第41話 消えない痕
信じてきたものが崩れ落ちるとき、最後に残るのは――
陽凪汰の死は、怪異をめぐるすべての人々にとって決定的な転機となった。もはや誰も、怪異を「ただの敵」として扱うことはできなかった。逃げ道は消え、これ以上曖昧に目を逸らすことも許されなかった。何かを変えなければならない。そう、皆が心のどこかで感じ始めていた。
悠人は、夜遅く仕事を終え、局内を出ようとしたとき、ふと明かりの残る部屋に気づいた。局長室。中には知沙がまだ残っていた。扉を開けると、彼女は一心にパソコンの画面に向かっていた。
「こんな夜遅くに? まだ帰らないんですか?」
「怪異を殺さずに捕らえる、あるいは捕獲する方法をまずは試すしかないの。そのための研究」
知沙は、目を離さずに答える。
陽凪汰の死が残したもの。それは、怪異という存在に対して、これまでの手法では立ち行かなくなるという明白な現実だった。
「しかし、現実的に殺さずに捕らえるなんて……こっちも危なくなる」
悠人の言葉には、真っ当な現場の感覚があった。
知沙の頭に、八重野局長がかつて残したメモの一節が浮かぶ。
――誰かを見捨てるって、結局、自分を見捨てることに他ならない。
あのとき、一つの判断が、結果として誰かを遠ざけ、取り返しのつかないことに繋がった経験をしている。だからこそ、今は迷ってはいられない。
どっちかではなく、どちらも救いたい。そのためにできることをやりたい。
「私の判断が皆を危険にさらすことになるかもしれない。最低限やれることはやりたい」
悠人はそれ以上何も言わず、静かに彼女の隣に座った。
「僕も手伝いますよ、知沙さん」
「もうこんな時間だよ……」
「僕たちはチームですから。一つのチーム」
その一言が、知沙の心にじんわりと染み入っていく。
「ありがとう」
それだけが精一杯だった。
いつもなら、自分だけで背負うのが当然だと信じていた。だけど、こうして誰かが「一緒にやろう」と言ってくれることが、こんなにも救いになるなんて思っていなかった。
室内には静かな時間が流れていく。カタカタとキーボードの音、紙をめくる音だけが響いていた。知沙はふと顔を上げて、悠人の横顔を見つめた。資料を真剣に読み込む目、考え込んだあとに何かを書き留める指の動き。その一つ一つが、どこか頼もしく映る。
(……悠人って、こんなに頼りになる人だったんだ)
そう思った瞬間、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。知らず知らずのうちに、彼の存在が自分の中で変わってきているのを知る。
(もっと、この人と一緒にいたい。もっと、彼のことを知りたい)
そんな思いが浮かんできた瞬間、知沙はそれをそっと押し殺した。
(……みんな命を削っているというのに……なにを考えているんだろう。私は、身を粉にして研究を推し進めないといけない……)
そう自分に言い聞かせながらも、彼女の胸の奥には、小さな炎のような温もりが、消えずに灯っていた。
* * *
萌霞はいつものバイトの帰り道にいた。毎晩、同じルート。同じ時間。同じ空気。バイトは妙に簡単で、わりのいい仕事だった。だから続けている。ただし一つだけ、どうしても好きになれないものがあった。
帰り道。人気のない工場群の間を縫うようにして帰らなければならず、その無機質でひやりとした通りは、夜になると恐ろしいほど静かだった。どこまでも続く闇。照明はまばらで、今夜は月すら雲に隠れている。空の気配さえ感じない。
ふいに背中がすうっと冷えた。
「……誰か、いる……?」
声に出したとたん、何かが這うような気配が背後から迫ってくる。振り返っても、何も見えない。でも、確かに音があった。風の音とは違う、湿ったものが擦れるような、生きものの気配を含んだ音。
恐怖が全身を駆け抜け、萌霞は思わず駆け出した。濡れた落ち葉が靴の下でぬるりと滑る。足元が冷たい。
(逃げなきゃ……! 止まったら、終わる……)
息が詰まる。喉が焼ける。それでも走った。どれほど走ったかわからない。
やがて、少しだけ開けた場所にたどり着いた。小さな公園。古びたベンチがぽつんと置かれている。そのベンチに、崩れるように座り込む。
「……ふぅ……」
肩で息をしながら、ようやく少しだけ気を緩めた、その瞬間だった。
隣に、『何か』がいた。
人の形をしている。でも、それだけだった。関節の動きがぎこちなく、身体の動きが生き物らしくない。肩が、機械のように一定のリズムで上下している。――壊れかけた人形のようだった。
「……コンニチハ」
低く、乾いた声。単語と単語の間に、不自然な空白がある。
「どうするの…誰のせいなの‥‥ソレ」
理解できないのに、言葉が直接、心の奥をひっかく。体が動かない。声も出ない。
(ソレ……って?)
