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第44話 風鐸が鳴るとき

空が明るんできた頃、夜通しの作戦はようやく終わった。

執務室を出ていく面々は、誰一人として口を開かない。靴音だけが、やけに冷たい廊下に響いては消えていく。


怪異を完全に無力化することはできなかった。

物理型特異体の中でもかなり手強いタイプではあったが、隊員同士で連携することにより、市民への被害だけは食い止めた。しかし、その代償は大きく、戦線を維持できるメンバーはまた減った。力也が作戦中のミスで一か月の入院となった。他にも拓海は長期離脱。理由は知沙局長すら知らないということで詳細不明の欠勤。減り続ける前線メンバー。隊の稼働状況は、皮肉にも「過去最高」を更新し続けていた。


帰路の途中、悠人は足がもつれ、そのまま地面に倒れ込んだ。冷たいアスファルトが頬に触れた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れる。

「俺は、まだ……役立たずだ……」

途切れ途切れの言葉は、空気に溶けて消えた。

意識が急速に遠のいていった。


気がつくと、布団の上だった。

上半身を起こすと、体の奥に残った重さがまだ抜けない。

「あれ……? どうやって帰ったんだ、俺」

「ふむ。そこの女に担がれて帰ってきたぞ」

枕元でヨミがあくび混じりに答える。

「えっ……?」

扉の向こうに、見慣れた背中があった。

あの髪型――まさか、杏陽子さん?

(おい俺……なんで途中で意識戻さなかったんだ……!)

怪異対抗薬の副作用か。体を酷使しすぎたせいか。

頭をよぎるのは、知沙さんの言葉――「癌化の可能性」。

それでも、守るべきものがある限り、特制隊で戦い続けるしかないのだ。


その時、香ばしい香辛料の匂いが、ゆっくりと鼻腔をくすぐった。

「……この香りは……」

「さっきの女が飯をこしらえておる」

台所では、杏陽子が不慣れな手つきで包丁を握っていた。

冷蔵庫にはほとんど何も入っていないはずだけど、わざわざ買い出しに行ってくれたのだろうか。


杏陽子は何度も心の中で繰り返していた。

――これは仕事。仕事の一環。それ以上じゃない。


悠人は唖然としていた。

まじかよ、杏陽子さんが家で手料理つくってくれるとか・・・

これ、もうほとんど付き合って・・・・、いやいや、そんなわけがない。

杏陽子さんが俺のことを何か特別に思っているはずがないだろ!考えてみろ、帰宅途中で倒れた部下を背負って帰って、それから部下のためにわざわざ買い出しにいって、料理を作ってくれるとか普通にあることだからな!?


しかし、鍋の中でとろりと煮えるカレーは、その理屈を裏切る香りを放っているように思えてならなかった。

「…………」

目の前に出された皿。

感激で声がでない悠人。

杏陽子が起きたことに気が付いて、申し訳なさそうな顔をする。

「気が付いた?ごめんね、勝手にキッチン借りて」

「そんなことより、大丈夫なんですか? 昨日あんなに大変だったのに。しかも飯まで…」

「ううん。悠人君に比べれば……私は慣れてるから」

慣れているの一言で済ましてもいいものだろうか?いや、彼女は特制隊最強のクラスS3、実際に場慣れしていることはいまさら語る必要もない。

三人で座卓を囲み、スプーンを口へ運ぶ。

――市販のルウのはずなのに、何かが違う。

「……うまい!」

ヨミは「ふむ、やるではないか」と言いながらも、どこか悔しそうにカレーをかき込んでいる。


食後、杏陽子がふとテーブルの隅に置かれた物に目を留めた。

「これ、なに?」

するとヨミが自慢げな声をあげる。

「スマホケースじゃ。石と木を縄文編み風にして作ったんじゃ。日頃悠人に飯をもらっとる礼じゃ」

「えっ……俺に?」

「落としても砕けぬぞ」

さっそく携帯をはめてみる悠人。

「おお……ぴったり……って、重っ! ポケットが沈むわ!」

笑い声が、やけに静かな部屋に溶けていった。

その瞬間、ほんの少しだけ、戦いの匂いが遠ざかった気がした。


食後、悠人は畳に背を預けて横になっていた。

腹が満ちると、全身にずしりとした疲れが押し寄せる。

――この二人、仲良くやれるのか?

そんなことをぼんやりと考えているうちに、意識はふっと沈み、静かな寝息に変わった。


部屋に残った二人の間に、再び沈黙が落ちる。

「どうして悠人さんの家に?」

杏陽子が先に口を開いた。

「別に行くところもないし」

「ご両親は?」

「両親? 親? そんなものはおらんぞ。気がついたときから一人じゃ」

杏陽子は一瞬、表情を緩めた。

「……そっか。一人って……寂しいよね。ちょっとわかる」

ヨミは胸の奥に、説明のつかない感覚を覚えた。

(なんじゃ、この落ち着く感じは……)

次の瞬間、首をぶんぶんと振る。

(いやいや、ダメじゃ。こやつは信用ならんと直感が告げておる!)

