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第39話 人と怪異の境界

深夜の路地は、まるで夢の底のように静まり返っていた。

府中研究所の脇に伸びる工業地帯の裏通り。人気はなく、灯りは少なく、すべてが遠い。

萌霞もえかはバイトの帰り道、そこを通っていた。いつもより数分、帰宅が遅れただけ。けれどその「数分」が、この夜を変えてしまったのかもしれない。

足元を吹き抜ける風が、妙に生あたたかくて、背中を撫でるようにしつこい。空気がざわついている。


本能が警告する。今夜は、なにかが違う。

どこかで、靴が擦れる音がした。地面を引きずるような音。顔を上げると、街灯の光の中に、浮かび上がるような青白い影。最初、萌霞はそれを「人」とは思わなかった。肌が、ほのかに青白く光っていた。その存在は、どこか異様だった。人のかたちをしているのに、人ではない。以前経験した気配が感じられた。

(怪異が、また、現れるかもしれない…)

足がすくむ。走らなければと思うのに、身体が凍ったように動かない。青白い人影がゆらりとゆっくりと歩み寄ってきた。そして、街灯の下で顔がはっきりと見えた瞬間、萌霞の心臓が止まりかけた。


「……雪乃?」

思わず、その名を口にしていた。そこにいたのは、かつて誰よりも明るく、誰よりも愛されているように見えた少女――雪乃だった。けれど、その面影はもう、ほとんど残っていなかった。髪はぼさぼさに乱れ、服はよれ、目は虚ろで、どこも見ていないのに、なぜか萌霞だけを見ているようだった。

「萌霞じゃない。ひさしぶり」

そう言って笑った。

「雪乃……なにしてるの……?」

「あなたこそ、何してるの? こんな時間に」

「……バイトの、帰りだよ」

「そう。どうしてそんな、面白くないことやってるの? ――私と、遊ぼうよ」

一歩、雪乃が踏み出した。

その動きに、ぞっとするほどの違和感があった。萌霞は思わず一歩、後ずさる。


「雪乃……お願い。一緒に病院に行こう?おかしいよ……」

だがその言葉に、雪乃は答えなかった。代わりに思いがけない言葉が、空気のように静かに降ってきた。

「ねぇ萌霞。昔のこと、覚えてる?」

「え……?」

「私ね、あなたのこと……羨ましかったの」

「……そんな……私のどこに」

「全部持ってるように見えた。優しかったじゃない。みんな、萌霞のことが好きだった。

私は――そんなふうに見られたこと、一度もなかった」

その声は、もう遠くから響いてくるようだった。深い水の底から聞こえてくるような、かすれた、沈んだ声。

萌霞は手を伸ばした。

「雪乃……お願いだから――」

だが、その手は振り払われた。冷たく、鋭く、決定的に。

「違うの。私は、あなたとは違う。……もう、違う生き物なの」


そのときだった。

彼女の背後で、ざわり――と風が揺れた。建物の影から、いくつもの「それ」が現れた。光を放つ、人のような形。だがそれらは、常識を超えた存在だった。長すぎる腕、均衡を欠いた眼球、揺らぐ輪郭、微妙に音をずらして届く足音。どれもが、人間の「なれの果て」のようであり、あるいは人間になり損ねた「模倣」のようでもあった。

萌霞は息を呑む。

「逃げて、雪乃! 怪異が来てる……!」

声が、震えながらも、必死に声を張り上げる。だが雪乃は、その場に立ち尽くしたまま、何の感情も宿っていない瞳で怪異の群れを見つめていた。他人事のように。


同時刻。

対防局の指令室。壁一面のモニターには、不規則に揺れる第五エネルギーの波形。その異常な振幅が、事態の深刻さを黙して告げていた。

「……あたり一帯に怪異の発生を確認。異常密度です」

最初にその情報が飛び込んできたのは、ほんの十分前のことだった。そのわずかな時間で、状況は刻々と変わり、既に特制隊が現場へと展開している。


知沙は、ただじっと状況の推移に視線を這わせていた。

(怪異は倒さなきゃいけない。でも――)

「局長、一帯に広く第五エネルギーの存在を確認しました」

無機質な声が、室内の温度をさらに数度下げる。

知沙は素早く指示を飛ばした。

「バックアップメンバーに詳細な観測と調査を。携帯用観測機も設置して」

何かを、得なければならない。情報を。解決する方法を。ただ怪異を殲滅するだけでは、もう間に合わない。

(助けたい。みんなを……)

