第59話 孤高の舞台
渋谷の夜を、轟音が引き裂いた。
ビルのガラスは次々と砕け散り、街灯はまるでろうそくの火のように折れていく。舞い上がった粉塵とネオンの残光が混ざり合い、スクランブル交差点一帯は灰色の霞に包まれていた。
その中心に、異形がそびえ立つ。
建物を見下ろすほどの巨躯――まるで神話の頁から抜け出した巨人。皮膚のようなものはひび割れ、まるで地層そのものが歩き出したかのような質感をしている。怪異は言葉もなく、ただ黙々と拳を振り下ろした。破壊は止まず、渦のように広がっていく。
周囲は規制線で封鎖されていた。
上空では報道ヘリが旋回し、サーチライトとスポットライトが交差しながら怪異を照らし出す。その光景はもはや戦場ではなく、巨大な舞台装置のようだった。
テレビ各局が特番を打ち、キャスターたちが興奮を帯びた声を張り上げる。
「観測史上最大の怪異が渋谷に出現しました!」
その実況は、災厄の報道というよりスポーツイベントの中継に近い熱狂をはらんでいた。
恐怖と興奮の境目で、民衆はただ画面に釘付けになっていく。
――そんな時、知沙が杏陽子に連絡を入れる。
彼女はもはや部下ではない。けれど、どうしても伝えねばならなかった。
「杏陽子、本気なの? あなた、そんな体で……」
杏陽子は静かに答える。
「私は行かないといけない。あの怪異を放置するわけにはいかない」
知沙の手には、一枚の報告書があった。
特直隊医療班のデータをこっそり入手したのだ。
「……ダメだよ。安静にしてなきゃいけない」
「ありがとう。……でも、知沙こそ無茶はしないで。危険なことをするべきじゃない」
短い沈黙。
知沙は微かに目を伏せ、呟く。
「知ってるの……?」
杏陽子は視線を逸らさずに答える。
「特直隊の情報を、不正に入手していること」
知沙は一瞬、目を丸くして、それから小さく笑った。
「フフ……似た者同士ね。いろんな意味で」
杏陽子もまた、ひと呼吸の後に小さく頷き、ふたりは静かに笑い合った。
「じゃあね、知沙、また後――」
プツリ。連絡は突然途切れた。
「え……?」知沙は眉を寄せる。
切れたのは自然な回線不良ではない。どこか強引に遮断されたような、不穏な気配が残った。
その時、凪咲の叫びが作戦室を切り裂いた。
「怪異の波形強度ランク……9.0っ!? 観測史上最大クラスです!」
「9.0!?」知沙の声が裏返る。
凪咲は震える声で続けた。
「NO.248――セラピーモンスター。なぜ……。以前の観測時は、ここまで強くはなかったはずなのに」
作戦室が一斉にざわつく。
その混乱を切り裂くように、重い足音が廊下から響き、鬼頭が駆け込んできた。
顔は紅潮し、肩で荒く息をしながら、封筒を一通手にしていた。
「重要情報が入った! 矢ケ崎についてだ!」
知沙が前に出る。
「鬼頭さん、一体どうしたんですか?」
鬼頭は震える手で一枚の写真を掲げた。
室内の視線が一点に集まり、誰もが息を呑む。
「加登谷審議官とも密かに連携して情報を探ってきたんだ。これを見ろ……矢ケ崎の隣に写っているのは――天花 紗英。杏陽子さんの母親だ」
誰もが言葉を失い、互いの顔を確かめ合うように見つめ合う。モニターの地図上の点滅が、まるで時間の流れを取り戻そうとするかのように瞬いている。
「まさか……」誰かが小さく漏らす。声は消え入りそうだ。
鬼頭は苛立ちと興奮が混じった声で続けた。
「矢ケ崎は、杏陽子さんの母・紗英と夫婦だった。そして――彼は『矢ケ崎データ』を残している。怪異と人間、政府の裏取引——そのすべての証拠がそこにあるはずだ」
「それはつまり――」
鬼頭は低く続けた。
「彼もまた……我が子を想い、研究に没頭したのだ。俺が特異体対策庁で解決策を求めてきたように。そして彼は、すべての顛末を記した資料を隠した。『矢ケ崎データ』と呼ばれるものを。娘である杏陽子さんなら、何かを知っているはずだ。……急いで知らせなければならない!」
