第64話 怪異の根源
品川区、白蛇辯財天社。
前日の夜から、境内の静かな闇に紛れて準備は進められていた。
騒ぎにならないよう細心の注意を払う。足音を殺し、気配を隠しながらの設営。バリア発生装置の設置、電力供給線の敷設、配備位置の調整──一つ一つは地味な作業だったが、そのどれかが欠ければ計画は瓦解する。
「出現する可能性の高い範囲はそれほど広くはないけれど、バリア発生装置の範囲はかなり狭い。ここが問題。当てが外れた場合、なんとかうまくおびき寄せるしか方法はない」
知沙は低く、しかし確信を込めて言った。
全員がその言葉を胸に刻む。明日、この一時に賭けるしかないのだ。
その時はすぐにやってきた。
翌日午後十三時。定めた時刻を示す腕時計の針が静かに動く。だがモモの姿はない。
境内には蝉の声と風鈴の音が交互に漂う。じりじりと照りつける太陽の下、汗を拭いながら待ち続ける面々の表情は次第に硬さを帯びていった。
時は流れ、空が茜色に染まり始めた十八時。
夕焼けは空一面を真紅に染め、その紅は神社の鳥居や石畳までも染め上げていた。
もう現れないのか……?
誰もが心のどこかでそう思い始めていた。知沙の予測が外れたのだろうか。計画は練り直しだろうか──。諦念が胸を覆いかけた瞬間、境内の空気がかすかに震えた。
第5エネルギーの微弱な波が、確かにそこにあった。
知沙はモニターを凝視しながら鋭く目を細め、すぐさま全員に合図を送る。
<来る……!>
姿を現したのは、神社本殿の目の前。
「まさか、ど真ん中とはね」
力也が思わず息を漏らす。
<バリア発生装置、起動させて!>
悠人は息を呑み、モモを凝視する。
起動まで、三秒。二秒、一秒──。
低く唸るような駆動音が境内を震わせ、不可視の第5力場が膨れ上がる。
モモの体が揺らぎ、捕らえられたかに見えた。しかし、その様子にまるで変化はなかった。ゆるりと立ち上がり何かに気を取られているように歩き出す。
<だめだ。まるで効いていない……>
<焦らないで。その効果は干渉時間が増えれば増えるほど強まる。辛抱強くバリア内にいてもらいましょう>
知沙の声は冷静で的確だった。
境内を歩き回るモモは、枝を拾い地面に文字を描き、時には虫を覗き込む。あまりに無垢で、怪異らしからぬ仕草。だが次の瞬間、彼女はぴたりと足を止めた。首だけをゆっくりと回し、あたりを確認している。
<……やったか!?>
誰かが声を呑む。
しかし、モモは不意に唇を綻ばせ、ふわりと微笑む。
次の瞬間、不可視の膜の向こうへと、霧が溶けるように身体をすり抜けた。それは一瞬のことだった。
溜息が漏れる。
「……ダメだ、プランDだ」
待機していた面々が計画通りの経路で、境内へと飛び込む。
最初にそこにたどり着いたのは悠人だった。
距離を詰め、モモと真正面から向き合う。息は浅く、鼓動は耳の奥で鳴る。
<刺激をするな。ただ対象範囲に留まらせる……それだけだ。二分、持たせろ>
「ねぇ、あそぼ?」
唐突な声に、悠人は胸を衝かれる。あまりにも無垢な声だ。向き合うその顔に、悠人は言葉を探す。
「ああ……あそぶって、この間も言ってたよな。何をして遊ぶんだ……?」
必死に言葉を紡ぎ、時間を稼ぐ。
モモは首を傾げ、目を細める。
「……知っているはずだよ、悠人くん」
「……!?」
悠人は絶句した。なぜ俺の名前を知っている?
