
観測信号発生日時:4月22日 01:17(GMT+9)
波形強度ランク:4.0(警戒推奨)※最大9.0段階
アクティブ化日時:4月24日 23:02(GMT+9)
アクティブ発生場所:東京都立川市 立川駅前
アクティブ化現象概要:
血液の飛散痕、大量確認
人体の一部(主に手部)のみ残存
通信異常(機器の停止、映像の歪み)
局地的な空間のひずみ(観測半径:15m以内)
推定影響範囲:半径2km以内に拡大の可能性あり
「……今回の怪異は、おそらく物理型じゃないわ」
静かにシートを読み終えた八重野が言った。
「物理型?」悠人は問い返した。
「入隊時の資料に載ってたと思うけど……説明しておくわね」
八重野は、紙束を机にトンと置いて、淡々と続けた。
「怪異は大まかにいくつかのタイプに分類されてるの。たとえば、物理型特異体っていうのは、現代兵器やそれに類する攻撃手段が比較的有効なタイプ。もう一つが知覚型。これは幻覚、洗脳、恐怖といった精神への干渉を主体とするタイプ。直接的な攻撃は少ないけど、錯乱や仲間割れを引き起こす。やっかいよ」
「癒し型…とかいないんですかね……肩もんでくれるとか、悩み相談に乗ってくれるとか」悠人の声は、僅かにかすれていた。
「……そういうのに遭遇したら、まずあなたの精神状態を疑うわ」
「それ、つまり知覚型ってことですよね? だとしたら俺、もうやられてるのかも……」
「冗談は現場を見てから言いなさい。笑えなくなるわよ。今回の血濡れ雀は……おそらくその知覚型ね。厄介な任務になる可能性が高い。本来なら複数人であたってもらうつもりだったけど、ご覧のとおり人手不足。杏陽子がメインで対応する。悠人くん、あなたは彼女のサポートに回って、現場の勘を覚えなさい」
悠人は、そっと杏陽子の横顔を見た。その瞳には、強さと、どこか深い寂しさが同居しているように思えた。
ブリーフィングが終わる頃には、時計の針は18時を回っていた。
退勤するには申し分ない時刻。悠人は、微かな希望を抱きながら尋ねた。
「出撃は……明日、ですか?」
八重野は眉一つ動かさず答えた。
「何言ってるの?これからが出番よ?」
血の気が引いていくのがわかった。
「え……?出番だと思ってるのは、僕の胃の方なんですけど……」
どこかで「人手不足」とは聞いていたが、まさかここまでとは。
「失敗は許されないわよ」
八重野の口癖が、いつも通りに響く。重く、冷たい錘のように。
(ああ……言い方がいちいち重い……でも、住民の被害を考えたら……そうだよな……)
葛藤はあれど、理屈は理解できる、いや、理解せざるを得ない。
こうして悠人は、関わりたくない怪異の現場へ自ら向かうことになる。




