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怪異~終焉を招く少女~  作者: 初瀬 朋多迦
カビまみれの大根
37/69

第37話 託された遺志

「高峯 知紗」


脳に一瞬、鈍く響くような衝撃が走る。手が止まる。ページの端をつまむ指先に力が入らない。胸の奥がざわめいた。何かが崩れていく音がした。


(……知沙が、治験対象に?)

今までは――割り切れていた。犠牲は必要だと、誰かがやらねばならないと、そう思っていた。それが知沙だったとしても、同じ判断を下せるのか?

(他人だったから、受け入れられたのか……?)

汗が背を伝う。冷や汗。声に出すことで、思考を断ち切ろうとした。


「……別に、いいじゃない……」


その言葉が喉に詰まり、空気が止まった。自分の声が、まるで他人の声のように耳に届く。

知沙と過ごした日々が、次々に脳裏に浮かび上がる。彼女の厳しさ。まっすぐすぎる正論。時に息が詰まるほどだったが、何度も、何度も、その正しさに助けられてきた。


(いままでの判断と同じ…なにもかわらない……)

震える手を抑えきれず、八重野は拳を握りしめた。

ふいに思い出される市ノ瀬との暖かい日々。コーヒーの香りが脳裏に蘇る。彼の手、彼の声、優しい日常――そして、あの疑念。声にならない言葉が、心の奥から湧き上がる。

「……違う……こんなもの、納得なんかしてない……!」

ずっとそうだった。わたしは、勝手に切り捨ててきた。「仕方ない」で目をそらし、「現実だから」で感情を閉ざしてきた。誰かを失っても、何かが壊れても、「それでいい」と思い込んできた。すべてわかっているつもりで選んできた道。

でも――


ほんとうは、なにも見えてなかった


知沙だけじゃない。市ノ瀬も。友人も。わたしは、ひとつひとつ、取りこぼしてきたんだ。そのたびに、気づくのが遅すぎたかもしれない。

記憶の底から、市ノ瀬の顔がぼやりと浮かび上がる。スマートフォンに保存された古い画像をめくっていくと、そこには笑顔の男がいた。


しかし、懐かしさは無く、思いもかけず見慣れた顔だった。

今になってようやく、脳がそれをはっきりと認識した。

「……こんなことにさえ、気づかなかったなんて……」

乾いた嗤いが漏れた。どうして?顔も声も、似すぎていたのに。いや、きっと気づきたくなかったのだ。見えてしまえば壊れてしまうものがある、自分のいままでを否定しなくちゃいけないものがあることを、どこかで知っていたから。

(彼の正体は……)

思考が巡る。いまどこにいるのか――それは怪異の特性で追えるかもしれない。ある観測法。ある異常性。詳細はまだ不明だが、もし自分の仮説が正しければ――

「……賭けてみるしか、ないか」

八重野は、即座に端末を手に取り、特異体観測センターへ連絡を入れる。

「こちら八重野。……そっちに行って、少し調査させてもらえる?」

彼女の声は穏やかだったが、芯に冷えた覚悟が宿っていた。


* * *


気がついたとき、知紗は白く密閉された空間の中にいた。

薬品の匂いが鼻を刺す。壁は無機質に明るく、どこにも逃げ場がなかった。手足が重い。いや、それ以前に、身体を動かそうという意志すら、霞のようにどこかへ消えてしまっている。脳がぼやけている。視界の輪郭が滲んでいた。


(ここは……どこ?)

視線を巡らせた先には、冷たく輝く医療機器。そして、無表情に動く白衣の影たち。金属製のアーム、配線、投薬のためのチューブが規則正しく並んでいた。ひとりの研究者が近づいてくる。手には銀色に光る注射器。タン、タン、と器具を整えるリズムだけが、この密室に音を刻んでいた。

(誰か…………助けて……)

喉の奥でくぐもった声が生まれ、消える。答える声は、やはりなかった。期待してはいけない、と心の奥のどこかが、諦めを早くも囁いていた。知紗の腕に、冷たいアルコールの感触が走る。ああ、終わるのだ。

そう思った瞬間だった。


──バンッ!

