第52話 名前を呼ぶ声
清禍教施設の一室。
みなが顔をそろえていた。
壁の石は古く湿っているが、場の空気には不思議な温もりがあった。
悠人が安堵したように目を細める。
「とかく、みな変わらない様子でよかったよ」
柚里は気楽な調子で返した。
「四カ月じゃ変わらんでしょ~」
その横で、力也の視線が柚里の体を上から下までじろりと走る。
頷きながら、妙に真剣な声で言った。
「たしかに」
「訴えてよい?」
笑い混じりのやり取りの後、自然に「この四カ月どう過ごしていたか」という話題へと移っていった。
柚里は高校生活を。
力也は相変わらずのバイトと押し活を。
悠人は――。
「社会人?」と、誰かが声をあげる。
「ああ、今は休職中だけどな。しっかり説明して、なんとか理解してもらった」
「おいおい。その会社、理解力ありすぎだろ……」
「大事なことがあったからな」
悠人は静かに笑った。
知沙と杏陽子は特異体殲滅局で働いているようだった。
「本当は対策庁の本部部隊に合流する予定だったんだけど……結局二人だけの部署を作ってもらったの。しかも最近、対防局の本部に移してもらった」
「まじか」思わず声がもれる。
「まぁ、粘り勝ちだよね。いろいろと動きやすし」
そういって知沙は含みを持たせる。
しばらくだまって俯いていた拓海が口を開いた。
声は震えていたが、言葉は止まらなかった。
「父は……この『ヒト適応性評価試験』に関わっている。被験者を、東栄セルファーマが裏で怪異起源研究機構に横流ししていたんだ。『治療薬を作るため』と信じられていたはずの東セルが……実際には、人を動物のように扱って実験していた」
その衝撃は裏切りとなり、彼の胸を引き裂いた。
「俺は……誰のことも信用できなくなったんだ。みんなが敵に見えて……誰も救ってくれる人はいないんだって、本気で思った」
重苦しい沈黙が場を覆った。だが海利がすぐに口を開く。
「おい拓海。お前、勘違いも甚だしいぞ」
それにかぶせるように、悠人が真っ直ぐな眼差しで言った。
「拓海さん、俺達仲間ですよ」
拓海の目がにじみ、言葉が零れた。
「……ごめん」
拓海はこの数カ月、どれだけ動いても情報を得られなかった。
せめてもの役目のように、萌霞の看病と玲沙璃の手伝いを続けるしかなかった。
海利が低い声で告げる。
「萌霞については、病院で治療を受けられることになった。少し小さいが、特異体関連の機器が充実している病院だ」
「……ありがとう」
拓海の声は震えていた。
玲沙璃はそのやり取りを静かに見つめ、ゆるやかに口を開いた。
「生きる場が整えられること、それ自体が導きです。人はみな御霊に導かれる存在……。あなたたちが『怪異』と呼ぶものもまた、清禍の摂理に沿うものなのです。皆さんにも、そろそろ清禍教の教えをお伝えしなければならないようですね」
その言葉の響きに、面々は押し黙った。
柚里だけが口をもらす。
「え?それって宗教……?なんか信用しきれないな」
その瞬間、玲沙璃の瞳がぎらりと光る。
「あなたはみたところ、己の根を持たぬ木のよう。自分というものがないのです。風が吹けば揺れ、やがては倒れてしまうでしょう。ですが大丈夫――御霊の慈しみを知れば、必ず真なる自分を得られます。あとで、静かに、そして深く教えを授けましょう」
そこに力也がちゃかすように割り込む。
「おいおい、こんな綺麗な人が信用できないなんてこと、起こりえないだろ?柚里ちゃん」
柚里は力也の助け舟に乗っかる。
「ちょ、それどういう意味? それに……『自分』があるかどうかは別として、夢なら私にだってあるよ! 親友の葵が国体に出て優勝して、そして私が日本一の絵画賞をとること!」
力也は楽しげに頷いた。
「おお、いいね。俺も昔は体を鍛えて陸上やってたよ」
「だからガタイがいいのか」と悠人。
「いやぁ、ちょうど国体代表選考会の時にいつもトラブルが起きてな。風邪ひいたり、感染症にかかったり、寝坊したり……運悪いんだよ」
柚里はじっと彼を見つめ、真顔で言い放った。
「力也くん。あなたは間違っている!! いつまでたっても自分の間違いに気づけないでしょ? 何も考えてなさそうだし」
「いやいや、いつ間違えたんだよ。俺はいつも合ってるっての。ここに来たことだって、間違ってないぞ。杏陽子さんのファンとして追っかけてきて、本当によかったと思ってるよ!」
「きもッ」柚里は肩をすくめた。
そのやり取りを断ち切るように、知沙の声が響いた。
「とにかく、立ち止まってはいけないわ」
その静かな言葉は、揺るぎない芯を帯びていた。
最近、怪異の数は減っていた。
だが同時に、特定の物理型怪異が多く現れ始めていた。そこに強い違和感があった。一方で、蒼症疾患者の姿は影を潜めている。実験そのものが取りやめになったのかもしれない――そんな仮説が浮かぶ。
その傍らで、杏陽子が薬を取り出し、水もなしに一気に飲み込んだ。
悠人が気づき、眉をひそめる。
「大丈夫?」
杏陽子は苦笑いを浮かべた。
