第63話 一分の賭け
夜は深く、部屋の隅に薄い影が落ちていた。
悠人が帰宅しても、ヨミはいつものように先回りして出迎えることもなく、窓際のソファの端で俯いていた。尊大さを装う彼女の口調も今日は収まり、遠慮がちに――まるで誰かに気兼ねをしているように――テレビに対して呟いていた。
(様子がおかしいな……まぁ、昼間あんなことがあったしな)
ヨミは激情に任せて自分の刃を振るった。刃は他人だけでなく、彼女自身の肌にも届いた。その光景の残像が悠人の中にまだ疼いている。その衝撃は、彼女の内側にも深い痕を刻んでいるのかもしれない。
「ヨミ」
悠人は声を選ぶように、静かに口を開いた。
「…言いたいことがある」
ゆっくりと振り向いたヨミの瞳が、わずかに揺れた。
「……なんじゃ、改まって」
悠人はぎこちなく笑い、言葉を紡いだ。
「俺、意外とヨミと暮らしていて、楽しいぞ。最初は変な奴につかまったなって思ったけど話してみてわかった。お前は、おかしな奴だったけど、いい奴だって」
思わぬ言葉に、ヨミは息を呑んだ。
「な、なんじゃ……急に……」
顔を赤らめ、視線を逸らす。
「いや、なんとなく」
悠人がそう言って話題をそらすと、二人の間に言葉は続かなかった。だがそこにあるのは、重苦しい沈黙ではない。むしろ、ほのかに温度を帯びた空気がそこにあった。
ヨミの胸の内では、思考が波紋のように広がっていた。
――なぜ、怪異を憎んでいたのか。
使命として斬り続けることが自らの存在理由だと信じていた。だが、本当にそれだけだったのか。
悠人の声が思い出される。
(おかしな奴……いい奴……)
その響きが胸の奥に残る。
怪異だから悪。人だから善。
長い時の中で、いつしかそんな単純な区別しかできなくなっていた。
けれど――悪い怪異もいれば、そうでない怪異もいる。
(悠人は、わしのことを嫌がっておった……最初はそうじゃったはず)
だが今は違う。
――なぜ?
思えば人と話したことはほとんどなかった。長年一人暮らし。
ずっと一人暮らしだったのか・・いや違う・・その前は・・。
気の遠くなるほど昔の記憶。
それはもはやぼんやりとして、焦点があたることはない。
胸の内にわだかまりだけが広がった。
* * *
霞が関の、名の知れた一角──特異体対策庁の広い開口部を抜けると、薄暗い蛍光灯の下で忙しなく人が行き交っていた。壁には被害箇所を記した地図が貼られ、モニターには各地からの映像が断続的に流れ続ける。電話の着信音が鳴りやまず、紙がめくられる音、指示を繰り返す声、抑え切れない焦りが室内に渦巻いている。
「怪異No.239が起こしている被害について報告しろ」
「現在、目標は品川駅近隣にて破壊行為を継続中」
無機質な報告が続き、担当者の声は震えを隠せない。ひっきりなしにかかってくる電話、応対に追われる職員たち、日夜を問わず対応を迫られる現場。
「加登谷審議官、住民の非難誘導について品川区長から確認の連絡がきています。折り返しお願いします」
「ああ、わかった」
短いやり取りの合間に、海利は部下たちの顔を見渡す。疲労に押しつぶされそうな目、だがどこか諦めのないまなざし──人々のために、今できる最大限を尽くそうとしている。そうした顔を目にしながら、海利の胸は暗雲のように重かった。
ふと、幼い頃に父から聞いた言葉が浮かぶ。
『いいか海利。正しい行いをすれば、正しい行いが自らに帰ってくる』
その言葉は、ずっと海利の中にあった。だが今目の前で起きていることは、その単純な因果律を嘲笑うかのようだった。ヒト適応性評価試験──本来は薬剤開発の名の下に行われるはずだった研究が、父の知らぬところで、別の目的にすり替えられていた。秘密裏に行われた人体実験。結果として生まれたのは、何の落ち度もない被害者だ。
萌霞と拓海の顔が思い浮かぶ。
――この世界で、何が正しい行いか?