扉が開いた。

「やめなさいッ!」

その声は、鋭く、凛として、確かに知紗の心を揺らした。

八重野だった。

「彼女は私の大切な部下よ。手を放しなさい!」

銃を構えた八重野の姿に、研究者たちが一瞬ひるむ。その空気を裂くように、奥から現れたのは志多見だった。いつものように笑っている。まるで、心底から事態の深刻さを理解していないかのように。

「おやおや。局長自ら、こんな場所で銃を振りかざすとは。どうなさったんです?」

八重野の声は揺れていなかった。

「あなたが研究素材を集め、分離実験を繰り返していた……すべて、あなたがやっていたのね?」

志多見は頷いた。柔らかな声で、淡々と。

「これは科学的知見を積むための過程です。いずれ人々は怪異をコントロールできるようになる。それが最終目標です」

「……倫理を無視して?」

「詭弁はやめましょう、八重野さん。あなただって、報告書と言う形でよく知っていたじゃないですか?それに特制隊だって。あなたもこの取り組みに加担しているのですよ」

八重野は黙っていた。志多見はさらに笑みを深める。

「それにね、僕はずっとあなたの味方だった。あなたが望むように、すべて動いてきた」

「……その姿形すら、私が望んだとおりだった」

「そう、君の望んだ通りだよ」

八重野の表情が、ふっと静かに崩れた。その目に浮かんだのは、怒りでも憎しみでもなかった。深い、深い、自責と哀しみだった。

「……これ以上、私をバカにしないで」

「君が望んだ未来だ。なら、バカにしているのは君自身じゃないか?」


八重野はわずかに微笑んだ。

「そうかもしれないわね。私は、自分自身を裏切ってきた。でも、今日で終わりにする」

銃口が、ゆっくりと志多見の胸元へと向けられる。

「私はようやく気づいたの。誰かを切り捨てるって、結局は自分を切り捨てることだったんだって」

志多見は首を傾げた。

「理解できませんね」

八重野は引き金に指をかける。志多見は、それでもなお涼しげに笑っていた。

「私を撃ってどうなるというのですか。無駄ですよ」

八重野の声は低く、優しかった。

「知ってる?強すぎるウイルスはね、自分の宿主を殺してしまうから、すぐに絶えてしまうのよ」

引き金を引いた。破裂音とともに、志多見の胸に鉛弾がめり込む。声を上げる間もなく、彼の身体は後ろに跳ね飛ばされる。血の滴りもないまま、志多見の肉体は崩れ、溶け、数秒のうちに白骨と化した。空気に焦げるような異臭が混じる。だが、終わりではなかった。

「う……ああ、あああ……ッ!」

部屋の隅で、若い研究員が腹を抱え、嘔吐しながらのたうち回る。

そして、ある瞬間、静かにすっくと立ち上がった。顔が……志多見に変わっていた。

「意味がないんですよ、八重野さん。この身体は仮の器にすぎない。私は人から人へと渡ることができる。あなたならご存じのはずでしょう?」

志多見がおもむろに銃を取り出し、引き金を引く。冷たい銃声音とともに、八重野が倒れ込む。太ももが次第に赤く染まっていく。痛みで思考が回らない。視界がにじむ。

「あとは私に任せてください。あなたはただ見ていればいい。あんたが望んできたことを私が変わりに実行していく。私こそがあなたの真の理解者だ。」

それから志多見は唖然としている研究員たちに指示をする。

「丁重に手当をしてあげてください。あと、二度と手足を動けないように固定しましょう。間違った行動をこれ以上起こさせないためにね。狂った患者は何をするか分かりませんから」

八重野は息絶えだえの中、近づいてきた研究員たちの手を振り払う。やっとのことで言葉を吐き出す。

「…………あなたは、まだわかってないのね」

八重野の銃口が、今度は自分自身のこめかみへと移動した。知紗が声を上げようとした瞬間――


銃声が響く。

八重野の身体がゆっくりと、床へと崩れ落ちた。

「……な、なぜ……ッ!」

志多見の声が、震える。その言葉とともに、志多見の顔が歪む。まるで自分の中の支えが崩れ落ちたかのように、彼の身体はぼろぼろと霧状に溶けはじめた。

「なぜ……私が……消える……?まだ、やるべきことが……怜子……」

指先が白く滲み、視界の中で形が失われていく。言葉が消える。声が途切れる。その存在は、塵となって、消滅した。


八重野の手が、静かに動いた。知紗の前にIDカードが差し出される。

「……私のIDで、今日の日付のデータを確認しなさい。すべてがそこにある。

判断は、あなたに任せるわ。……ごめんね。いろいろ、押し付けちゃって……」

最後の言葉は、ひどく優しかった。

「でも……あなたなら、きっと大丈夫」

その目は、母のようだった。すべてを見守り、愛し、許す眼差し。そして八重野は、静かに目を閉じた。まるで、深い眠りにつくように。


それは、あまりにも唐突な別れだった。八重野の身体は、まるで眠るようにそこに横たわっている。


「……うそでしょ……?」


それは風に消えるほどかすかな声だった。震える指先が、八重野の頬に触れる。冷たい。時間という名の距離が、すでに二人の間に横たわっている。胸に耳を当てる。だが、もう心音はどこにもない。呼びかけても、返事はない。それが、答えだった。


