第8話 閉店する喫茶店と孤独な火
昼の光が高窓から射し込む頃、特制隊の執務室に軽やかなヒールの音が響いた。八重野局長だった。その背後には志多見という局長代理の肩書をもつ男だ。殺気も覇気もない、まるで影の一部であるかのような人物。そんな彼を従えて、彼女はいつものように涼しげな笑みを浮かべ、ふわりとした気配を纏っている。
「悠人くん、頑張ってる?」
声をかけられた悠人は、黙って頷いた。
それだけで八重野は満足したように目を細める。
「ランチいってくるわね~。柚里、勝手がわからないだろうから、いろいろ教えてあげてね」
「はい」と素直に返事する柚里の声が控えめに響いた。
八重野は独り言のように続ける。「さぁどこいこっかな~。あ、そうだ。あのオーガニック系の和食店、評価高かったな。行ってみようかな。そうだ、友達にも電話してみよっと」
出て行く前に、くるりと振り返る。「あ、志多見くん。なにかあったらよろしくね」
「いってらっしゃい」志多見は穏やかな声で応じた。
高いヒールの音が遠ざかり、静けさが戻る。
柚里はそれから悠人に向き直る。
「局長はいつも外で食事なのよ。よかったら、行きつけの喫茶店、紹介するよ。安いし、おいしいの」
柚里の申し出に、悠人はすぐに「よろこんで」と返した。
「力也、お前も行くよな?」
「はいっ」と力也が元気に答える。
三人で向かった喫茶店は、すでに時代の風にさらされて角が丸くなったような、どこか懐かしい佇まいの店だった。入口には「創業昭和四十年」と手書きの札。木のテーブル、煙草のしみついた壁、控えめなBGM。下町の空気をそのまま閉じ込めたような空間。
席につき、それぞれがメニューをめくる。ハンバーグ定食、ナポリタン、オムライス──どこか家庭的で、どれも妙にうまそうに見える。ふと顔を上げると、壁際のテレビに目が留まった。そこに映っていたのは、あの天花杏陽子だった。白の制服姿でインタビュアーに答えている。
―現在の状況はいかがでしょうか? 今回の怪異騒ぎについては、もう解決したと見ていいのでしょうか?
―ええ、問題ないと思います。
淡々とした口調。だが、その言葉とは裏腹に、目はどこか遠くを見ていた。画面には、人々が手を振り、歓声をあげる様子が差し込まれる。だが、彼女の表情は曇ったままだ。
―街に被害が出てしまったのは、改善すべきところですが、ただ、今回は人災がなくてホッとしています。
そう言いながらも、彼女の表情がどこかしらか硬い様子が見てとれた。口では人々のために対応できてよかったと述べながら、どこか心ここにあらず、といった風情。
力也が口を開いた。
「さすが、天花杏陽子さんはアイドルさながらの注目度だなぁ」
悠人も思わず声を重ねる。
「先日はほんと助かった…。彼女がいなければどうなっていたか……」
柚里はスプーンを持つ手を止めて、ぽつりと漏らした。
「でも……とらえどころがないんですよね。仕事には女子にあるまじきストイックさ、ランクS3、つまり最高ランク。もうあの人だけでいいんじゃないかな、状態だよ。あとね、昼ごはんを誘っても乗ってこない。なんていうか、話しかけづらいんです。遠くを見てるような目というか、心ここにあらずというか。」
「綺麗すぎて声かけづらいですよね!」と、空気を読まずに力也が口を挟む。
その瞬間、力也は得意げにスマホを取り出し、待ち受け画面を皆に見せた。そこには、明らかに望まれていない角度から撮られた杏陽子の写真が。
柚里の顔が引きつる。「……それ、盗撮やん」
静かで冷ややかなツッコミ。
食後、会計を済ませて出ようとすると、ドアの傍に張り紙があるのが目に入った。
《来週末をもって閉店いたします》
悠人は一瞬、足を止めた。
古びたこの喫茶店。漫画を読みながら、定食を待つこともできるこの店。
こんな落ち着く空間、ずっと保ってくれればいいのに。でも経営状態が厳しかったのかもしれない、もしくは、跡継ぎがいなくやむなく閉店なのかもしれない。
少し寂しさを覚えながら、扉を押して、店を後にした。
翌朝の空気は澄み渡り、思いのほか軽やかだった。
「大学のゼミがあるんで」と申し出た休暇は、あっさりと許可された。予想に反して、八重野のまさかの即答で。もしかしてこの職場、ブラックじゃない……?そう思いかけた矢先に追い討ちをかける言葉が投げかけられる。
「その分は体で返してもらうけどね」
惑うことなきブラックだった。悠人は苦笑しながら、久々の大学へと向かった。鉄柵の門をくぐり抜けた瞬間、空気が変わるのを感じる。騒々しくも無邪気な学生の声、どこかの部活が叩く太鼓の音、風に揺れるイチョウの葉。
──平和だ。あまりに、平和すぎる。
研究棟に入ると、すぐに見知った顔が目に入った。宮内澄乃。同じゼミに所属する女性だ。落ち着いた物腰、端正な顔立ち、そしていつも少し距離を置いているような、淡い孤独を漂わせている。
近くのベンチで、学生たちの会話が聞こえてくる。
「マジで地獄だったわ、あのゼミ。無能なやつと組んじまってさ」
「だよな。勘弁してほしいよ、ほんと」
無遠慮な声の矢が飛び交うたび、澄乃の顔に微かに翳りが差す。伏せられた視線、一瞬だけ噛んだ唇。
(あれ……もしかして、今のって澄乃さんのこと……?)
悠人の胸に、ふとした違和感が刺さる。
(でも、俺なんかが声かけたら、逆に傷つけるんじゃ……)
と、迷いながらも、思わず声をかけていた。
「大丈夫……?」
澄乃は少しだけ目を見開いた後、笑った。とても自然に、しかし少し演技が混じった笑みで。
「え? うん、全然。慣れてるから」
その一言で終わるかと思いきや、彼女は急に話し始めた。
「サークルでもバイト先でも、なんか浮いてるんです。気づいたらひとりになってて……打ち上げも、みんなで写真撮ってるのに、私だけ声かけられなかったりとか」
言葉には棘も、怒りもなかった。ただ、事実を並べるような口調だった。
「でも、もう慣れた。悲劇が続くと、人間って強くなるみたい」
その瞳の奥に、悠人はひどく静かな火を見た。燃え上がらない、けれど決して消えない炎。
「ごめんね。こんな重い話して。……つい。悠人くん、なんか話しやすくて」
「少しでも気が晴れたなら、よかったよ」
本音だった。彼女の語る孤独には重さがあったが、それを背負う覚悟にも、気高いものを感じた。
「……私、気にしてないから」
微笑する彼女を前に、悠人は言葉を失った。
(澄乃さんは強い。こんな人間が、世の中には確かにいるのだ)
だがその時、悠人のスマホにメッセージが入る。




