第68話 記憶
―――10年後。
3月21日。
海利は、ついに刑期を終えた。
鉄の扉を抜けた瞬間、外気の冷たさが肌を刺す。そこで待っていたのは父だった。
隣には拓海と萌霞の姿もある。
父は言葉を持たず、ただ息子を抱きしめた。
その腕には、十年間の悔恨と無力さが重なっているようだった。
「俺のせいだ、海利。お前がこんなことになってしまったのは……」
かすれた声。
海利は小さく首を振った。
「父さん。俺は全部知っているから……いいんだ」
久々に乗り込んだ電車。
朝の通勤時間帯らしく、車内は人で埋め尽くされていた。十年の歳月が流れても、この混雑は変わっていないらしい。窓外を流れる町並みに、海利はただ目を奪われた。懐かしさと、わずかな眩暈のようなものが胸をかすめる。
降車のとき、不意に背中を押され、危うく前に倒れそうになった。体勢を整えて事なきを得る。思わず文句を言おうとしたが、ふと気づく。
(俺は一体、誰に文句を言えばいいんだ?
直接背中を押した人か? そのさらに後ろから押した人か?
あるいは、この混雑を放置してきた鉄道会社か?
それとも、抜本的な対策を打ってこなかった都知事か……?)
考えは堂々巡りを繰り返す。
ただ一つはっきりしていた。――自分を押した人間一人のせいではない。
皆が少しずつ関わって、この「圧力」を生んでいるのだ。
駅を出ると、近くで演説の声が響いた。
若い女性の張りのある声。
「無所属、山本よしこ! 祈りだけじゃ届かない。だから声を聴き、共に進む!」
スローガンを掲げるその姿を、海利は既に知っていた。
彼女を支えるように声を出す後援会メンバーの声も、耳に覚えがある。
壇上の女性は言った。
「皆さん。今の世の中で、本当に大切なものは何でしょうか。
未来のために戦い、身を削った者たちがいました。
それなのに彼らは誤解され、罪を背負わされたかのように叩かれ、名誉を踏みにじられた。
私は、それを決して見過ごせません。
真実をねじ曲げられ、声を奪われた仲間のために、私は立ち上がりました。
私は必ず、この国の歪みを正す。権力に押しつぶされる人々を救い、真実を取り戻し、名誉を回復させたいのです」
演説の終わり、ぱらぱらと拍手が起きた。
海利も静かに手を叩く。
やがて彼女は駆け寄ってきた。
「今日でしたね。すぐ気づきましたよ。おかえりなさい!」
両手で海利の手を握りしめ、次の瞬間、はっとして手を放す。
「あ、これ、職業病みたいなものです!」
そう照れ笑いを浮かべた。
「ありがとう。ところで『山本よしこ』って偽名なのか?」
海利の問いに、彼女は目を丸くする。
「本名なんですけど」
「じゃあ玲沙璃という名前は?」
「それも私の名前。ずっと昔の」
「そっか。いい名前だな。良子だなんて」
選挙カーから顔を出したのは力也だった。
「俺も手伝ってんだ。後援会で」
「そうか。今度は玲沙璃さん推しか」
「え? ま、まぁな」
海利は小さく息をついた。
「それにしても玲沙璃さんがこうなるなんて、本当に以外だよ」
「だれかを救うために戦うことが性に合っていると思ったんです。何も変わってませんよ」
海利は微笑む。玲沙璃のまっすぐな瞳は、十年という歳月の彼方に、新しい息吹を確かに映していた。
* * *
ある日、悠人のスマートフォンに突然の着信が鳴った。
画面に表示された名は――知沙。
「……杏陽子の様態が良くない」
電話口から告げられたその一言に、悠人の頭の中は空白になり、時が止まる。
10年前一緒に戦った仲間たちはそれぞれの生活に埋もれ、互いに顔を合わせることもほとんどなくなっていた。特異体防衛局に身を置いた日々は遠い過去になり、かつての絆さえも、風化したように感じられた。
知沙は医師免許を取り、白衣を身にまとい、病院で杏陽子を診続けていた。十年の間、悠人もまた知沙と共に怪異の研究に没頭した。もはや存在しないはずの特異体。その断片を拾い集め、古い文献や資料を探し歩き、時には仲間たちも手を貸してくれた。終わりが見えない作業。けれど彼らは没頭せずにはいられなかった。
毎週、杏陽子の病室を訪れていた。最初は祈るように、やがて義務のように。習慣となり、いつしか作業のようになっていた。
「ここ最近、いろいろと忙しくてね。なかなか来られなかったんだ。出張が多くてさ」
