第47話 影の予兆
夜。遠くで風がうなり、古びた対防局本部の窓には、なお灯りが揺れていた。
残業を終え、ようやく帰路につこうとしたその時――通路脇の自販機の前に、未影の姿があった。
悠人は思わず足を止める。
淡い光に照らされた横顔は、どこか寂しげで、それでいて深い思索に沈んでいるようでもあった。
「どうしたの、未影ちゃん。まだ帰ってなかったの? 明日、遠征で例の終電天使の調査だよ。早く帰らないと」
声をかけても、未影は返事をしない。
少し間を置き、ぽつりと落とす。
「……不思議な話だよね」
「ん? 何が?」
「この世の中にはさ、人じゃない『なにか』が、いるのかもしれないってこと」
「まあ……怪異のことなら、今さら驚かないけどね」
未影の視線は悠人ではなく、窓の向こうの夜空、どこか遠い場所を見ていた。
「そもそも人間って、何だと思う?」
「……なんだって言われても、難しいな」
小さく笑う未影。
「でしょ?不思議だよね。人は猿から進化したといわれてる。でも、神様がふっと世界の外側から持ち込んだ生命っていう説もある。結局、結論は出てない。
わかっているのは――人は生まれ、そして必ず死ぬ、ということだけ」
「神様、ね……」と悠人は小さくつぶやく。
「どうして生命は有限なんだろう。もし死がなければ、愛も憎しみも、もっと別の形をしていたかもしれない。でも、限られた時間しかないからこそ、誰かを求め、誰かに求められる」
それは悠人に向けられた問いではなかった。
彼女はただ、自分の中の何かを必死にたぐり寄せようとしているように見えた。
「じゃあ、人は愛されることで人になるのだろうか?誰にも必要とされなければ、ただ生きているだけの生物でしかないのかもしれない。すると、もし愛が与えられなかった人間は何者だろうか…」
「愛か……なんだか哲学的だね。未影ちゃんはそういう話が好きなんだね」
「人というものにとても興味があるの。悠人も誰かが好きみたいだね。私にはすぐにわかったよ。あの人でしょ?」
「ちょ、やめろって!」
声が少し強くなった。
その一瞬、悠人の目が遠くにいた杏陽子に向いた。杏陽子はフッと視線を逸らした。
……まさか、この会話を聞いていたのか? いや、この距離では聞こえるはずがない。はずなのに。
未影はそんなことには気も留めていなかった。
自分の世界に入り込んでいるようだった。
「愛ってなんだろ?」
あいかわらず答えづらい質問を繰り出してきた。
悠人が返答しようと考えを巡らせていると未影がぽつりとこぼした。
「誰かを思いやる気持ち?」
「そうかも……」
二人の足元には、自販機の灯が静かに広がっていた。
怪異研究センター――封鎖区画。
10年前に打ちすてられた施設。だが、以降、知覚型特異体がときおり発生する危険区域として立ち入りが禁じられている。白いワンピースの少女が時折目撃される場所でもあった。
そのため、終電天使の居場所ではないかとあたりをつけ、悠人や杏陽子、柚里、未影が調査に向かった。
本部待機を命じられた凪咲は、ただ見送ることしかできなかった。
しかし、時が経っても彼らは帰ってこない。
無線も、携帯も、どの通信も途絶えたまま。
対防局の作戦室で、凪咲はひとり、壁掛け時計の秒針の音を聞いていた。
コツ…コツ…と、やけに大きく響く。
不安と後悔が、じわじわと胸の奥にしみ込んでくる。
(なにかあったんだ……どうしよう……。
いやな予感はしてたんだよなぁ……No11の未解決怪異だし……)
あのとき――封鎖区画に特制隊が向かうと聞いたとき、「危険だと思う」と言えたのに。
頭の中では何度もそう思ったのに、結局、口には出せなかった。
いつもそうだ。言い出せない。それは私が失敗ばかり繰り返してきたから。
(どうせ私の考えなんて間違ってるんだ……言ったところで結果は変わらない……)
そんな自分を責め続けながら一日が過ぎたころ、未影だけが帰ってきた。
緊急対策会議が開かれる。
「とにかく未影ちゃんだけでも帰ってきてよかった」
知沙の声に、未影は少しだけ視線を落とした。
「……みんなとはぐれちゃって。どこかで別ルートに入ったのかも」
「その時の状況について詳細に説明してくれ」
鬼頭の低い声に、未影はゆっくりと語り始めた。
封鎖区画は広大な実験施設で、複数の研究棟が入り組んでいる。
無数の部屋と廊下が迷路のように連なり、そこかしこに知覚型怪異が潜んでいる。
未影自身も惑わされ、気づけば仲間とはぐれていたという。
