第58話 能面の巨影
杏陽子は、あの事件があった日の道順をひとつずつ踏みしめるように辿り、ショッピングモールのフードコートへと足を運んでいた。
ガラスの自動ドアをくぐった瞬間、胸の奥で小さな痛みが走る。
――かならずこの場所には、事件の手がかりがあるはずだ。
あの黒づくめの男たち。彼らが何者で、なぜ母を狙ったのか。答えはいまだ闇の中にある。
モールの光景を眺めながら、杏陽子は無意識に視線を走らせる。
男たちが立っていたであろう柱の影、監視するには格好の位置にある吹き抜けの手すり。
自分が感じ取った、あの日の「暗闇の視線」。その残り香を確かめるように目を凝らした。
けれど今日ここにあるのは、そんな影とは無縁の光景だった。子供たちの甲高い笑い声。アイスクリームを手に走り回る姿。買い物袋を両手に下げ、目を細めて見守る両親の姿。温かい眼差しと人々のざわめきが、この場所をやさしく満たしていた。事件の記憶を追うはずが、現実の光景はあまりにも日常的で、拍子抜けするほどに平和だった。
ふと、思い返す。
母と待ち合わせをしたのは、いつも「西側のベンチ」だった。
時折母はひとりでどこかへ行き、その間、杏陽子はぽつんと座って待った。おそらく美容院か何かだろうと、今なら思う。
けれど幼い自分は、なぜか「東側のベンチ」に行きたがって、母を困らせてばかりいた。
そうだ。東側には、小さなドーナツ店があった。
ショーケースに並ぶ丸いドーナツを、ガラスに鼻をぴたりと押しつけて眺めていたこと。
母が苦笑しながらも、そんな自分を静かに見守ってくれていたこと。
――その笑みまで、鮮やかに思い出せる。
(なぜ、お母さんはわざわざこのモールに、私を呼び出したんだろう……?)
事件を探るはずの心は、やがて懐かしさに押し流されていく。ただ、胸の中に溢れてくるのは忘れかけていた記憶ばかりだった。母とだけでなく、父とも一緒に訪れた。笑い合い、買い物袋を抱えて歩いた。時に小さな喧嘩をしたことさえも、今は優しい色を帯びてよみがえる。
気づけば足は自然とドーナツ店へと向かっていた。
ひとつだけ買ってベンチに腰を下ろす。
一口かじると、柔らかい甘さが舌に広がり、胸の奥深くまで沁みこんでいった。
事件の手がかりではなく、思い出だけが――確かにここに残っていた。
*
その夜、杏陽子は夢を見た。
舞台は――あのショッピングモールのドーナツ店。
店先のガラスケースに並ぶ丸いドーナツ。
ふわりと広がる甘い香り。
もちもちした食感が忘れられなくて、何度もせがんでは買ってもらったこと。
幼い日の自分が、鼻を押しつけるように見入っていた光景がそのまま蘇る。
そして、その隣には母がいた。
やわらかく笑みを浮かべ、声をかけてくれる。
その声の調子が、記憶の中の幼い自分と重なり合い、胸の奥を温かく満たした。
――だが、夢の色彩は唐突に変わった。
眩しい光景がふっと暗転し、重苦しい沈黙に包まれる。
目の前には母と父。二人は真剣な面持ちで言葉を交わしていた。
笑顔も温もりもなく、ただ強張った表情だけがそこにあった。
父の声が響く。
「いいか、大事にするんだぞ。
物を大切にする人は、人から大切にされるんだ」
その言葉と共に、映し出されるのはかつての記憶。
ふわふわの毛並みをした『ワンちゃん』のぬいぐるみ。
欲しくてたまらなくて、ようやく買ってもらった宝物。
父の声には、やさしさと同時に、なぜか心に刺さるような厳しさが混じっていた。
次に浮かんだのは母の顔だった。
「絶対なくしちゃいけない、大事なものだからね」
その目は、どこか怯えるように固く、真剣で。
夢の中の杏陽子は思わず問いかけそうになる。
――どうして? どうしてそんなに怖い顔をしているの?