口に出してみたが、言い訳にしか聞こえなかった。
病室の扉を開けると、そこにはいつもと変わらぬ杏陽子がいた。眠り続ける姿は静謐で、十年前から時が止まったように見える。部屋の隅には彼女の私物が運び込まれ、小さな空間はほとんど「杏陽子の部屋」そのものになっていた。ベッドの脇には、かわいらしい犬のぬいぐるみ、その他にも仲間がもってきたお土産の類がいくつか並べておいてあった。
知沙はカルテを閉じ、短く言った。
「ここ数日……だと思う」
その声音に、悠人は息を詰めた。
「……そうか」
覚悟していたはずだった。何度も想像したはずだった。
それでも、胸の奥では動揺が生まれ大きくなっていく。声にすれば壊れてしまいそうで、ただ黙るしかなかった。
悠人はしばらく杏陽子の様子をみてから、家に帰った。何も手につかない。
落ち着かず、ただ部屋をさまよう。
ふと足が止まったのは――ヨミの部屋の前だった。ドアノブに触れると、彼女の気配が微かに蘇る。
(そういえば、杏陽子とヨミは最初、仲が悪かったな……)
遠い記憶さえ、今となっては愛おしい。
部屋の中は当時から何も変わっていない。
彼女が使っていた机も、椅子も、何もかもそのままだ。
「……あれ以来、何も手をつけてないな」
言い訳は簡単だった。忙しかったから、と。
けれど本当は――怖かったのだ。片づけてしまえば、現実を認めざるを得なくなる。だから、見ないようにしてきた。
ふと、机の引き出しに手を伸ばす。
積もったホコリが宙を舞う。そこには、眠り続ける思い出が詰まっていた。
手に取ったのはヨミに渡したお古のスマートフォン。興味本位で充電ケーブルを差し込むと、小さなランプがかすかに灯る。画面をタップしてふいに見つけた動画に、悠人の指は止まった。
画面に映るのはヨミの揺れる視点。そして――杏陽子。
「……こんなの、いつ撮ったんだ?」
呟きは震え、息が詰まる。
意を決して、震える手で再生ボタンをタップする。
映しているのはヨミ、映っているのは杏陽子。画面がゆれてどこを映しているのか分からない映像がしばらく流れる。それでも次第に慣れたのか、杏陽子の顔がはっきりと映る。画面の中の彼女は、あまりにも楽しそうだった。
こんな声だっただろうか。
こんな笑顔だっただろうか。
杏陽子がカメラに向かって笑顔で話す。
「また、みんなで一緒に遊ぼう」
「悠人もか?」とヨミが問う。
杏陽子は少し照れて、笑って答えた。
「当然だよ。ヨミちゃん」
「やっぱりか。メモしておこう」
「やめて」
そのやり取りが胸を突く。
夜通し作戦の後、倒れ込むように眠っていた時の映像だろうか。
いつの間にか声の様子さえ忘れてしまっていることに愕然とする。そして、記憶にある杏陽子は、強く、固く、冷たささえ纏っていた。何かに耐え、何かを背負い、感情を隠すことでかろうじて立っていた。
10年経って、少しは大人になった今ならわかる。彼女はただ、傷つくのを恐れていただけなのだ。だから感情を閉ざし、笑顔を隠した。けれど、浮世離れした純粋なヨミの前では、心を開けたのかもしれない。
いくつもの場面が、悠人の脳裏に浮かんでは消えていった。
あの頃の出来事。数えきれないほどの出会い、そして別れ。
しかし、杏陽子との思い出だけは――途中で途切れたままだった。
彼女の事を救う可能性がある怪異についての研究。
なぜ人によって第5の力の強弱や怪異の能力差が生まれるのか。なぜ、怪異が消えた今でも微弱な力が残り続けるのか。何一つ解明はできずにいる。
しかし、もはやだれも研究しようという者はいない。今の世の中では、そもそも怪異そのものが姿を消してしまった。気に留めているのは、自分たちか、歴史学者くらいのものだろう。真実は埋もれ、世の雑音にかき消されようとしていた。
――そして、杏陽子が灯していた命の火もまた、消えようとしている。
悠人は胸の奥で呟いた。
「彼女はこの十年間……いや、もっと長い間、戦ってきた。
もう戦わなくてもいい。休んでくれたほうがいいんだ……」
それは願いであり、諦めであり、自分を納得させるための言葉でもあった。
手は尽くした。もう、それ以上はない。
そう思った矢先――電話が鳴った。
「……桐谷俊一? ああ、あのジャーナリストの……」
懐かしい名に悠人は眉をひそめる。
電話の向こうから、気さくで少し軽い調子の声が響いた。
