第37話 託された遺志
「高峯 知紗」
脳に一瞬、鈍く響くような衝撃が走る。手が止まる。ページの端をつまむ指先に力が入らない。胸の奥がざわめいた。何かが崩れていく音がした。
(……知沙が、治験対象に?)
今までは――割り切れていた。犠牲は必要だと、誰かがやらねばならないと、そう思っていた。それが知沙だったとしても、同じ判断を下せるのか?
(他人だったから、受け入れられたのか……?)
汗が背を伝う。冷や汗。声に出すことで、思考を断ち切ろうとした。
「……別に、いいじゃない……」
その言葉が喉に詰まり、空気が止まった。自分の声が、まるで他人の声のように耳に届く。
知沙と過ごした日々が、次々に脳裏に浮かび上がる。彼女の厳しさ。まっすぐすぎる正論。時に息が詰まるほどだったが、何度も、何度も、その正しさに助けられてきた。
(いままでの判断と同じ…なにもかわらない……)
震える手を抑えきれず、八重野は拳を握りしめた。
ふいに思い出される市ノ瀬との暖かい日々。コーヒーの香りが脳裏に蘇る。彼の手、彼の声、優しい日常――そして、あの疑念。声にならない言葉が、心の奥から湧き上がる。
「……違う……こんなもの、納得なんかしてない……!」
ずっとそうだった。わたしは、勝手に切り捨ててきた。「仕方ない」で目をそらし、「現実だから」で感情を閉ざしてきた。誰かを失っても、何かが壊れても、「それでいい」と思い込んできた。すべてわかっているつもりで選んできた道。
でも――
ほんとうは、なにも見えてなかった
知沙だけじゃない。市ノ瀬も。友人も。わたしは、ひとつひとつ、取りこぼしてきたんだ。そのたびに、気づくのが遅すぎたかもしれない。
記憶の底から、市ノ瀬の顔がぼやりと浮かび上がる。スマートフォンに保存された古い画像をめくっていくと、そこには笑顔の男がいた。
しかし、懐かしさは無く、思いもかけず見慣れた顔だった。
今になってようやく、脳がそれをはっきりと認識した。
「……こんなことにさえ、気づかなかったなんて……」
乾いた嗤いが漏れた。どうして?顔も声も、似すぎていたのに。いや、きっと気づきたくなかったのだ。見えてしまえば壊れてしまうものがある、自分のいままでを否定しなくちゃいけないものがあることを、どこかで知っていたから。
(彼の正体は……)
思考が巡る。いまどこにいるのか――それは怪異の特性で追えるかもしれない。ある観測法。ある異常性。詳細はまだ不明だが、もし自分の仮説が正しければ――
「……賭けてみるしか、ないか」
八重野は、即座に端末を手に取り、特異体観測センターへ連絡を入れる。
「こちら八重野。……そっちに行って、少し調査させてもらえる?」
彼女の声は穏やかだったが、芯に冷えた覚悟が宿っていた。
* * *
気がついたとき、知紗は白く密閉された空間の中にいた。
薬品の匂いが鼻を刺す。壁は無機質に明るく、どこにも逃げ場がなかった。手足が重い。いや、それ以前に、身体を動かそうという意志すら、霞のようにどこかへ消えてしまっている。脳がぼやけている。視界の輪郭が滲んでいた。
(ここは……どこ?)
視線を巡らせた先には、冷たく輝く医療機器。そして、無表情に動く白衣の影たち。金属製のアーム、配線、投薬のためのチューブが規則正しく並んでいた。ひとりの研究者が近づいてくる。手には銀色に光る注射器。タン、タン、と器具を整えるリズムだけが、この密室に音を刻んでいた。
(誰か…………助けて……)
喉の奥でくぐもった声が生まれ、消える。答える声は、やはりなかった。期待してはいけない、と心の奥のどこかが、諦めを早くも囁いていた。知紗の腕に、冷たいアルコールの感触が走る。ああ、終わるのだ。
そう思った瞬間だった。
──バンッ!
