第5話 初陣と少年
怪異は、すでに目と鼻の先にいた。空気が、密度を持ったように重たく沈む。悠人は震える指で、あの得体の知れない武器の説明書を開いた。そこに並ぶのは、異様な文字列。曲がりくねり、蛇のように這う線。
(──なんだよこれ、日本語じゃないのかよ!)
怒りにも近い叫びが喉までこみ上げたが、飲み込む。スマートフォンを取り出し、震える手でカメラをかざす。翻訳アプリ。こんな場面で文明の利器にすがる羽目になるとは。旅行したときに翻訳アプリいれておいて助かった。
「やばいって!来るぞ!」
力也の声が、悲鳴に近く裏返る。
「うるさい、黙ってろ!まずは自分で考えろ!」
動揺を抑えるため、強く言い放つ。まるで自分自身に言い聞かせるように。
「は、はい……」
頼りない返事が返ってきた。翻訳アプリの画面には、淡々とした文章が表示されていた。第一にスイッチを入れること。次に、付属のエネルギーパックを装着。弾倉は……すでに装填済み。
──よし。
まだ、神様は見捨てていないらしい。呼吸を整える。安全装置を外す。ぎこちないながらも、武器は使用可能な状態になった。
(敵を知り、己を知れば百戦危うからず……敵のことなんて、何も知らないけどな。)
小さく、乾いた笑いが漏れた。目前では、黒い靄がゆらめき、徐々に怪異の姿を形づくっていく。もはや猶予はない。
(……さっきより、一回り小さい気が……気のせいか?)
あたりには、煙と焼け焦げた臭いが満ちている。割れたアスファルト。折れた電柱。瓦礫の下からは、助けを求める声。あちこちでサイレンの音が響くが、それらはただ遠くで虚しく鳴り続けるばかり。人が、犠牲になったのかもしれない。あの怪異の、異常な巨躯。聞いたこともない。見たことも、もちろんない。
その時だった。視界の端に、小さな人影が飛び込んできた。泣きながら蹲る少年。そのすぐそばに、黒く渦巻く怪異の影が、迫っていた。
「くそっ……!」
考えるより先に身体が動いた。悠人は少年の手を掴み、近くの瓦礫の隙間へと駆け込む。狭い。息が詰まるほどに。だが、他に選択肢はなかった。少年の手は小さく、冷たく、それでもしっかりと分厚い本をかかえていた。宇宙図鑑だった。表紙は煤け、角は焦げ、ページの端は破れかけている。
「……おうち、なくなっちゃった。ママ、どこに行っちゃったんだろ……」
少年の声が細く震える。悠人はそっと肩に手を置いた。彼の肩越しに、破れた空を見上げる。怪異はいまどのあたりにいるだろうか。下手に動けば見つかり餌食になる可能性がある。だから動けない。
沈黙の時が過ぎる。少年はいまにも泣き出しそうな顔をして、それでも口を固く閉ざしていた。
「なあ、星ってどうやって生まれるか、知ってるか?」
少年は目を潤ませながら、瞬きを繰り返した。
「……知らない。どうやって?」
悠人は、思い出せる限りの話を語った。星の誕生。銀河の広がり。138億年前の宇宙の始まり。そしてそれらすべてが、いまだ仮説の域を出ないこと。人類が知っているのは、ほんの一握りだということ。少年は、恐怖を一瞬忘れたように、目を輝かせた。
「もっと知りたい!ぼく、宇宙飛行士になるんだ!」
その言葉に、悠人は笑った。どこか遠くを見るような目をして、静かに言った。
「俺も昔は、なりたかったんだ。でも……諦めたよ」
「どうして?」
少年の問いかけに、悠人は肩をすくめ、わざと軽い声で返す。
「勉強、嫌いだったからな」
「もったいない!ぼく、勉強好きだよ」
胸を張る少年に、悠人はかつての自分を重ねた。まだ何者でもなかった頃。何にでもなれると信じていた頃。
「なら、きっとなれるさ。でも――その前に、このピンチから抜け出さないとな」
そう言いかけたとき、少年の顔がまた曇る。
「大丈夫。無事だよ。俺がついてる。こう見えても、特制隊の隊員だからな」
そう言って、少しだけ笑ってみせた。少年は、小さく頷いた。瓦礫の隙間から射し込む夕暮れの光が、二人を優しく包んでいた。
黒い霧が、音もなく這い寄ってきた。まるで腐臭を嗅ぎつけた獣のように、怪異の腕が細く、長く、風のように伸びる。
「くそっ、来るぞ!」
悠人は少年の手をぐっと引き、足に力を込めて走り出した。背に食い込む武器の重量が、逃げ場のない現実をさらに強く背負わせる。
「こんなの、もう捨てちまうか……」
思わず吐き出した独白。だが、次の瞬間、別の不安が頭をよぎる。
「っていうか、力也、どこ行った……?」
返事はない。振り返る余裕もないまま、崩れかけた路地を駆け抜ける。だが、行き止まりが目前に迫っていた。三方を瓦礫に囲まれた袋小路。振り返れば、じわじわと影が迫る。
──もう、終わりかもしれない。
そう思ったとき。空気が裂けるような乾いた音が、空間を切り裂いた。銃声。
次の瞬間、迫っていた怪異の霧がふわりと霧散し、その場に崩れ落ちた。
「え……?」
悠人は思わず顔を上げる。
視線の先、砕けたフェンスの向こう、ビルの屋上に人影があった。逆光に包まれたその輪郭は、まるで光そのものから抜け出てきた幻影のようだった。ほんの一拍の静寂。そしてその影は、何のためらいもなく、飛び降りた。
(……嘘だろ?)