第40話 正しさの代償
会議は、いつの間にか解散になっていた。
名残を惜しむでもなく、諦めのように、あるいは逃げ出すように、何人かは足早に去っていった。だが数名だけが、部屋に残っていた。
長い沈黙。それぞれが、自分の心の奥へと潜っていた。人と怪異、そして命の等価性。薬に潜む代償。信じてきたものが、音を立てて揺らいでいた。
柚里は、そっと壁にもたれかかりながら、開いた手のひらを見つめていた。
「……私ね、以前、怪異の世界に迷い込んだ時、目の前の怪異が、突然、煙みたいに消えたの。何の予兆もなく、フッッと。あれから、一度も現れてない」
その声は細く、ひどく頼りなかった。
「……もしかして、あれって……私と関係のあった怪異だったのかな。そっから急に、私の抗異指数、落ち始めたし。何を意味してるんだろうね……」
誰も答えなかった。答えられるはずもなかった。質問ではなく、ただこぼれた呟きだったから。
隣にいた悠人が、ふっと目を伏せるように息を吐いた。
「……俺たち、何も知らないんだな。怪異のこと。……戦ってるくせに、何にも分かってなかった」
柚里がぽつりと返す。
「世の中の仕組みって、そういうものなのかもね。知らないまま、動いてる。分かったふりして、見ないふりして……」
椅子に座っていた力也が、居心地悪そうに肩をすくめた。
「……つっても、陽凪汰のあの態度はねーだろ」
「そうそう」柚里が同意するように頷いた。「……ね、杏陽子さんも、そう思うよね?」
視線を向けられた杏陽子は、一瞬だけ考えたあと、静かに首を横に振った。
「……彼も、たぶん動揺してる。あの人、自分の中の正しさが見えないと、動けないんだと思う。でも今回は……その正しさが、どこにあるか分からなかったんだよ。だから、強い言葉で、自分を守ろうとしてた」
その言葉に、柚里は思わず口をつぐんだ。
静寂が、再び、少しのあいだ場を包んだ。
そして、悠人がその空気を切るように、まっすぐ前を見たまま言った。
「……まだ答えは出ない。でも、考えることはやめちゃいけない」
杏陽子が、微かに微笑んで頷く。
「うん……それだけは、忘れちゃいけないね」
柚里も目を細めて言った。
「怪異と……もっと違うかかわり方、できるようになるのかな。戦わなくても済む方法、あるのかな」
力也が苦笑する。
「いや、簡単にはいかねぇよ。向こうは容赦なく襲ってくる。……だけどまあ、そういう風に思えるだけで、俺たちちょっと変わったのかもな」
ほんの少しだけ、胸の奥に温い灯りがともった気がした。
* * *
訓練棟の片隅。人気のない夜。
陽凪汰は一人、ぼんやりと灯る照明の下で立ち尽くしていた。そこに、いつもの皮肉めいた余裕も、苛立ちすらもなかった。
「……ちっ」
短く、吐き捨てるような声。肩が、わずかに震えていた。握りしめた拳は白く、皮膚の下に浮き上がった血管が微かに脈を打つ。自分でも驚くほどに――知沙の言葉が、胸を深く抉っていた。
(動揺するなんて……あっちゃならねぇんだよ……)
声は、かすれ、にじんでいた。
(俺が何のために戦ってきたと思ってんだよ……!)
正しさの名の下に、拳を振るってきた。怪異は悪だと、信じて疑わなかった。そうすることで、救われていたのは――他ならぬ、自分だったのかもしれない。
(もし……あいつらと人が繋がってるなら……俺が壊してきたのは、なんだった?)
額を流れる汗が、頬を濡らした。
(……関係ねぇよ……)
ドンッ!
鈍く、壁が鳴った。拳が食い込んだ白い壁に、血の染みがひとつ、じわりと滲む。
正義。それは陽凪汰にとって唯一の軸だった。その軸が、音もなく傾き始めている。だが彼は、それを認めたくなかった。認めてしまえば、自分が立っていた大地が崩れてしまうような気がして。
「……可能性、だろ。信じる価値なんかねぇ。なにも……変わりやしねぇよ……」
繰り返すように、呟いた。けれど、その声は誰にも届かない。部屋に漂っていたのは、彼の拳の震えと、滲む血の匂い、そして誰にも救えない孤独だけだった。
翌朝、曇天の空が、低く垂れ込めていた。すでに雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
特防局の警報が鳴り響いたのは、そんな肌寒い風が吹いた瞬間だった。怪異――対防局内での発生。かつてないほどに、中心部に近い。それは、何かが内側から崩れかけていることの象徴のようでもあった。陽凪汰は、息を整える。意識を研ぎ澄ませる。戦闘態勢。いつものように、完璧だった。いや――完璧で、あろうとした。
視線を向けた先に、黒い“それ”が現れる。
瞬間、息が止まる。
「……また、コイツか」
仲間の到着は間に合わなさそうだった。
「援護はいらねぇ。かえって好都合だ」
その輪郭。姿。あの日、目の奥に焼きついて離れなかった、忌まわしき像。父を、母を、そして、妹の陽葵を……俺から奪った。家族を――いや、すべてを奪った怪異。
怒りと復讐だけが、突き動かしてきた。
「…………今日こそ、俺が終わらせてやる」
だが、怪異は容易には捕えられなかった。
まるでこちらの心を読むかのように、姿をくらます。見えたと思えば、次の瞬間には消え、影のように場所を移す。
(なぜ……? なぜコイツだけ、何度倒しても現れる……?)