「悠人のこと、ずっと待っていたよ」
「なんだって……?」
悠人は息を飲んだ。
「……忘れてしまったの?」
その声には、ほんのわずかに悲しみが滲んでいた。
「杏陽子と一緒に待っていたのに」
――胸が、どくんと大きく鳴った。その名が、杭のように心臓へ突き刺さる。
悠人は息を荒げながら、声を絞り出した。
「杏陽子って……。
一体どういうことだ。教えてくれ。
何があったんだ……!」
その瞬間、轟く駆動音。予備のバリア発生装置が起動する。力也の軽快とした声。
「もってきてよかった予備装置! しかも改の冷却完了、起動オーケー。二倍の効果だ!」
一瞬、モモの身体が苦しげに震える。だが、次の瞬間にはにっこりと笑い、悠人の目の前で霧散する。現れたのは、またもバリアの外。まるで戯れるかのように、悠々とした姿。
「……ダメか。もう手がない……」
知沙の声は沈み、計測器の緑のランプだけが淡く光る。
遠くに街を壊し続ける巨大な怪異の姿が視界に入る。その影はゆっくりと動き、しかしそのたびに建物が崩れ、粉塵が上がった。セラピーモンスターの進撃は止まらない。このままでは──東京の街は…。
そのとき、重苦しい空気をかき分けてヨミが現れた。揺るぎない顔、刀を抱いた姿は、不思議なほど鮮やかだった。
「ヨミ……お前」
「……あれを捕らえて調べれば全てうまくいく。そうなんじゃな、悠人」
「ああ……しかし!」
ヨミは意を決したかのように、迷いのない目をしていた。
「悠人、少しでも打撃を与えて弱らせる。捕まえるにはそれしかなかろう。古典的だが、単純な話じゃ」
「おい、ヨミ!」
制止しようとする悠人の声はヨミには届かない。ヨミは躊躇なく刀を抜き、飛び込んだ。
しかし──モモの動きを捉えることはできない。斬撃は空を何度も切り、ヨミは苦笑を漏らすように呻いた。
「すべてが読まれているようじゃ……このわしが、これほど苦労するとは……!」
「ヨミ、あなたには無理だよ?」
モモの声が頭の中に響く。
ヨミの顔がぴくりと引きつる。モモは耳元で囁く。
「だってあなたは──」
その言葉を残し、モモの姿はふっと消えた。
「どこじゃ……?!」
ヨミの声が、宵闇に空しくこだました。
*
萌霞は地図を見て、キョロキョロとあたりを見渡しながら小さな橋を渡っていた。
拓海くんが話していた場所──その先にあるはずだ。
足を止め、地図と照らし合わせながらゆっくりと見回す。けれども確信は持てない。どうしても詳しく教えてはくれなかった。だから、こっそり誰かと話しているのを断片的に聞き取ったのだ。
『白蛇辯財天社』といえば、ここしかないはず。
怪異の親玉。そんなものが、本当に存在するというのなら──。
「わたしにも……できることがある。ううん、なにかをしなきゃいけない。そうでなきゃ……わたしは……」
胸の奥で、言葉にならない焦燥が煮え立つ。
橋を渡りきる前、彼女は現れた。
ふっと空気が揺れ、萌霞の目の前に、和服姿の少女が立っていた。
あまりに自然で、あまりに唐突。次の瞬間には、にこりと屈託のない笑顔を浮かべ、少女は近づいてくる。
「え……?」
萌霞は思わず息をのむ。
あの子だ。病院で何度か一緒に遊んだ子。
「どうしてこんなところに? 危ないよ? 病院から出てきて大丈夫なの?」
そのとき、遠くから拓海の声が響いた。彼の隣には仲間たちの姿もある。必死に叫んでいる。
「萌霞、危ないぞ! そいつは怪異だ!」
――怪異。
その言葉は、萌霞の思考を一瞬で凍らせた。
笑顔のまま抱きついてくる少女。
温もりは確かにあるのに、その存在が世界を歪ませる。
目の前にいるのは──怪異の大元。すべての怪異を生み出す根源の存在。
その事実が、電流のように萌霞の体を貫いた。
気づけば、モモの服に赤黒い色が広がっていた。
「……え?」
ぽたり、ぽたりと何かが地面に染みを作る。
「大丈夫……?」
萌霞はかすれ声を漏らした。
彼女の体にはナイフが刺さっていた。
そして、その刃を握っているのは自分自身だった。
血に染まった手。自分の腕に繋がっているはずなのに、どこか別のもののように見える。
「わたし……何をしたの……?」
呆然とした声が、虚空に吸い込まれていく。
駆け寄る拓海。
その場に居合わせた誰もが、息を呑み、時が止まったかのように動けなかった。
モモの身体は、胸に刺さった刃の衝撃で、微かに震えながらも、すうっと力を失っていく。
まるで重力が変わったかのように、地面へ静かに倒れ込む。その輪郭は次第にぼやけはじめ、皮膚の色が薄れて光を帯び、髪の一本一本が空気に溶けていく。
やがて完全に宵闇に吸い込まれるかのように消え去った。
「一体……何が起きたんだ……」
誰もが声にならない問いを胸に抱きながら、その消失を見守るしかなかった。
──しばらくして、凪咲から通信が入った。
<セラピーモンスターが消失しました。巨大なエネルギーもろとも……>
「なんだって……?」
一同の声が重なった。
確かに、遠方に見えていたはずの巨体は、もはやどこにもなかった。残されたのは破壊されたビル群だけ。そこに在ったはずの脅威は、跡形もなく消え失せていた。
そうして、その日を境に──怪異は、この世界から突如として姿を消したのだった。




