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第49話 ソフトクリーム

慎重に歩を進めていた凪咲と鬼頭は、通路の行き止まりにつきあたる。

ふと何かの気配を感じ取り後ろをみると、そこにはやはり白いワンピースの少女。

顔には、見ている者の胸を締めつけるような悲痛の色が浮かんでいた。

そして、その背後には未影。


その一瞬を見た鬼頭は、堪えきれず駆け出す。

「くそ、怪異め……未來になにをしたっ!」

怒りに任せた声が、空気を裂く。

「待って、鬼頭さん!」

凪咲は必死に叫ぶが、その声は届いていないようだった。すでに空間そのものが歪み、音さえ届かぬ領域へ鬼頭の姿は引きずり込まれていく。振り返る暇もなく、彼の影は視界から消えてしまった。

「どうして……。来てはだめだって、そう言ってたのに……」

凪咲はひとり呟き、まわりを見渡す。息を詰める間もなく、ふっと気配が変わった。すぐそばに、未影が現れたのだ。

咄嗟に凪咲は特異体専用銃を構え、引き金を引く。

――ダンッ!

炸裂音と同時に、閃光が狙いを貫いた。だが、まるで空気に溶けるかのように弾丸はかわされ、手応えはない。


次の瞬間、未影は凪咲の背後にぴたりと寄り添っていた。

「そうだと思った」

「……なにが!?」

「この空間で私に勝てるわけがないんだよ、凪咲ちゃん」

耳に触れる声と同時に、全身が痺れ、意識が反転する。


気づけば、冷たい鉄に肌を押しつけられる感覚。なぜか身動きがとれない。視界が戻ると、自分が手術台にロープで縛り付けられていることが分かった。

「……え?」

動けないまま視線を巡らせると、未影の隣に白いワンピースを着た子が立っている。その顔はどこか、自分に似ていた。

未影は静かに語りかける。

「見て。未來の表情……『こっちに来てはいけない』に見えたんでしょ? でも、鬼頭さんには『こっちに来て』に見えたらしいよ。ね? 人って、同じ景色なんて見てない。実はまったく別のものを見ているみたいなんだ。そうするとさ、愛も、友情も、共感も――全部、幻想かもしれないよね?」

凪咲は唇を噛む。手足は完全に固定され、力の逃げ場がない。

「……私……ダメだ……やっぱり……」

弱々しく零れた声を聞き、未影は楽しげに笑った。

「やっぱり凪咲っておもしろいね」

「こんなことはもうやめて…」

「だって本当は能力も高いし、危機を察知する力だって十分あるのに、わざわざ自分の力を抑え込んでるんだもの」

自分の力を?抑えている?

「オバカなふりしてるだけなんでしょ?」

「そんなことない……私は一生懸命……」

その言葉の途中で、凪咲ははっとした。

(……その通りかもしれない。私はいままで責任を負わないために声を上げてこなかった。そして、その事が無意識のうちに頑張らないように自分を押さえつけてきたのかもしれない。できると思えば、責任を背負うことになるから……。)

未影はそんな凪咲の心を見透かしたように、柔らかく言葉を重ねる。

「わたし、そういうところ、凪咲のいいところだと思うの。どうしてだかわかる?」

そう言って、未影は注射器を手に取った。ためらいもなく左腕に針を突き立てる。

「っ――!」

激しい痛みが腕を駆け上がり、凪咲の表情が歪む。

「痛いの? これくらいで?」

未影は愉快そうに笑う。

「こんなの序の口。ちょっと不安になっちゃった。これは最後の仕上げなんだから頑張ってほしい。あの鬼頭さんで最後。そのために、あなたが必要だったんだ。未來にそっくりな、あなたが」

その声音は驚くほど真剣で、まるで子どもに諭すように優しい調子ですらあった。


* * *


残された鬼頭は、ついに未來の待つ部屋へとたどり着いていた。

そうか……いままであの怪異にとらわれて、未來は閉じ込められていたのか!