甘い香りに包まれた記憶のはずが、いつしか胸に冷たい影を落としていた。
*
杏陽子ははっとして目を覚ました。
額にはうっすらと汗がにじみ、胸が小さく上下している。
窓の外は、夜の闇が薄らぎ、すでにほのかに白い光を帯びていた。
夢の残滓がまだ瞼の裏にこびりついている。
(……そうだ。あの『ワンちゃん』……まだ、あるのかな)
胸のざわめきに突き動かされ、押し入れを探る。古びた箱の奥から、小さな犬のぬいぐるみを見つけた。驚くほどきれいなまま、まるで時間がそこだけ止まっていたかのように。
「……ごめんね。ずっとほったらかしにして」
朝食を終えたあとも、気持ちは落ち着かなかった。
ふとした衝動に駆られ、ぬいぐるみを手に取り、背中のチャックを押し下げる。
その瞬間、ころん、と何かが転がり落ちた。
――小さなメモリ。
「……っ」」
息を呑み、震える手で拾い上げる。
「これ……いつから……最初から、ずっと……」
脳裏をかすめる断片。
母が白い帽子をかぶっていたこと。
わざわざ思い出の場所に呼び出したこと。
――すべては、このためだったのか。
メモリをパソコンに差し込む。
すぐに暗号画面が現れた。
【ACCESS CODE REQUIRED】
――あなたの好きな食べ物を入力してください(9文字)。
さらに警告が続く。入力を間違えればデータは消去される、と。
杏陽子は息をのむ。
「……PONDERING」
指先で入力すると、すぐに画面が切り替わった。
封じられていたデータが解かれ、次々と文書が展開されていく。
そこには、組織の成り立ち、特異体研究の機密事項が記録されていた。取り扱いは極めて慎重にせよ、と赤字で繰り返し強調されている。
――まぎれもなく、決定的な証拠。
だから母は、杏陽子を遠ざけた。
だから父は姿を消した。
最後に母が残そうとしたもの、それがここにあった。
「お父さん……お母さん……」
頬を涙が静かに伝う。
データの中には、三人で撮った古い写真も保存されていた。
笑顔の父。母のやさしい手。幼い自分。
その続きを見ようとした、その瞬間――
――ピンポーン。
無防備な静けさを破る、呼び鈴の音が鳴り響いた。
杏陽子は妙な胸騒ぎがあった。慌ててメモリを引き抜いた。それをぬいぐるみの背中へと押し戻し、縫い目をぎゅっと閉じる。箱に戻し、その上から布団をかけて隠した。
――ピンポッ、ピンポーン。
立て続けにもう二度鳴る。
ドアの向こうから声が響いた。
「……すみませーん、宅配便でーす!」
聞き覚えのある声。ドアを開けると、そこに立っていたのは宅配業者ではなく――煌良夢だった。
「やあ。おはよう」
煌良夢はいつもの軽薄さを纏った笑みを浮かべた。だが、その瞳の奥には妙に鋭い光が潜んでいる。「――お迎えに上がりましたよ。今日も君が主役」
それは、これから訪れる怪異との戦いを告げる口上であり、どこか舞台の幕開けを思わせる響きだった。特直隊本部までの道のり、彼はまるで影のように杏陽子の横に寄り添い、ひとりで途切れぬ話を続けていた。取るに足らない与太話。わざとらしい軽口。だが、それがかえって胸の奥を重くする。
作戦室手前、執務室では、職員たちがそれぞれの端末に向かい、無数のモニターが絶えず情報を吐き出している。緊張した空気の中で、キーボードを叩く音と通信の断片だけが飛び交う。
煌良夢と杏陽子が通りすぎても、誰一人としてよそ見をする者はいなかった。
途中、前を歩いていた煌良夢が唐突に立ち止まる。
振り返り、軽やかに一歩、二歩と間合いを詰め、まるで舞台の上で観客に見せつけるかのように胸を張る。その視線の先には杏陽子。彼の口元には、勝者の余裕を装った笑みが浮かんでいた。
「さぁ、君の物語は今日もまた一段と飛躍するんだ」
そう言って、まるで儀式のように顔を近づけ――、唇を寄せる。
だが、その瞬間。
杏陽子は静かに、しかし揺るぎなく顔を逸らした。
「……なっ?」
宙を切った唇が空しく宙に止まり、煌良夢の笑みが一瞬だけ硬直する。
沈黙。
カタカタと機械的なリズムでキーを叩き続ける音だけが響き渡る。
ただ冷たい無関心だけが場を支配していた。
「私……そういうこと、興味ないから」
杏陽子の声は静かだったが、揺らぎのない芯があった。その瞳には、もはや迷いも依存もなかった。
――この男がずっと自分に探りを入れてきた理由。
――求めていたもの。
それが何であるか、杏陽子にはもう分かっていた。
(……あのメモリだ。間違いない)
煌良夢の顔から血の気が引いていく。だがすぐに、無理に作ったような乾いた笑みを浮かべた。
「……なにか変わったね。どうかした?」
彼の声は動揺を隠しきれていなかった。
杏陽子は少しだけ目を伏せ、そして平然とした調子で答える。