* * *


それから、知沙は形ばかりの診察ののち、病院を退院した。だが、胸の内で膨れ上がる何かは、安静など許さなかった。

(まだ終われない。終わらせてはならない──)

夜の研究棟。明かりもまばらなフロアの一角で、知沙はそっとIDカードを差し込んだ。冷たい電子音がして、扉が開く。八重野の個人データフォルダ。そこに保管されていたのは、整理されることなく詰め込まれたメモや報告書、セキュリティ区分の高い映像ログ、そして「口外厳禁」の朱文字が走る機密文書たち。その中の一つを開く。読み始めた瞬間、知沙の手が微かに震えた。


『特異体起源研究機構は、人間と怪異との結びつきに着目している。怪異はただの外敵ではない。それは宿主と密接に繋がった、もう一つの自己である──。怪異と人は一心胴体。どちらか一方の死は、もう一方の崩壊を意味する…』


次々と映し出される症例。怪異が「排除」された後、意味不明の昏睡状態に陥り、静かに命を終えた人々。彼らは、怪異と共に生きていたという証拠。


『それでも、私たちは進まなければならなかった。なぜなら、その先に人類の未来があると──信じたから。……信じたかったから。でもね、知沙。

私はもう一つの真実にたどり着いてしまった。

怪異は、殺してはいけない。怪異は……共に、生きていくものなの。この真実は誰にも伝えられない。なぜなら、怪異はいまだ理解されず、恐れられている。人々に危害を加える者もいる。けれど、だからこそ、あなたに託したい。

この困難な時代を越えて。知沙、あなたならできる。

がんばって!』

目頭が熱くなる。視界がぼやける。

「……私のことを……最後まで……」

小さな嗚咽と共に、知沙は床に崩れ落ちた。泣きたいのに、涙が出る暇もないほど、心の奥にあいた穴は大きかった。それでも、手は離さなかった。IDカードを、胸に抱きしめるように強く握りしめる。八重野は命を絶ち、希望を託した。そのすべてが、今、自分の掌にある。

知沙は深く息を吸った。静まり返る部屋のなかで、ただ一人、拳を握りしめた。

──このままではいけない。

今度こそ、誰も見捨てない。誰も、犠牲にしない。

それが、八重野の想いを継ぐということ。

そして──自分自身を、生きるということ。


* * *


八重野の死から一週間が過ぎた。

葬儀も追悼の式典も行われなかった。彼女の死は公的には「事故」として処理され、誰も深くは追及しなかった──いや、してはならなかったのだろう。それが、この組織に課せられた黙約だった。

そして、その空席を埋めるようにして、知沙は正式に特異体防衛局の局長として任命された。若すぎる任命。唐突すぎる交代。内部調査会が開かれたのは、その直後だった。次々と明らかになる歪んだ記録。データの改ざん。承認を経ずに行われた怪異処理。そして、それらのすべての責任が、こうして結論づけられた。すべては、死んだ前局長・八重野による独断的行動と情報操作によるものであったと。


知沙は唇を噛んだ。

「……そんなはず、ないのに……」

握った拳が白くなる。特制隊。彼らの中にもまた、怪異は宿っている。その怪異がすべて「敵」ではないことを、知沙は知っている。そして、軽々しく声にすることはできるはずもなかった。ひとたび口を開けば、自分が知っている真実を──あの夜、八重野が命を賭けて残したメッセージを、全て喋ってしまいそうだった。だがそれは、許されない。知沙の中にある真実は、もはや「希望」ではなく、組織を崩壊させる「毒」にさえなり得るのだ。


不意に記憶の底から、ある声が立ち上がる。

『どちらも選ぶ道が、あるんじゃないですか』

あれはまだ、何者でもなかった頃の自分だった。未熟で、まっすぐで、無知で、それでも確かに未来を信じていた。

「でも……現実は、違う……」

目を閉じると、八重野の顔が浮かんだ。静かに、けれど強く微笑んでいたあの横顔。あの人は、その矛盾を、最後まで背負っていた。そして、今──それは知沙の肩に乗っている。

局長という名の孤独。誰にも真実を告げられず、誰の言葉にも甘えられない役職。それでも前に進まねばならない。


「……研究を、勧めなくてはいけない」

窓の外に、夜が広がっている。星ひとつ見えない、無表情な闇。一刻の無駄もできない。八重野の遺志は、もはや知沙の内に生きていた。形を変え、痛みを宿しながらも──


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