確信に似た想いが胸にこみ上げる。

この奥だ――。この奥に未來は捕らえられている。

未來の表情が、そう語っている。

思い出が蘇る。

まだ幼かった娘の笑顔。頬張ったソフトクリームの白い口元。無邪気に笑う声。

そしていま、耳に届く。

「今度こそ、助けてくれるんでしょ。はやく……」

未來の声だ。

もはや鬼頭の思考は正常を保てなかった。

「本当に……生きていたんだ……!」

確信のように呟く。

最奥の部屋は、礼拝堂を思わせる静けさを湛えていた。

冷たい白光が床を照らし、その中央にひとり、少女が立っている。


「おかえりなさい、お父さん」


声は異様にやさしく、現実感がどこか抜け落ちていた。

それでも鬼頭の胸には、安堵と幸福が溢れ出す。

ずっと、無意識に求めてきた光景。

二度と取り戻せないと諦めていた娘との再会。

だが、一歩踏み出した瞬間、世界は反転する。

古びて壊れていたはずの装置は新品のように蘇り、白衣の研究者たちが慌ただしく行き交う。誰も鬼頭には目をくれず、モニターへ視線を注ぎ、手を止めることはない。

少女の小さな腕が、冷たいアルコールで拭われ、無慈悲に注射器が突き立てられる。

一度ではない。繰り返し、繰り返し。

「……いたい……やめて……パパ、ママ……」

弱々しい声が響く。

しかし誰も答えない。

ただ黙々と手を動かし、記録をとり続ける研究者たち。

その光景は、悪夢以上に残酷だった。

「おいやめろ!」

鬼頭が叫ぶ。

だが声は届かない。

――だめです、心拍がなくなりました。

――検体No.1のデータを取り続けろ。なにか起きるかもしれない。

冷たい指示が飛ぶ。

「これは……ちがう……これは幻覚に違いない……」

鬼頭の声は震え、足元から力が抜ける。その場に崩れ落ち、膝をついた。


背後に、静かに未影が現れる。

その顔には、表情らしいものがまったくない。

「幻想なんかじゃなく、本当に起きたことなんだよ」

「……嘘だ」

鬼頭の否定を受けても、未影は淡々と続ける。

「なにがそんなにつらいの?世の中には、もっと辛いことがあると思うよ。なんだと思う?」

冷ややかな声が、心を抉る。

「『信じていた希望が、すべて間違いだった』と気がつくことだよ」

嘲笑のように放たれる言葉。


次の瞬間、映像の投影が途切れる。

手術台にぐったりと横たわっていた未來の姿は消え、光に浮かび上がったのは――凪咲。

壁際に拘束され、頭を垂れたまま意識は朦朧としている。

胸がかすかに上下し、生きてはいるが、出血もひどく、今にも命の灯が消えそうだった。

未影は一歩下がり、その様子を観察者の目で見つめる。

「鬼頭さん。今ここから逃げるなら助けてあげてもいいよ。そのかわり、この子は死んでしまうかもしれないけどね。どうする?」

「このやろぅ!!」

鬼頭は怒声を上げ、殴りかかる。

しかし未影は軽く身をひねり、さらりとかわす。

「無駄だって。あなたでは話にならないの。わかっているでしょ?」

軽い調子のまま、冷徹な言葉を重ねる。

「さぁ、どうするの? じっくり考えていいの。これが、最後の実証実験なんだから」


鬼頭は、床に手をついたまま動けなかった。

だが次の瞬間、何かに突き動かされるように立ち上がり、凪咲から離れ、背中を見せて全力で出口の方へと駆け出した。

未影はその姿を見て、唇の端をゆっくりと吊り上げ、楽しげに言葉を紡いだ。

「そう、それでいい。それが人間なの。それが『愛』、つまり『他人への思いやり』が実在するかどうかの結論」

彼女は笑顔を浮かべながら、その光景を見届ける。

鬼頭は床に転がっていた小さな金属ケースに足を取られ、盛大に転げた。だが、よろよろと立ち上がり、諦めることなく扉へと向かっていく。その姿は滑稽で、哀れで、しかしどこか必死だった。


未影の笑顔はそこでふっと消えた。

代わりに神妙な表情が浮かぶ。

「……残念ながら、私は人未満の存在だと自覚してる。はやくまともな人になりたかった」

手術台に縛られた凪咲がかすれた声で問う。

「人未満って……なぜ?」

未影は淡々と答える。

「なぜ? それがわかったら、私も苦労してないの。楽しいと思えば苦しいし、苦しいと思えば楽しい。世界はメチャクチャ。でも、壊れた世界にも法則があるはず。その法則の核が『愛』。他人を思いやる心。それが存在するのかどうか――ずっと確かめてきた」