扉が開いた。
「やめなさいッ!」
その声は、鋭く、凛として、確かに知紗の心を揺らした。
八重野だった。
「彼女は私の大切な部下よ。手を放しなさい!」
銃を構えた八重野の姿に、研究者たちが一瞬ひるむ。その空気を裂くように、奥から現れたのは志多見だった。いつものように笑っている。まるで、心底から事態の深刻さを理解していないかのように。
「おやおや。局長自ら、こんな場所で銃を振りかざすとは。どうなさったんです?」
八重野の声は揺れていなかった。
「あなたが研究素材を集め、分離実験を繰り返していた……すべて、あなたがやっていたのね?」
志多見は頷いた。柔らかな声で、淡々と。
「これは科学的知見を積むための過程です。いずれ人々は怪異をコントロールできるようになる。それが最終目標です」
「……倫理を無視して?」
「詭弁はやめましょう、八重野さん。あなただって、報告書と言う形でよく知っていたじゃないですか?それに特制隊だって。あなたもこの取り組みに加担しているのですよ」
八重野は黙っていた。志多見はさらに笑みを深める。
「それにね、僕はずっとあなたの味方だった。あなたが望むように、すべて動いてきた」
「……その姿形すら、私が望んだとおりだった」
「そう、君の望んだ通りだよ」
八重野の表情が、ふっと静かに崩れた。その目に浮かんだのは、怒りでも憎しみでもなかった。深い、深い、自責と哀しみだった。
「……これ以上、私をバカにしないで」
「君が望んだ未来だ。なら、バカにしているのは君自身じゃないか?」
八重野はわずかに微笑んだ。
「そうかもしれないわね。私は、自分自身を裏切ってきた。でも、今日で終わりにする」
銃口が、ゆっくりと志多見の胸元へと向けられる。
「私はようやく気づいたの。誰かを切り捨てるって、結局は自分を切り捨てることだったんだって」
志多見は首を傾げた。
「理解できませんね」
八重野は引き金に指をかける。志多見は、それでもなお涼しげに笑っていた。
「私を撃ってどうなるというのですか。無駄ですよ」
八重野の声は低く、優しかった。
「知ってる?強すぎるウイルスはね、自分の宿主を殺してしまうから、すぐに絶えてしまうのよ」
引き金を引いた。破裂音とともに、志多見の胸に鉛弾がめり込む。声を上げる間もなく、彼の身体は後ろに跳ね飛ばされる。血の滴りもないまま、志多見の肉体は崩れ、溶け、数秒のうちに白骨と化した。空気に焦げるような異臭が混じる。だが、終わりではなかった。
「う……ああ、あああ……ッ!」
部屋の隅で、若い研究員が腹を抱え、嘔吐しながらのたうち回る。
そして、ある瞬間、静かにすっくと立ち上がった。顔が……志多見に変わっていた。
「意味がないんですよ、八重野さん。この身体は仮の器にすぎない。私は人から人へと渡ることができる。あなたならご存じのはずでしょう?」
志多見がおもむろに銃を取り出し、引き金を引く。冷たい銃声音とともに、八重野が倒れ込む。太ももが次第に赤く染まっていく。痛みで思考が回らない。視界がにじむ。
「あとは私に任せてください。あなたはただ見ていればいい。あんたが望んできたことを私が変わりに実行していく。私こそがあなたの真の理解者だ。」
それから志多見は唖然としている研究員たちに指示をする。
「丁重に手当をしてあげてください。あと、二度と手足を動けないように固定しましょう。間違った行動をこれ以上起こさせないためにね。狂った患者は何をするか分かりませんから」
八重野は息絶えだえの中、近づいてきた研究員たちの手を振り払う。やっとのことで言葉を吐き出す。
「…………あなたは、まだわかってないのね」
八重野の銃口が、今度は自分自身のこめかみへと移動した。知紗が声を上げようとした瞬間――
銃声が響く。
八重野の身体がゆっくりと、床へと崩れ落ちた。
「……な、なぜ……ッ!」
志多見の声が、震える。その言葉とともに、志多見の顔が歪む。まるで自分の中の支えが崩れ落ちたかのように、彼の身体はぼろぼろと霧状に溶けはじめた。
「なぜ……私が……消える……?まだ、やるべきことが……怜子……」
指先が白く滲み、視界の中で形が失われていく。言葉が消える。声が途切れる。その存在は、塵となって、消滅した。
八重野の手が、静かに動いた。知紗の前にIDカードが差し出される。
「……私のIDで、今日の日付のデータを確認しなさい。すべてがそこにある。
判断は、あなたに任せるわ。……ごめんね。いろいろ、押し付けちゃって……」
最後の言葉は、ひどく優しかった。
「でも……あなたなら、きっと大丈夫」
その目は、母のようだった。すべてを見守り、愛し、許す眼差し。そして八重野は、静かに目を閉じた。まるで、深い眠りにつくように。