「特制隊、交戦状態に入りました」

凪咲の言葉の直後、指令室のスピーカーに――銃声。

そして、断末魔のようなノイズ。

それは命のやりとりの音。


萌霞は、動けなかった。

目は、ただ雪乃を捉えていた。彼女のすぐ傍にいた怪異は、他と異質だった。まるで山のように巨大な輪郭。物理型――そう直感させる骨格の太さ。けれどそれは、動こうとしない。

「……雪乃を、助けて……!!」

悲鳴にも似た叫びが、路地の闇を裂いた。その声に呼応するように、

バンッ―!

乾いた銃声。


その向こうに、拓海の姿があった。銃を構えたまま、息を殺している。

「間に合った……! 萌霞、大丈夫か?」

「うん……でも、雪乃が……!」

その言葉が口から離れると同時に、怪異の巨体は、まるで霧のように――音もなく崩れ去った。まるで、夢だったかのように。

「……雪乃っ!!」

雪乃が、力を失ってその場に崩れ落ちた。人形のように、音もなく。


「拓海くん、一体撃破を確認」

凪咲がモニターに目を凝らす。

「……ちょっと待ってください……」

眉がわずかにひそめられる。

「どうしたの?」と知沙が訊ねると、凪咲は静かに答えた。

「さっき撃破された怪異と、周囲の第五力場の挙動が一致していません。むしろ変化しています……この女性の周囲で」

知沙の瞳が、揺れる波形のひとつに釘づけになった。

「……これは……。つまり、仮説を立てるなら、力場が逆流して…………」

喉を鳴らす音が、室内に響いた。


萌霞が駆け寄る。なすすべがなかった。ただ雪乃が倒れ、意識が混濁していく様子を見守るだけだった。

「雪乃……!」

萌霞の声が、闇に溶けていく。そのとき。雪乃の唇が、かすかに動いた。

「……萌霞……ごめんね……」

それきりだった。彼女は、ふたたび目を開くことはなかった。

雪乃の肩を抱き起こした萌霞の腕に、ふいに冷たい気配が寄り添ってきた。


「えっ……」

そこに立っていたのは、もう一体の怪異だった。ぼやけた輪郭。けれど、それは――ただ、静かに萌霞の隣に佇んでいた。まるで寄り添うように。

「萌霞、離れろ。そいつも怪異だ……!」

拓海が、即座に銃を構える。しかし。

「やめなさいっ!!」

通信越しに響く知沙の声が、怒号のように飛ぶ。

拓海の手が揺れ、動揺した声をあげる。

その隙を縫って、怪異は風となって姿を消した。一帯は、沈黙に包まれる。あのざらついた空気は、もうない。戦いは終わった。ただ、夜の冷たさだけが残されていた。


* * *


対防局・本部会議室。

緊急招集された隊員たちが、一様に無言のまま長机を囲んでいた。その静寂を、最初に破ったのは拓海だった。

「知沙さん……なぜ怪異殲滅の命令を止めたんですか?説明してもらえますか」

誰もが息をひそめ、視線だけが知沙に注がれる。知沙は、ゆっくりとまぶたを伏せた。

沈黙。

その沈黙の奥で、言葉の選び方を探しているような静かな動きがあった。やがて、彼女は顔を上げて口を開いた。


「……怪異と人間の間には、相関関係があります」


瞬間、室内にざわめきが走る。

「嘘だろ? なんだそれ」

「特異体起源研究機構によって、その関係性についての研究が進められています。今の段階では、影響し合っているという明確な証拠は……」

「判明してないのか?」

鋭い声が割り込む。

知沙は、その刃を正面から受け止めるように言った。

「つい先ほどまでは。でも、現場で観測されたデータにより、私は……かなりの確率で、正しいと判断しています」

再び、沈黙。


「つまり――怪異を殺せば、それに関係する人間も、死ぬ可能性があるということです」

空気が、変わった。それまで浮いていた怒りは、次第に色を変えていく。

衝撃、疑念、そして……怒りの再燃。

声を上げたのは陽凪汰だった。


「はあ!? 俺たちは……何をやってきたんだよ!」

拳を机に叩きつけ、立ち上がる。

「……殺してきた怪異の中に、人間と繋がってたやつがいたってことか?!」