過去に3度も倒している。なのにこうして現れる。そう考えながらも、陽凪汰は少しずつ追い詰めていく。
「……これで、今度こそ――終わりだ!」
弾を撃ち込もうとしたその瞬間。
怪異の姿が、一片した。
――陽葵。
「……お兄ちゃん……だめだよ、殺しちゃ……」
その声。その目。記憶の奥底から、引き剥がされたように立ち現れた妹の姿。陽凪汰の指先が、固まる。
「……陽葵……?」
銃口が、微かに揺れる。かつての記憶が掘り起こされる。
――
「お兄は何がしたいの? 特制隊なんて、危ないだけじゃない」
「お前には分かんねーよ。だまってろ」
反射的に言い返した言葉。
ただ怒鳴って、ただ背中で見せることしかできなかった。
――その数日後。
陽葵は、怪異が発生した現場の外れで負傷した。遊んでいたのか、それとも何かを待っていたのか――いまだ分からない。
陽凪汰は激怒した。
「お前なにしてんだ! 怪異がいると分かってて近づいたのか?」
「そんな言い方しなくたっていいじゃない。いつもいつも、お兄ちゃんは何もわかっていない。自分のことばっかり。自分だけが正しいと思ってるでしょ?!」
「今そんな話してないだろ、バカなのかお前は!」
「全然私のこと考えてないじゃない。見てないじゃない。バカ兄! ……もう、口ききたくない!」
それが、妹との最後の会話だった。
「……くそっ!」
怒りが再燃する。陽葵の姿をして、陽葵の声を使って、俺を惑わせるなんて――絶対に許せない。
再び銃を構える。
引き金を引く。
弾は怪異の中心部に命中する……が、次の瞬間、床が崩れる。
落下。
全身を貫く重力の奔流。建物の裂け目から、巨大な怪異の手が伸びてくる。陽凪汰は、咄嗟に身構える。
「……やっちまった……!避けられない…」
しかし、その怪異の手は、陽凪汰を襲うことはなかった。
まるで、庇うように、覆いかぶさってきた。地面に激突することなく、怪異の肉が陽凪汰を包んでいた。そして、その手から、ぽとり――と、小さなお守りが落ちた。陽凪汰は、それを見つめ、動けなくなった。
「……これは……」
懐かしい青い布地。かすかに香る線香の匂い。
――あの日。両親を失い、二人で神社に行ったとき。
泣きそうな妹に、無理やり笑って買ってやった、あのお守り。
それを拾った瞬間、世界が反転した。誰かの思念が目の前に映し出される。
(幻視?いや、これは・・・陽葵の記憶?)
人々の笑顔が視界に広がる。
「ありがとう」「助かったよ」感謝の言葉がかけられる。
傷ついた人々が幾人もいる。
(・・・どこだここは。ああ、ここは怪異警報時の避難所。)
小さな子供から、高齢者まで。
「おい、あっちにうごけなくなっている人がいるんだ、だれか助けてくれ」
陽葵は「わたし、いきます」と声をあげる。
凛とした声。こんな声、家では聞いたことがなかった。
「大丈夫か?危ないよ、怪異は恐ろしいよ」
「全然平気。お兄ちゃんはもっと危ないところでみんなを守ってる。わたしのおにいちゃん、すごい人なんだよ」
・・・え?
陽葵・・なんだって・・。
陽葵は屈託のない笑顔で言った。
「わたし、お兄ちゃんみたいに強くなりたいんだ」
ゆっくりと消えていく思念。
目の前の怪異もゆっくりと消えていく。
(……陽葵……お前……)
全身の力が抜けていく。
なぜ、怪異がこのような幻視を俺にみせる。なんのために・・・。どうだっていいさ。目の前の怪異はゆっくりと空中に溶けていく。間違いない、4度目にしてようやくおれはコイツを倒せたんだ。
しかし、なにかがひっかかった。
4度……?
最初は母親を守ろうとしたとき、それから父親を・・・そして
家族がひとりずついなくなっていった……?
手を見る。
指先から、確かに、生気が抜けていく感覚。
まるで、自分の核が、静かに剥がれ落ちていくような――そんな感覚。
思い出される知沙の言葉、人と怪異の関係性。
……そうか、そうだったのか。
怪異は――俺達家族の想念だった―――
愛していたから、執着した。執着したから、留まり続けた。
震える口から言葉が零れ落ちた。
「……俺だ……全部、俺が壊してたんだ………」
陽凪汰の輪郭が、淡く、崩れていく。
「遅すぎたな、俺……みんな、ごめんな………」
そのとき。
妹の声が、確かに聞こえた。
(……お兄ちゃん、やっと気づいたんだね)
はっと目を見開く陽凪汰。
そして、微笑んだ。
銃をそっと手放し、空に向かって手を伸ばすように、目を閉じる。
怪異の姿が、光の粒となって、空へと還っていく。
世界は、静かさを取り戻した。
ほんの少しだけ、風がやさしく吹いた。