ふっと、腕を見た。
そこに、見慣れないシミが浮かび上がっていた。青白く、肌の内側から滲み出しているようだった。指で払っても消えない。なにこれ。なに、これ――。
「そうなったのは……アナタのせいダヨ?」
わたしの、せい?
喉の奥で悲鳴がつかえたとき、どこかで現実の声がした。
「あなた、大丈夫?」
女性の声だった。振り返ると、フードをかぶったひとりの女性が立っていた。
さっきまで隣にいた“何か”は、霧が晴れるように消えていた。
「なにかあったのね。でも、もう大丈夫よ」
その声には、なぜか抗いがたい安心感があった。
萌霞が怯えた目で彼女を見上げると、女性は穏やかに微笑んだ。
「それよりも……あなた、症状が出ているわね。…もう少し見せていただける?」
「あなたは……誰?」
「ただの医療関係者。困っている人を助ける仕事」
そう言いながら、彼女はそっと萌霞の腕を取り、シミを確かめた。それから懐から小さな白い紙袋を取り出す。中には、数粒のカプセルが整然と並んでいた。
「これ、あなたに合うと思う。必ず服用して」
「……薬?」
「ええ。でも、普通の薬とは少し違うかもしれない」
その口調は穏やかで、どこか救いを含んでいた。
萌霞は思わず袋を受け取り、見つめた。
(この人……やさしい目をしている……)
ただそれだけで、少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
翌日、萌霞は拓海に話した。前夜に出会った、フードを深くかぶった女性のことを。
「とても良い人そうだった。……この薬もくれたんだ」
小さな白い袋。その表面には、見慣れない紋章が黒々と刻まれていた。
それを見た瞬間、拓海の表情が硬くなる。
「……それ、清禍教の印だ。たぶんその関係者だ。あいつらは信用できない」
「え…でも…」
「絶対に服用してはダメだよ。早く捨てた方がいい。」
「……うん。拓海君が言うなら……」
そう答えながらも、萌霞は押し黙った。
拓海の脳裏に、数日前の報告が蘇っていた。
――「拓海さんから依頼を受けていた調査結果です。東映セルフォーマ社に関しては、志多見からの直接的な関与は確認されませんでした。それよりも清禍教です。良くない噂が絶えません。もうしばらくするとメディアも動きます。例の『カビまみれの大根』の件にも関与している疑いが濃厚です」
眉間に皺が寄る。青い斑点の浮いた人々の姿が脳裏に重なる。
やはり――小日向の報告は正しかったのか。もう一度確認しておこう。
* * *
晩秋の午後。大きな緑地公園の芝生は、少し乾きかけた黄金色をしていた。服を着せられた小型犬が、飼い主の足元でするすると歩いていく。陽射しは柔らかく、肌にふわりと触れる。
「わたし、この時間が大好きなんだ。とても平和な感じがする。春が近づいている感じがする」
「いや、いまから冬だぞ!?」
「冬を通り越して春を感じる――ってこと!」
拓海は吹き出し、肩をすくめた。
ふと彼の視線が萌霞の顔に向かう。
「……萌霞、顔色、悪くないか?」
「全然?むしろ、なんだか体の調子がいいくらい。どうしてだろ」
「調子がいい?」
「うん。なんか高揚感があるというか……。拓海君と一緒にいるからかな……」
耳まで赤く染める萌霞に、拓海は言葉を失う。
「あ、あそこのクレープ屋さん。おいしいんだよね」
「ベンチで休んでなよ。俺が買ってくる」
「え? うーん。でも結構高いしなぁ」
「今日は俺のおごり」
「え?悪いよ」
「いいから」
屋台の前に立ち、拓海は迷わず一番高いイチゴぎっしりのクレープを注文した。いつも萌霞が視線を奪われながら、結局遠慮して頼まないやつだ。値札には三千円とあった。他は五百円なのに、これだけ桁が違う。
注文を待つ間、公園から子どもたちの笑い声が届く。空は透き通るような青で、春めいた風が頬を撫でた。
(最近元気がなかったし、これで少しは……)
ふと、風の匂いが変わった。
木々がざわりと揺れ、空気が急に重くなる。
嵐の前のような、押し殺した気配。拓海は反射的にベンチの方へ目をやった。
――萌霞が、地面に倒れていた。
体が一瞬で冷たくなる。手からクレープがすべり落ち、アスファルトに崩れた。ぐしゃりと音を立て、赤いイチゴが足元に散らばる。
「萌霞!!!」
全力で駆け寄る。萌霞の顔は蒼白で、唇が青い。目を閉じ、微動だにしない。
肌は血の気を失い、冷たい人形のようだった。