「最近ね、効かなくなってきたのよ。どれだけ投与しても……身体が慣れすぎてるのかも」
「まさか……蒼症が、出ているのか?」
悠人の声に杏陽子はほんの少し唇を噛み、低く答えた。
「少し……」
短い沈黙が落ちる。
悠人は言葉を探しながらも、結局何も言えなかった。
ただ、彼女の指先がかすかに震えていることだけが目に焼きつく。
杏陽子はわざとらしく笑ってみせる。
「大丈夫。……戦えるから」
その笑みが強がりにすぎないことを悟りながらも、悠人は頷くしかなかった。
* * *
旧対特異体防衛局――いまは「特異体殲滅局」と名を変えた本部の敷地。
鉄の門をくぐると、そこにはかつてと変わらぬ建物が佇んでいた。
雨にさらされ、黒ずんだコンクリート。
ひび割れた外壁や、剥げ落ちかけた塗装の下からのぞく灰色の地肌。
そのすべてが、時を経てなおこの場所に刻まれた記憶を語っていた。
悠人が目を細め、吐息のようにこぼす。
「なんか、もう懐かしいなぁ……。まさか新組織でそのまま使われてるなんて知らなかったよ」
壁のひびさえ、年月を超えた記憶に寄り添うようだった。
「……四、五カ月しか経ってないのに、二、三年ぶりに帰ってきたみたいだ。ところで、本当に入っていいのか? 俺、もう部外者だろ」
隣を歩く杏陽子が短く答える。
「大丈夫。私の関係者扱いだから」
淡々とした声音。しかし、足取りはわずかに慎重で、心の奥に重たいものを抱えているのが見てとれる。
悠人は肩をすくめた。
「情報が残ってればいいけどな」
「……おそらく、あっても根こそぎ持っていかれてると思う。知沙も調べたけど、何も残ってなかった」
「そうか……でも、ダメもとでも確認しなきゃ始まらない。椅子に座って悩んでるだけじゃ、何も変わらないだろ」
「……そうね」杏陽子は小さく頷いた。
そのとき、廊下の奥から人影が現れた。
象徴的な花柄の白い帽子を手にした女性――杏陽子の母だった。
やわらかい微笑みを浮かべている。その姿に、幼い日の記憶が鮮明によみがえる。
──怪我をして泣いていた幼い自分を、膝に抱いてくれた。
あのときも、今と同じ目で見守ってくれていた。
胸の奥に、小さな希望の光が宿る。
(……お母さん)
だが、その視線の先に見慣れない男がいた。身なりの良いスーツ姿、快活な笑顔。
「朝倉さんではないですか」
母の声。
視察に来たというその男は、気さくに冗談を飛ばす人物だった。
朝倉は朗らかに笑う。
「いやぁ、紗英ちゃんがちょうど視察に来ると聞いてかけつけたんだよ。偶然だよ、偶然! はっはっは!」
そして周囲を見渡しながら言う。
「いい場所だ……でもエントランスに雑草が生えている。こういう細かい管理が行き届いていない組織は、たいてい中身も管理が行き届いていない。硬い地面に生える雑草ってのは抜きにくいんだよな」
母が相槌を打つ。
「そうなんですか? お庭のお手入れもされるんですか?」
「いつも家内にどやされていますよ。たまには庭の手入れをやれってね。家じゃ肩身が狭いんです。紗英ちゃんとこうやって話していても、文句を言われるくらいきついんですよ」
軽口を交わしながら並んで歩く二人。母の顔に、かつてのやわらかさが戻っている。その表情を見たのは、杏陽子にとってあまりにも久しぶりだった。
廊下の奥。残された背中を見つめ、杏陽子は確信した。
──今日はきっと、言葉を交わせる。
「……あの、お母さん……」
母が振り返る。
一瞬だけ、やわらかな眼差しがよぎった。
だが、それは幻だったのかもしれない。
「朝倉さん、すこしいいですか?」
「ええ、もちろん」
母は朝倉と少し距離を取り、杏陽子の前に立つ。微妙にあけられた空間で、瞳は冷たく変わる。
「杏陽子……ここにいたのね」
「……うん」
数秒の沈黙が落ちる。母は小さく息を吐き、言い放った。
「この際だから言っておくわ。もう二度と話しかけないで」
「……そんな、嘘でしょ? 本当は――」
「あなたのせいでお父さんは私のもとを去った。あなたは疫病神」
「どういうこと?なんで……そんなこと言うの……?」
杏陽子の声は震えていた。
言葉がこぼれた。
「私を……ちゃんと名前で呼んでくれたじゃない……! 忘れてなかったんでしょ?」
──その瞬間。
パシン。
乾いた音が静まり返った廊下に響いた。母の手が、頬を打っていた。
「いい加減にして」
冷酷に吐き捨てると、母はすぐに朝倉のもとへ戻り、にこやかに取り繕う。
「ごめんなさい、こんな見苦しいところを……」
朝倉は戸惑い、苦笑を浮かべた。
杏陽子の視界が滲む。
──世界がひっくり返った。
声も、音も、光も、すべてが遠のいていく。
彼女は何も言えず、その場を立ち去った。
*
心配そうに待っていた悠人が、彼女に気づいた。
「……大丈夫、だった?」
杏陽子は、頬の赤みを隠すように微笑んだ。
「少し嬉しかった」
「え……?」
「私のこと、ちゃんと……忘れてなかった。名前、呼んでくれた」
彼女は笑顔を作った。
悠人は言葉を失い、ただ黙って隣に立ち続けた。