「久しぶりに話さないか」
彼は電話口で落ち合う場所を指定する。
「うちの近くに? 今から……?」
*
喫茶店で向かい合って座った。
昼下がりの店内は落ち着いていて、湯気を立てるコーヒーの香りが、過去の埃を少しずつ払い落とすように漂っていた。
桐谷が軽く笑い、声を落とす。
「……十年ぶり、かな?」
彼はすっかり雰囲気を変えていた。肩の力が抜け、皮肉げな目元に自信と疲れが同居している。局を辞め、ゴシップ紙へと転じた。世間を賑わせる有名人や政治家のスキャンダルを切り裂くように暴き立て、今では編集長を務めているという。
「彼女のこと、聞いたよ」
悠人はわずかに肩を揺らした。
「……さすがに情報が早いんですね」
桐谷は口角を持ち上げ、しかし目は真剣だった。
「もちろんだ。世間に忘れられようと、少なくとも俺の中では彼女は有名人だ。いや、稼がせてもらった、と言った方が正しいかもしれないな」
悠人は返す言葉を探せず、ただ「そうですか」とだけ口にした。
桐谷はさらに身を乗り出す。
「彼女はスーパースターだった。人々はその強さに憧れ、熱狂した。幾度も怪異から守ってくれた英雄だ。――それが、どうだ」
そこで桐谷は一拍置き、カップを見つめながら低く吐き出した。
「今や加登谷海利と同じように隅へ追いやられ、むしろ『戦犯』扱いだ。怪異を広め、人々を危機に陥れた存在だなんて……笑えない冗談だよ」
深いため息がテーブルの上に重く落ちる。
「俺は思うんだ。彼女こそ当時の重要機密を握っているに違いない、と。今、その気運がまた高まっている。十年前と同じように。そして加登谷海利も刑期を終えて戻ってきた。今こそ真実を解き明かす時だ。悪者を断罪すべき時なんだ」
その言葉には熱がこもっていた。
「……もし、そうなればたしかにスクープでしょうね」
しばしの沈黙。桐谷の瞳の色がふっと変わる。
「――悠人くん」
彼は声を落とし、まるで告白するように言った。
「俺はね、スクープなんて正直どうでもいい。願っているのは、彼女が救われること。それだけだよ」
悠人は胸の奥に小さな痛みを覚えながら頷いた。
「……なんとかしますよ」
桐谷は微笑み、背筋を伸ばす。「期待している」
そうして、二人は別れた。
――だが帰り道、悠人の足はふいに止まった。
(なんとかします、だって……?)
拳に力が入る。
自嘲が込み上げる。
この十年間、手を尽くしてきた。今更何ができるんだ。やれることはやり尽くしてきたじゃないか…。
*
土曜日。
病室のドアを開けると、先客の姿があった。
元特異体対策庁・特異事案統括官、鬼頭 流。その傍らには、一人の女性と、小さな子供が寄り添っていた。再婚したと聞いていたが、実際に目の当たりにすると、その光景はどこか不思議な感覚を呼び起こした。
「遊園地帰りでね」
鬼頭は照れくさそうに笑い、子の肩を抱き寄せる。
悠人は自然と視線を子供へと移した。幼いその顔に、ふと未來や未影の面影を重ねる。
「ねぇ、はやくおうちかえろ?」
子供の声はまだあどけない。
「來影。お父さん、今は大事な話をしてるから」
「じゃあ、あとでアイスかって?」
「アイスクリーム?」鬼頭が問いかけると、子は真剣な顔でこくりと頷く。
「じゃあパパはナッツアイスにしようかな」
「またぁ?」
小さなやり取りに、鬼頭は思わず笑い声をこぼした。
鬼頭は姿勢を正し、杏陽子の眠るベッドへと視線を移した。
「子供がぐずってきたから、今日はこれで帰るよ。また近いうちに来る。お礼を言うこともできないのは、本当に寂しい。……でも、気持ちは届いていると信じたい」
短い沈黙のあと、鬼頭は誰にともなく呟いた。
「ただ話し合う。それだけでよかったんだ。……せっかく近くにいたのに、遠かった。怪異というのは、逃げても逃げきれないことに、真正面からぶつかるための運命だったんだろう。……試していたんだ、私を」
その言葉には悔恨と、どこか受け入れにも似た響きがあった。
ふと、悠人の目にベッド脇の花束が映った。
「これ……鬼頭さんですか?」
問いかけると、鬼頭はゆるく首を振った。
「私じゃないよ。訪れたときには、もう飾られていた。……きっと、彼女のことを想っている人が、他にもいるんだろう」
静かに佇む花束。赤い可憐な花びらは、杏陽子の眠りを守るように輝いていた。