それでも口が勝手に動く。

「反対に聞くんじゃが、杏陽子はどうして悠人の家によく来るのじゃ?」


「……え?」


間があった。

「いや……部下なので……」

「ふむ。なかなか熱心なものじゃな」

ヨミはふいに立ち上がり、ガラス戸を開けてベランダに出た。

澄んだ朝の空が広がっている。手を高くかざし、まるで光を掴むかのような姿勢をとる。

「それ、なにしているの?」

「毎朝、日が昇るときに手をかざすんじゃ。昔からやっておるが……意味は忘れた」

「そうなんだ。意味が分からなくても続けてるって、なんかいいね」

「……そうかの?」

「私もたまにやるよ、空に向かって手を伸ばすの。なんか、安心するから。それに、続けていればヨミちゃんもいつかその意味を思い出せるかも?」

ヨミは小さくうなずいた。

(孤独は基本……じゃが、孤独を愛する仲間は悪くないかもしれん)

そのとき、カシャリと近くで軽い音が響いた。

気が付くと、杏陽子がヨミに向けてスマートフォンを向けていた。

「うわっ、なにをした!? 魂を抜かれたのか!?」

「ただの写真だってば」杏陽子は笑う。

ヨミはしばらく睨んでいたが、スマホ画面に映る自分を見た瞬間、真顔になる。

「これは……わらわの像……? 時を閉じ込める術……まさか現代に、このような術が……」

その声は冗談のようでいて、どこか本気めいていた。

外では、朝の光がさらに強く差し込みはじめていた。


* * *


悠人はだいぶ体の重さが抜け、布団から起き上がっていた。

「杏陽子は帰ったぞ」

ヨミがあっさり告げる。

「そっか……」

そうつぶやきながら、何気なく窓の方へ目をやる。

見慣れないものが、窓辺で風に揺れていた。

「……え? 風鈴?」

風鐸ふうたくじゃ。杏陽子につけてもらった」

「へぇ、そうなんだ」

「買ったのは……千年くらい前かの?」

「あー、千年前ね。後一条天皇の御代。ちょうどこのころ、源氏物語や枕草子が流行ってて、よく読まれてたんだよな」

「ふむ。悠人も昔から生きておったのか?知らんかったのぅ・・・」

「ちなみに138億年前に宇宙ができたことも知ってる」

茶化して言うと、ヨミはますます神妙な顔つきに変わった。

「・・・・悠人・・・・・侮れないやつじゃな・・やはり要監視対象じゃ・・・」

近づいてみると、それは古びた青銅の風鈴で、錆がびっしりと浮いている。

音はすっかり失われていたが、表面の細かな文様は、どこかで見たことがあるような気がした。

「そういえば、杏陽子と仲良くなったみたいだな。よかったよかった」

「違う。孤独を愛するための例外じゃ」

「え?……まぁ、いいけど」

外から一陣の風が吹き込む。最近は冬でも日中は気持ちの良い風が通る。

しかし、風鐸から音は静かに揺れるだけだった。

「鳴らんな……」

「そりゃ錆びてるし」

「なんじゃと……? 錆びていると駄目か?」

悠人は工具箱から薬剤を取り出した。

「サビトレスギールでも試してみるか」

錆を丁寧に落とし、再び吊るすと、かすかに金属の響きが蘇った。

「恐るべし……悠人……やりおるわ!」

悠人は調子に乗って言った。

「兄のように思ってよいぞ?」

その言葉に、ヨミはぱっと顔を険しくした。みるみるうちに顔が赤くなった。

「私に兄などいないわ!」

「いや、そんな真面目に怒らんでも……」


その時だった。

風鐸が、ほんのひと鳴り――「ちり……」と響いた。

ヨミの表情がふっと和らぐ。

「この音……懐かしい」

ヨミはゆっくりと目を伏せた。

遠い昔、確かに――仲の良い誰かがそばにいたことを思い出す。

そのぬくもりは確かにあった。

誰だったのか。名を呼びかけようとして、霞がかかったように思い出せない。

けれど、その人と共に過ごした時間の柔らかさだけが、胸に鮮明に残っていた。

やがて、その輪郭はひとつの答えへと収束していく。


兄だ。自分には兄がいたのだ。

なぜこんな大事なことを忘れていたのかは分からない。ただ、その兄をずっと待ち続けてきた気持ちだけが、鮮明によみがえる。そうして胸の内でその存在が次第に大きくなっていくのを感じた。

(兄は……どこへ行ってしまったのだろう)


風がまた吹き、風鐸が小さく鳴った。

その音は、長く閉ざされていた扉を、ほんの少しだけ開いたようだった。



今回から少し分割しながら更新したいと思います。これ以前のエピソードも最後に分割します。

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