「なんのこと?」
それ以上は語らない。
だがその沈黙こそが、煌良夢を最も動揺させる答えだった。
* * *
清禍教・渋谷神山支部。
静まり返った礼拝堂に、ひとりの影が立っていた。
「ああ、明澄羅様。こんなところにいらっしゃったのですか」
声の主は、黒いフードを外して言った。
明澄羅は目を細め、その名を呼ぶ。
「…天堂 極龍」
「どれだけこの時を待ち望んだことか……。はやる気持ちを抑えて留置所まで迎えに行ったのですが、無駄足でしたよ」
明澄羅は黙したまま、ただ相手を見つめていた。
極龍と呼ばれた男は、まるで肩の荷が崩れ落ちるようにうなだれ、沈痛な声を漏らした。
「明澄羅様……私は、悲しいんです!」
極龍の目には大粒の涙が浮かんだ。
それから声を荒げて言った。
「……悲しくないわけがないだろう! 一方的に俺を断罪し、追放した……。俺は何も悪くなかったのに!」
彼は顔を覆い、子どものように涙を拭った。
「父にも母にも捨てられた俺にとって、あなたは唯一の親のような存在だったんだ……」
明澄羅は静かに口を開く。
「人の行いは必ず巡り、必ず己に還る。相手からの報いとして返ることもあれば、己の血肉に深く刻まれることもある。恐ろしいのは後者――小さな選択の一つひとつが積み重なり、やがて魂の形そのものを変えてしまう。清らかな行いは清らかな命を育み、穢れた行いは穢れた命を生む。それが理。誰一人として、そこから逃れることはできない」
極龍は突然笑い声を上げた。
まるで人が変わったかのようだった。
「ハハ……! 俺が築いた『TENGOKUパラダイス』は大盛況ですよ。人を稼がせて、笑わせて、仲間たちも大喜びだ。人を幸せにすれば自分に幸せが返ってくる……世の理でしょう? ねぇ、明澄羅様」
その笑みの奥に鋭い影を宿し、彼は告げる。
「あなたには、腐った血肉が報いとなって返ってくる。私を追放したという過ちが、今まさにあなたを滅ぼすんだ」
明澄羅は一度瞼を閉じ、低く答えた。
「……そうだ。あの刻、私は信念を手放した。未熟であった私は、お前を御する力を欠き、ただ守ることに囚われた。信者を、そして玲沙璃を護る選択は誤りではなかった。
だが――信念を捨てた一点において、私は大いなる過ちを背負った。その代償がめぐりめぐって、今こうしてお前の姿となり、我が前に現れたのだ。
これは因果。逃れ得ぬ報いだ。
だからこそ私は誓おう。今度こそ信念を貫き、己が道を真理へと昇華させる」
そこへ、玲沙璃が駆け込んできた。
「明澄羅様!」
彼女の目が極龍をとらえる。
「この男が……あの天堂 極龍だっただなんて…!」
極龍は玲沙璃にちらりと視線を向け、口角を歪める。
「一目見たときは驚いたよ……大きく育ったなぁ。美しくなった。
あとでたっぷり可愛がってやるよ」
玲沙璃は怒りに声を震わせた。
「この最低のクソ野郎!」
玲沙璃は怒りに震え、今にも飛びかかりそうな勢いで叫ぶ。
だが極龍は、それさえも甘美な酒のように楽しむかのように嘲り笑った。
両腕を広げ、大仰に吠える。
「ハハハ! いいぞ、その活きのよさ! ――その前に……まずは、この周辺の教団施設を全部、ぶち壊してやる!そうしないと腹が収まらねぇ!」
直後、轟音。
大地そのものが呻くように揺れ、礼拝堂の天井に亀裂が走った。漆喰が崩れ、粉塵が滝のように降り注ぐ。
その白い渦の中から、異形が姿を現す。
――丹精な能面を思わせる、無感情の顔をつけた怪異。
だがその体躯は異様なほど巨大で、礼拝堂の空間があまりに狭く感じられた。
「玲沙璃……」
明澄羅の声が、静かに、しかし確かに響いた。
「これが私の、不器用な生き様だ。お前の人生は、お前が決めろ」
その眼差しは柔らかく、最後の瞬間まで彼女を導こうとするものだった。
怪異の巨腕が振り下ろされた。
刹那、礼拝堂はまるで薄紙の箱のように砕け散る。壁も柱も次々に悲鳴をあげ、轟音とともに崩れ落ちていく。舞い上がる粉塵と瓦礫の奔流。その中で、ひときわ大きな石塊が落下し、明澄羅の座していた場所を正確に叩き潰した。
「明澄羅様っ!」
玲沙璃の喉が裂けるほどの叫びが、粉塵の渦に飲まれていく。だが返答はない。
瓦礫に埋もれたその影は、もはや助からぬことを、冷酷なまでに突きつけていた。
視界がにじむ。足元が揺れる。
――誰も信じられず、恐怖に怯えて、すべてを拒んでいた自分。
――それでも拾い上げ、温かな手を差し伸べてくれた恩人。
胸を裂くような痛みがこみあげる。
「やめてぇぇ!!」
絶叫は虚しく、崩壊した礼拝堂の残骸に反響するばかりだった。
力は抜け落ち、玲沙璃はその場に立ち尽くす。
指先ひとつ動かせない。
息さえ重く、ただ呆然と瓦礫を見つめるしかなかった。