「残ったメンバーで至急、現地に向かう必要がある」
鬼頭が結論を出した。
「うかうかしていられない。私も行こう」
「え? 鬼頭統括官みずからですか?」と知沙が目を見開く。
未影はそんなやり取りを面白そうに見て、凪咲に視線を送った。
「そうこなくっちゃね。凪咲も来るんでしょ?」
「わたしも……ですか?」
「行こうよ。凪咲ちゃんがいないと困るよ」
「困る?」
「だって私は凪咲のこと、頼りにしてるんだ。いっしょに行って仲間を助けよう。ね?」
未影は凪咲の同行を強く希望しているようだった。
凪咲が観念したように頷き、それから支度を始めると、鬼頭がふいに声をかけた。
「凪咲。無理はするな。……だが、足手まといにはなるなよ」
びくりと肩が震える。
「……はい」
「すぐにでも行くぞ。準備をしろ」
信念と合理主義を武器にしてきた鬼頭だが、未來の存在にだけは感情を揺さぶられている――そう見えた。
凪咲は声をだすことができずにいた。もう少し情報を探った方がいい、と言いたかった。なのに声はでない。とるに足りない自分の意見を言っていいのか分からなかった。
代わりに知沙が声をあげた。
「待ってください、鬼頭さん」
「なんだ?」
その場の空気が、一瞬、止まる。
「もう少し情報を探ったほうがいいと思います。一筋縄ではいかない。先行した子達は信頼できる隊員たちです。彼らがてこずっているのがその証拠です。」
沈黙の中、未影がふっと口角を上げた。陰のある笑み。
鬼頭は深くため息をつく。
「慎重に進めるのはいいが、何事もスピード感が大事だ。なぜだかわかるか。明日できるのと一年後できるのとでは意味合いがまったく異なる。こういうのは極端に考えてみればすぐにわかることだ。……私は先に現地まで行く。ただし待てても一日だ」
* * *
怪異研究センターの実験施設一帯で、何かが起きているのは明らかだった。
その施設は、怪異が初めて現れた頃に、対策のための研究所として使われていた。
怪異研究センター…。特異体対策庁の前進となる国家機関。
その中心部が今回の実験施設。ある時を境に使われなくなったが理由は公式には伝えられていない。調べてもそれらのデータは出てこない。
知沙は机上の書類をめくりながら、短く息を吐く。
「もう、その施設で働いていたチームは解散している。そこに所属していた人たちなら何か知っているかも。凪咲、もう時間はないけれど、あたってみて。私もいくつかあたってみるから」
凪咲は古い資料庫の色褪せた記録をめくり、何年も前の断片から、ひとつの名前を掘り当てた。
――葛城 洋志。53歳。
怪異研究センターの主任研究者。
今は地方の大学で臨床心理学を教えているという。
当時は怪異実験のデータ管理や保護観察を任されていた人物だった。
凪咲は、迷うことなく彼を訪ねた。
静かな応接室。棚の上には家族写真が並び、妻やひとり娘らしき笑顔が写っている。
その柔らかな日常の中で、凪咲はこれまでの経緯を語った――白いワンピースの少女が現れたこと、仲間が戻らないこと、そして、その場所が怪異研究機関の実験施設であること。
「……特異体対策庁の鬼頭さんとともに調査に向かいます」
そう口にした瞬間、葛城の表情がはっきりと変わった。
長い沈黙。
やがて覚悟を固めるように低く告げる。
「わかりました。同行させていただきます。もうこれ以上、後悔したくないんだ……」
その言葉の意味は、凪咲にはわからなかった。
けれど、その奥に深く沈んだ過去があることだけは、直感で感じ取れた。
凪咲はつぶやくように言った。
「危ないかもしれません……」
「承知の上でしょう?」
「え……ええ。お願いします」
どこか煮え切らないままの返事。それでも、同行は決まった。
道中、鬼頭と合流した。
葛城は、その姿を見るなり小さく息を呑み、そして黙り込む。
車を降りる葛城に気が付き、鬼頭は驚きと安堵が混ざったような表情をした。
「ありがとう、葛城さん。信頼できる元研究者が道案内してくれるなら鬼に金棒だ。どうか、よろしく頼む」
鬼頭の言葉には、想像以上の信頼が滲んでいた。
しかし葛城は、どこか不可解そうにその視線を受け止め、それから窮屈そうに答える。
「……よろしく、お願いします」
施設は、山裾の影に沈むように佇んでいた。
かつては最先端の研究が行われていた建物だが、今は外壁の塗装が剥げ、窓のほとんどが暗く、内部の様子はうかがえない。
風に揺れるフェンスが、鈍い金属音を響かせた。