それは、あまりにも唐突な別れだった。八重野の身体は、まるで眠るようにそこに横たわっている。
「……うそでしょ……?」
それは風に消えるほどかすかな声だった。震える指先が、八重野の頬に触れる。冷たい。時間という名の距離が、すでに二人の間に横たわっている。胸に耳を当てる。だが、もう心音はどこにもない。呼びかけても、返事はない。それが、答えだった。
* * *
それから、知沙は形ばかりの診察ののち、病院を退院した。だが、胸の内で膨れ上がる何かは、安静など許さなかった。
(まだ終われない。終わらせてはならない──)
夜の研究棟。明かりもまばらなフロアの一角で、知沙はそっとIDカードを差し込んだ。冷たい電子音がして、扉が開く。八重野の個人データフォルダ。そこに保管されていたのは、整理されることなく詰め込まれたメモや報告書、セキュリティ区分の高い映像ログ、そして「口外厳禁」の朱文字が走る機密文書たち。その中の一つを開く。読み始めた瞬間、知沙の手が微かに震えた。
『特異体起源研究機構は、人間と怪異との結びつきに着目している。怪異はただの外敵ではない。それは宿主と密接に繋がった、もう一つの自己である──。怪異と人は一心胴体。どちらか一方の死は、もう一方の崩壊を意味する…』
次々と映し出される症例。怪異が「排除」された後、意味不明の昏睡状態に陥り、静かに命を終えた人々。彼らは、怪異と共に生きていたという証拠。
『それでも、私たちは進まなければならなかった。なぜなら、その先に人類の未来があると──信じたから。……信じたかったから。でもね、知沙。
私はもう一つの真実にたどり着いてしまった。
怪異は、殺してはいけない。怪異は……共に、生きていくものなの。この真実は誰にも伝えられない。なぜなら、怪異はいまだ理解されず、恐れられている。人々に危害を加える者もいる。けれど、だからこそ、あなたに託したい。
この困難な時代を越えて。知沙、あなたならできる。
がんばって!』
目頭が熱くなる。視界がぼやける。
「……私のことを……最後まで……」
小さな嗚咽と共に、知沙は床に崩れ落ちた。泣きたいのに、涙が出る暇もないほど、心の奥にあいた穴は大きかった。それでも、手は離さなかった。IDカードを、胸に抱きしめるように強く握りしめる。八重野は命を絶ち、希望を託した。そのすべてが、今、自分の掌にある。
知沙は深く息を吸った。静まり返る部屋のなかで、ただ一人、拳を握りしめた。
──このままではいけない。
今度こそ、誰も見捨てない。誰も、犠牲にしない。
それが、八重野の想いを継ぐということ。
そして──自分自身を、生きるということ。
* * *
八重野の死から一週間が過ぎた。
葬儀も追悼の式典も行われなかった。彼女の死は公的には「事故」として処理され、誰も深くは追及しなかった──いや、してはならなかったのだろう。それが、この組織に課せられた黙約だった。
そして、その空席を埋めるようにして、知沙は正式に特異体防衛局の局長として任命された。若すぎる任命。唐突すぎる交代。内部調査会が開かれたのは、その直後だった。次々と明らかになる歪んだ記録。データの改ざん。承認を経ずに行われた怪異処理。そして、それらのすべての責任が、こうして結論づけられた。すべては、死んだ前局長・八重野による独断的行動と情報操作によるものであったと。
知沙は唇を噛んだ。
「……そんなはず、ないのに……」
握った拳が白くなる。特制隊。彼らの中にもまた、怪異は宿っている。その怪異がすべて「敵」ではないことを、知沙は知っている。そして、軽々しく声にすることはできるはずもなかった。ひとたび口を開けば、自分が知っている真実を──あの夜、八重野が命を賭けて残したメッセージを、全て喋ってしまいそうだった。だがそれは、許されない。知沙の中にある真実は、もはや「希望」ではなく、組織を崩壊させる「毒」にさえなり得るのだ。
不意に記憶の底から、ある声が立ち上がる。
『どちらも選ぶ道が、あるんじゃないですか』
あれはまだ、何者でもなかった頃の自分だった。未熟で、まっすぐで、無知で、それでも確かに未来を信じていた。
「でも……現実は、違う……」
目を閉じると、八重野の顔が浮かんだ。静かに、けれど強く微笑んでいたあの横顔。あの人は、その矛盾を、最後まで背負っていた。そして、今──それは知沙の肩に乗っている。
局長という名の孤独。誰にも真実を告げられず、誰の言葉にも甘えられない役職。それでも前に進まねばならない。
「……研究を、勧めなくてはいけない」
窓の外に、夜が広がっている。星ひとつ見えない、無表情な闇。一刻の無駄もできない。八重野の遺志は、もはや知沙の内に生きていた。形を変え、痛みを宿しながらも──