そして一息つき、結論を告げるように言葉を重ねた。

「でも、今日やっと証明された。最初から『愛』なんてなかった。未來はこんなにも長い間、思い悩む必要はなかったんだ。それが普通だったのだから、傷つく理由もなかった」

彼女の表情はすがすがしく、まるで重荷を手放したかのようでさえあった。

「凪咲、最後に教えてあげる。あなたは自分にさえ嘘をついている。そうして、根底にあるのは他人なんてどうだっていいっていう考えなの」

凪咲は言い返すことができなかった。

おそらく、未影の言う通りだった。

「でも安心して。それが普通なの。あそこの男と同じ。他の人と同じ。

そして…私たちと同じなんだよ」


鬼頭は必死に扉を開けようとするが、びくとも動かない。

未影が囁く。

「さぁ、未來ちゃん。長かったね。あなたが最後にとどめを刺すの。これで決別できる。ようやく次の一歩が踏み出せる」

鬼頭の前に、ナイフを握った未來が立ちはだかる。

「未來……」

鬼頭は足を止め、覚悟を決めた表情で娘を見つめる。

「これで……」


未來がナイフを振りかざした瞬間、床に転がっていた金属ケースが不気味な音を立てはじめた。

「な……なにこれ……どういうこと……!」

未來も未影も頭を押さえ、苦しげに呻く。

地面に這いつくばり、動きを止める。


鬼頭はその隙に駆け寄り、凪咲を手術台から解き放つ。

「大丈夫か。逃げるぞ。立てるか」

そう言い、彼女を背負い上げる。

未影が動揺を隠せずに叫ぶ。

「待て……どういうわけ……何をしたの……?」

鬼頭は短く答える。

「そこの金属ケース――凪咲が持ってきた対怪異用バリア発生装置だ。さっき転んだふりをして、スイッチを入れておいた。起動まで三分かかる。凪咲の言った通り、ちょうど三分だったな」

未影は震える声で問いただす。

「じゃあ……最初から逃げるつもりなんてなくて、演技だったの……?」

手がわなわなと震え、未來も狼狽している。

「許せない……そんなこと、認められない!」

鬼頭は荒い息を吐きながら答える。

「あの装置がどれだけ時間を稼いでくれるかわからんが……」


その時、扉が音を立てて開いた。

「大丈夫か、鬼頭さん、凪咲!」

特制隊の面々が駆け込んでくる。

悠人が安堵の息をついた。

「よかった、危機一髪だ……しかし、状況は深刻だ」

ヨミは鼻を鳴らして言う。

「バカものどもが。こやつの罠にまとめて引っかかりおって」

悠人がすかさず突っ込む。

「いや、お前も引っかかってただろ」

「わしは怪異ごときに心を惑わされることなどない。目を閉じて休んでおっただけじゃ」


未影は首を振り、深いため息をついた。

「……あなたたちは全員、データとして尖りすぎていて使えない。これは……意味のないノイズだった」

悠人が叫ぶ。

「反対側の扉がわずかに開いてる、逃げられる!」

「よし、行こう!」


未影は少し寂しげに、しかし楽しげでもある声で告げる。

「……みんな一緒だね。私たちから逃げるんだね。いつも同じ」

未影は顔をあげた。不思議なほどに平然とした表情。

「さ、よ、な、ら」


だが凪咲は鋭い声で制した。

「だめ、そっちじゃない。そっちは幻影……。逃げ場がないように見えるとなりの小部屋の方が正解」

一同は訝しむが、鬼頭が強く言い切る。

「凪咲を信じよう!」

進んでいくと、やがて建物を抜け、中庭に出た。


振り返ると、そこには未影も未來もいない。まるで最初から存在しなかったかのように、痕跡すら消えていた。ただ陽光が降り注ぎ、雑草の生い茂る道の先に、打ち捨てられた廃墟ビルだけが残されていた。