頭の中は疑問で満たされる。多くの人間を救うために組織に従うことだろうか。国家や組織の不正を告発して真実を曝け出すことか。仲間を守ることか、それとも、より大きな犠牲を避けるための苦渋の選択か。どの道を選べば、父が言った「正しい行い」が自分に帰ってくるのか、答えは出ない。
特異体対策庁の職員たちは、今日も懸命に働いている。彼らの行為は正しいだろう。だが、彼らを指揮するトップが向かう方向を間違えれば、どれほどの正しい努力も無駄になりかねない。
目を閉じ、父の言葉をもう一度心の中で反芻した。正しい行いが自分に帰ってくる——その信念を、今一度試される時が来ているのだ。
* * *
特異体殲滅局本部。
隊員の一同が介して、知沙の言葉を待っていた。今後の方針に関する重大な場になることをみな覚悟していた。物音ひとつしなかった。
知沙はゆっくりと立ち上がる。細身の指先で端末を叩き、モニターに少女の映像を映し出す。
「……品川区戸越公園で発見された、モモという怪異について。皆さんに話さなければならないことがあります」
特異体登録番号:0009
通称:なし(モモ)
波形強度ランク:1.1(※低位)
出現場所:不定であったが直近のデータ解析により進展あり
「これまでに入手できた情報の通り、怪異にはそれぞれ固有の波形があります。それを辿れば、発生時期をおおよそ推測できるのですが……」
知沙はわずかに息を置き、視線を資料から皆の顔へと移した。
「このモモという怪異には、その波形に一切の変化がないのです。こうした存在は、これまで確認されたことがありません」
言葉が落ちると、室内の空気が少し揺れたように感じられた。
海利が問いかける。
「つまり、モモを調べることで、怪異そのものの起源、正体が見えてくるのか?」
声は冷静だったが、その奥底には抑えきれぬ熱が混じっていた。
「確証はないですが、十分に可能性があります」
知沙の声は迷いなく響いた。
「もしモモあら情報を得られれば、因果関係や発生メカニズムの解明、さらには伝播経路や制御の手がかり、治療薬の確立に至ることができます」
海利は一瞬、言葉を飲み込み、ゆっくりと心の中で反芻する。
(……物事の大元が何であったのか。善悪や因果は、往々にして結果論でしか語れない。けれど、真実を追い求めること。それこそが今、自分にできる最も誠実な行いではないのか)
「この事態を打開するには確かにそれしかなさそうだ。私もぜひとも協力させてほしい」
その声には、わずかな決意の震えがあった。
「しかし、どうやって捕まえる? 戸越公園からモモはいなくなってしまった」
知沙は頷き、端末に別のデータを映す。
「問題はそこなのです。ただ、この怪異は一定の周期で神社に現れることが、目撃情報と観測センターの波形解析によってわかってきました。……先日も蛇窪神社で目撃されています。しかし、証拠としてはまだ弱い。もう少し目撃例があれば……」
悠人はふと記憶を辿った。
あれはたしか会社から内定をもらった帰りのことだった。
商店街の一角に彼女は佇んでいた。長い黒髪の少女。まるでそこには彼女しか存在していないような感覚をもつほど印象的な光景だった。
「……俺は1年前の4月頃、2度ほどモモを見かけています」
知沙の声が瞬間的に大きくなる。
「どこで?!」
「帰宅途中、商店街の近くで」
「金町だったよね、最寄り駅」
無言で頷く悠人。
知沙はすぐに数字と地図を組み合わせながらパソコンにデータを打ち込み操作をする。いくつか呟きながら、やがて顔を上げて言った。
「……やっぱり。今の情報をもとにすると、ある仮説が成り立つ」
一同が固唾をのむ。
「これらの情報から総合的に判断すると──明日午後1時から6時にかけて、品川の白蛇辯財天社に現れる可能性が高い。正確な理由は分かっていません。しかし、実態としてモモは蛇を祭る神社を一定の周期で点々としているのです。悠人さんの家の近くにも葛西神社がありそこでは撫で蛇様が祭られている。そして、それらの情報によると次は白蛇辯財天社、……もしそこを逃せば、次は二十八日後、奈良県の白蛇神社」
彼女は深く息を吐いた。
「だから、この機会を逃すわけにはいかない…!」
力也が低く呟く。
「対特異体用バリア発生装置・改の出番か。でもあれ、一分しか持たないんだろ?」
「確かに制約はある。だからこそ工夫が必要なの」
知沙の表情は変わらず冷静だが、瞳には光が宿っていた。
海利は眉を寄せる。
「……捕らえた後の研究も君が担うつもりか?」
知沙は真剣な眼差しを海利にむけた。
「本来なら特異体起源研究機構に引き渡して依頼するべきかもしれません。でも──信用できません。だから自分たちでやるしかない。私はずっと、この日のために準備をしてきました。必要な器具の設計図、古い記録の抜粋、足りないデータは夜を削って盗み出した。危険な橋でしたが、他に選択肢はなかったのです」
海利は小さく息を吐いた。
「……そうか。計画は理解した。だが、情報が特異体対策庁や特直隊に漏れれば厄介だな。こちらでも最大限、情報流出は防ぐように動こう」
机の上で作戦のタイムラインが描かれていく。役割分担、バリア展開の順序、調査班の進入ルート。短い一分、数十秒を、重ね、繋ぎ、膨らませて時間に変えるための綿密な設計図。
知沙は最後に短く、だが冷ややかな響きを持って告げた。
「安全は保証されません。けれど待っているだけでは何も変わらない。……私たちがやるべきことをやる。それだけです」
全員がゆっくりと立ち上がると、部屋の空気も同時に動いた。綿密な計画と確かな準備、実行する面々の連携、たった一分のバリア展開──勝機は小さく脆い。それでも、そこに賭けるしかないのだ。