知沙は、ただ立っていた。一歩も退かず、ただ、その視線を受け止めていた。痛みに耐えるように、唇を噛んで。

「人を守るために戦ってきたんだぞ! それなのに、俺たちは――」

陽凪汰は息をついた。一拍の沈黙のあと、言葉をやや抑えた声で続ける。

「他にも、あるんだろ? 顔がそう言ってる」

知沙は、小さく頷いた。そして、一人ひとりの顔を見てから、言った。

「皆さんが使っている特異体対抗薬について……副作用が、あります。長期的な影響は不明ですが、現在確認されている現象のひとつに、細胞の癌化があります」

誰かが、小さく呟いた。「……癌って……」


重く沈んだ沈黙が、部屋全体を飲み込んでいった。呼吸が、聞こえるほどの静けさ。

声を発したのは、悠人だった。顔を上げたまま、問いかける。

「……薬を使って戦えば戦うほど、死に近づく……ってことですか?」

知沙は目をそらさず、静かに答えた。

「そういう可能性があります」

重力のような静けさの中で、陽凪汰が再び声を上げる。

「可能性って……なんで、隠してたんだよ!」

その怒りを前に、悠人が一歩、前へ出た。

「知沙さんを責めるのは違う。隠していたのは――特異体起源研究機構だ。彼女は今、俺たちにそれを打ち明けてくれているんだ」

言葉の熱が、沈黙を押し戻す。知沙は小さく震えながら、言った。

「……事実を知ったとき、すぐに報告しようと思った。けど、言えなかった。……怖かった。真実を明かした先に、皆がどうなるのか、わからなかったから」

「……なんだよ、それ……」

陽凪汰が、吐き捨てるように呟く。

悠人はそれに反応せず、ゆっくりと周囲を見回して言った。

「俺たちだって、何も疑わずに戦ってきた。引っかかることがあっても、見て見ぬふりをしてきた。……知ろうとしなかったのは、俺たち全員なんじゃないのか?」

その言葉に、誰も反論できなかった。

そのとき、柚里がぽつりと問う。

「それで……これから、どうするんですか? 怪異を倒すの? 倒さないの?」


陽凪汰が、即座に言い放つ。

「倒すに決まってんだろ」

「……え?」

「無差別に人を襲う奴を、見逃せるかよ。それが人間と繋がってようが、関係ねえ。薬の副作用?今のところ、この通りピンピンしている。

いいか?悪意のない悪だってあるんだよ。自覚がなくても、誰かを傷つけてるなら、止めなきゃいけねえんだ。それが怪異でも、人間でもな」

柚里がためらいながら口を挟む。

「でも……その怪異と繋がってる誰かが、死ぬかもしれないんだよ?」

「……その背後に誰かいたかもしれない、って……そんなの、今さらだ」

陽凪汰は目を細めて知沙を見る。

「俺は変わらない。やるべきことは変わらない。怪異が人に危害を加えるなら、いままで通り倒す。ただそれだけだ」

悠人が、静かに言葉を紡ぐ。

「……でも、知る努力はしなきゃいけない。対話の方法。弱体化の方法。犠牲にしない道。それを探さなきゃ、それはただの殺戮だ」

「…うるせーよ」

陽凪汰は肩をすくめて鼻で笑い、それ以上は何も言わなかった。

知沙は、そっと頭を下げる。

肩が震えていた。

「……遅くなって、ごめんなさい。

この事実を知った上で、それでも……前に進まなければならないと思っています」

その声はかすかだったが、確かに届いていた。


会議室の片隅で黙っていた杏陽子が、すっと前へ出た。

「私は……なんとなく、そんな気がしてた。人と怪異が繋がってるんじゃないかって」

全員の視線が、彼女に注がれる。

「でも、だからって怪異が人を襲うなら――止めるしかないよね。」

「……杏陽子……平気なの?」

知沙の問いに、杏陽子は小さく微笑んで、うなずいた。

「秘密を知ってるのが、知沙だけじゃなくなって、よかったね」

その言葉に、知沙の目に涙が浮かんだ。

「……ありがとう……」

その涙は、謝罪ではなく――ようやく背負っていた重さの一部を、誰かに渡せた安堵の涙だった。

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