* * *


鬼頭は帰宅すると、重い足取りのまま机に向かった。

引き出しの奥に、長い年月のあいだ封じ込められていた一本のテープを取り出した。

手にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。

最初の怪異が姿を現した年――そして、未來が姿を消した年の記録。

指先が小さく震えた。


――俺は、すでに真実を持っていた。

十年前から。

ずっと、持ち続けていたのだ。


不意に、その時の葛城の顔が脳裏に浮かんだ。

真剣そのものの表情で、彼はデータを差し出した。

「これを見てほしい。あなたには知る権利がある」

その声は低く重く、いつもの柔和さとはまるで違う響きを帯びていた。


――だが、俺は見なかった。


あの頃は怪異が毎日のように現れ、寝る間も惜しんで対策に追われていた――

いや、違う。

本当はただ、怖かったのだ。

娘の言葉、娘の考え、思いが。

それを直視すれば、自分自身を根底から否定せざるを得なくなる危うさが含まれていた。

父親として、人間として。

だから、見なかった。


「娘さんを救うことはできなかった。しかし怪異に関する研究は前進した」

葛城は誠実に報告してくれた。

彼が最善を尽くしてくれたのは疑いようもなかった。

その言葉に、私は救われた気がした。

未來も祈っていただろう――多くの人々が助かることを。

そう言い聞かせながら、テープを封じた。

そして、十年もの歳月を過ごしてしまった。


鬼頭は深呼吸し、震える手でテープを専用ドライブに差し込み、パソコンに取り込んだ。

静まり返った室内に、機械の駆動音が微かに響く。

やがてモニターに警告文が浮かび上がった。

――この情報は極秘事項であり、セクションD担当者のみに閲覧を許可する。

表示が消えると、複数の映像ファイルと報告書が現れる。


9月30日

「帰りたい? どこに帰るの? このままじゃ帰れない。

あなた一人じゃなにもできないんだよ? 私たちを頼って、任せていればいいの。」

泣きじゃくる少女に、研究者たちが必死に言い聞かせる。

「痛い? 大丈夫よ、こんなの平気。未來ちゃん、もう少しの辛抱だから。

次はこの薬、ちゃんと飲んで眠っていてね」

未來の身体に、怪異がもたらす模様と酷似した青白い紋様が浮き上がっていた。

研究者たちはその異変を記録し、詳細な調査に入る。


11月21日

検体No.1――鬼頭未來の精神に変調が見られる。

「お父さんとお母さん、喧嘩しているの……?

私がいなければよかったのかな……」

「大丈夫よ。すぐに帰れるからね。お父さんとお母さんのところに」

「本当に?」

少女は顔を上げて、言った。

「‥…じゃあ、がんばる」

涙を拭って、かすかな笑顔を見せた。


翌年1月5日

検体No.1は、誰かと話していた。

研究者たちには見えない誰かと。

問いかけ、答え、頷く――孤独な対話。

―幻覚を見ているのかもしれない

報告書にはそう記されていた。

彼女の背中に広がる青白い痣はさらに拡大し、やがて身体全体を覆いはじめた。

表情からは感情が抜け落ち、無機質な人形のように変わっていく。

人ではない、別の存在へと変貌していくかのようだった。

そして――その日の22時11分。

検体No.1は心拍停止。


それ以降の記録に大きな変化はなかった。

――青白い痣、「蒼症」と仮に命名。

痣が現れてから、特定の測定値が増加を続けていた。

その増加量を逆算することで、最初に異変が生じた日を割り出すことができる。

それは、6月29日。

この日に一体なにが発生したのか、いまだ不明であり研究の必要性がある。


映像が途切れ、室内は再び沈黙に包まれた。

鬼頭は椅子に沈み込み、ただ呆然とモニターを見つめる。

――なぜ、あの時に見なかったのか。

なぜ、目を逸らしてしまったのか。

6月29日。

それは、私と妻が離婚した日だった。

結婚記念日に家族で遊園地へ出かけた――

そのわずか一週間後のこと。


* * *


鬼頭たちの必死の調査にもかかわらず、実験棟には怪異の影すらなかった。

未影も、白いワンピースの少女も、そこには姿を見せなかった。

代わりに目の前に広がっていたのは、無数の白骨化した人間の遺体だった。冷たい蛍光灯の光に晒され、乱雑に散らばる白骨たちは、長い時の中で忘れ去られた証人のように沈黙している。