その時だった。
作戦室の壁面に並ぶモニターが一斉に切り替わり、緊急中継の映像が映し出される。
渋谷の交差点。
光に照らされた舞台の中央に、杏陽子が立っていた。
無数のテレビカメラに囲まれ、その姿はまるで救世主か、あるいはアイドルのライブステージに立つ歌姫のようだった。
知沙は慌てて連絡を入れようとした。
しかし応答はない。
「どうして……?さっきまで繋がっていたのに…?」
作戦室の空気が重く沈む。
凪咲が蒼白な顔で、震える声を絞り出した。
「……今回の現場は、特対庁および特直隊が完全に仕切っています。通信は――意図的に遮断されたのかもしれません」
短い沈黙ののち、知沙が息を呑む。
「まさか…………?」
鬼頭が机を叩いた。
「くそっ!」
その一撃の音だけが、作戦室に響き渡った。
誰もが、画面に映る杏陽子の孤独な背中から目を逸らすことができなかった。
それはあまりに小さく、あまりに遠かった。
*
渋谷の街は、決戦を耳にした群衆で祭りのように沸き立っていた。
「やっちまえー!」
「天花 杏陽子どこ!?見えないけど?」
野次馬、ファン、マスコミが入り乱れ、屋台まで立ち並ぶ始末。
露店のおじさんが「怪異退治まんじゅう!」と声を張り上げる横で、カメラがシャッター音を響かせていた。喧噪は街全体を包み込み、日常と非日常が入り混じる奇妙な光景となっていた。
その様子を、高層ビルの一室から冷めた視線で眺める者たちがいた。ガラス張りの空間に整然と並ぶ椅子。男が低い声で問いかける。
「……万が一、あの娘が失敗したらどうする?」
煌良夢は軽く笑みを浮かべる。
「もちろんサブプランは用意してますよ。――いや、むしろそっちが本命かもしれませんね。
杏陽子さんがどこまでやれるか。ちょっとしたエンタメです」
*
「おい、悠人。俺たちも行こう!」
力也が机を叩き、勢いよく立ち上がった。
知沙が即座に首を振り、冷静に制止する。
「特対庁の許可が降りない」
その言葉に、力也は苛立ちを隠そうともせず声を張り上げた。
「許可なんて関係ねぇ! なぁ悠人!」
だが悠人は反応を示さなかった。
「いや……俺たちには、何もできることが――」
悠人の視線は虚ろで、身体も重い。
「お前、どうしちまったんだよ! いつものガッツはどこいった!?」
力也の叱咤が飛ぶ。その瞬間、悠人の目がモニターに映る映像を捉えた。
群衆のざわめきと熱狂。照明のきらめき。
そして、ライトに一瞬きらりと反射した彼女の武装。そこに小さく揺れるチャームが映っていた。
(あれは……!)
小籠包のチャーム――。
あの日、紅龍飯店で自分が買った、小さな土産物だ。
その時の彼女の表情を思い出す。
それは作り笑いではなく、心の奥からふっと零れたような、無邪気な笑みだった。
自分がどれほど胸を打たれたか――悠人は今さら思い出した。
そのチャームを今彼女は身に着けていた。
彼女はずっと、自分を想ってくれていたのではないか。
小さな証を、大切に抱えて。
悠人の胸に、まるで稲妻が走ったかのような衝撃が走る。
「……そっか」
「ん? どうした?」
「……だよ……」
声が震える。
「俺、何してんだよ……!」
気づかなかった自分を呪うように、拳を握りしめる。
「信じてなかった! 杏陽子を! 俺は……信じるって誓ったのに!!」
椅子を蹴飛ばす勢いで、悠人は飛び出した。
慌てて力也も後を追う。
「ちょ、ちょっと待てよ! 俺だって信じてるけど、走るの速すぎだって悠人ーー!!」
二人の影は、群衆の間に消えていく。
その先で、民衆は熱狂し、怪異は唸り、カメラは回り続けている。
世界の中心に立つ杏陽子を、誰もが息をのんで見守っていた。