政府はすぐに事態を「機密事項」として処理した。あまりにセンシティブな情報であり、被害者遺族の心情を慮ることが最優先だ――そういう名目で。

だが、鬼頭の目には、その背後に別の深い思惑が隠されているようにしか見えなかった。


* * *


鬼頭の足が向かったのは遊園地だった。

かつて休日には家族連れの笑い声であふれていた場所。

子どもたちの歓声、明るい音楽、綿菓子の甘い匂い。――しかし今はもう何もない。

そこは閉園されて久しく、観覧車もメリーゴーラウンドも錆びつき、音の出ないスピーカーが風に揺れるだけだった。雑草が伸び放題で、どこを見ても荒れ果てた廃墟に過ぎなかった。

だが、鬼頭の胸には確信があった。

(――きっと、ここにいる)

雨上がりの午後。

傾いた陽が西の空を茜色に染め、錆びた鉄骨に影を落とす。

鬼頭は、朽ちかけたベンチに腰を下ろした。


そのときだった。

観覧車の前に、静かに未影が姿を現した。

風が止まり、時が一瞬凍ったかのように感じられた。

彼女の顔立ちは、よく見ると未來と驚くほど似ている。だが、その瞳は冷たく、言葉は鋭利な刃のように突き刺さった。


「……どうして来たの?」


鬼頭の胸の奥で、記憶と現実が重なる。

未影の視線は揺れていた。

「あれだけ見せたのに。私がどうなったか、もう分かったはずなのに」

軋む観覧車の鉄骨の音が、心の亀裂を押し広げる音のように響いた。

「……人は自分のためにしか動かないんだよ、結局。

もうお前で最後だよ。お前をとらえて、もう一度調査すれば全てが解明されるんだ」


次の瞬間、未影の手が閃いた。

冷たい殺意。

世界そのものが揺れるような圧力。

鬼頭の脇腹に、鋭い刃が突き立てられた。

熱した鉄を押し込まれるような痛み。シャツが赤黒く染まり、じわじわと体の奥にまで広がっていく。

(――これが……俺が押し付けたものの正体か……)

血を吐きながら、鬼頭はそれでも笑った。

「……未來……」

未影の声が鋭く返る。

「未來? 私は未影」

鬼頭は弱々しく首を振った。

「未來。また、遊園地に行こう。みんなで一緒に……。

……また、この遊園地でソフトクリームを買ってやるって、約束してたよな」


その言葉とともに、未影の中に記憶が流れ込む。

――お父さんとお母さんと、遊園地に行った日のこと。

相変わらずお父さんは乗り物嫌いで、手にしたスマートフォンで仕事ばかりしていた。お母さんは不機嫌そうだったが、「暑いから」とお父さんが買ってきたソフトクリームに、私も母も思わず笑顔になった。

本当に楽しかった。

――もう時間だ。疲れたから帰るぞ。

観覧車のシルエットがオレンジの空に溶けていく。

まだ遊びたかった。まだ乗り物に乗りたくて駄々を捏ねた。

また今度行こうと宥められ、車に乗せられた。

――もう寝たか、未來は。

――ええ。

――疲れたのかな。

うっすら目を開け、すぐに閉じたときの安心感。

胸の奥で温かく残る記憶。


未影の瞳が揺れた。

「そんな場所、なかった……」と言いかけて、唇が止まる。

確かにその昔、自分は「愛」というものを知っていた。

否定したはずの記憶が、静かに、それでも確かに目を覚まし始めていた。

未影の表情が変わった。

それは、少女――未來の顔だった。

「……パパ……ソフトクリーム……」

その声に、鬼頭は鮮やかに思い出した。

ソフトクリームを手渡したとき、未來は心から嬉しそうに笑った。

ほんの、それだけの光景。

だが、その一瞬こそがすべてだった。


「……っ!」

鬼頭が震える手を伸ばしたとき、未影の姿はもうなかった。

すっと、霧が晴れるように。そして静寂が広がる。

だが、そこには確かに未來の気配が残っていた。

観覧車の向こう。

幼い未來が立っていた。

振り返り、ほんの少し、微笑んだように見えた。



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