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怪異~終焉を招く少女~  作者: 初瀬 朋多迦
カビまみれの大根
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第35話 正しさの代償

あなたの理想が、私を怪物にした。

市内各地から、怪異出現の報せが届き始めたのは、黄昏が夜に沈もうとする時刻だった。

防災無線より一段階鋭い警報音が、静けさを裂くように庁舎に響き渡る。


そのとき凪咲は、ほんの一匙の幸せを噛みしめようとしていた。

「今日はチキン南蛮にしてみました~。たまにはお弁当っていいですよね~」

微笑みながら、ふっくら揚がった鶏肉に箸を運ぶ凪咲。

しかし…。

「――特異体、接近中!緊急出動要請!出動まで残り90秒!」

咀嚼音すらも奪われる、無慈悲なアラートが鳴った。

「えええ、嘘ぉ……」

凪咲の顔がくしゃりとしぼんだ。

「凪先さんって、いつも怪異がきたときにご飯食べてますね」

悠人の無邪気な茶化しが飛ぶ。

「逆です~!(泣) ご飯を食べてるときに、怪異がくるんです……」


それは冗談のようでいて、ほんとうだった。この数週間、特制隊には一切の休息がなかった。連戦連戦、まるで怪異が彼らの疲弊を嗅ぎつけて集まってくるかのように。

「おいおい、またかよ」

「多すぎない? どうなってんの?」

誰の声とも知れぬ呟きが飛び交う。もはや驚きも、怒りも、疲れの深みに沈んでいく。そして、指揮をする八重野は、いつもと変わらぬ声で言い放った言葉は、『失敗は絶対に許されない』。それは命令というより呪文に近い響きだった。何かを誤魔化すように、何かを自分に言い聞かせるように。


「小日向くん、無理せずにね」

八重野は新人隊員に声をかける。小日向はまだ顔つきのあどけない、しかし芯の強さがにじむ青年だった。

「はい。訓練で習ったことを、まずは実践で発揮します」

純粋すぎて、壊れてしまいそうなほどに真っすぐな瞳。


その会話の横で、知沙は一言も発さず、八重野を見つめていた。

その視線は冷たくはない。ただ、静かで、深く、確信的だった。『あなたが今、彼にかけた言葉は、本当に誠実ですか』、と問われている気がした。八重野は視線を逸らす。見透かされるのは、もう慣れている。けれど、知沙の目には耐えがたいものがあった。

「小日向くん、彼はああ見えてかなりの能力ね。今後に期待できるわ」

そう言ってしまってから、自分でも浅い言葉だと思った。


* * *


特制隊の休憩室。

空気はどこか重たく、壁掛け時計の音すら沈んで聞こえる。悠人と杏陽子は、向かい合って座っていた。二人きり。互いに、椅子の背にもたれ、肩を落とし、額に汗をにじませている。

「もう柚里も力也も昼過ぎに帰ったよ。昨日から連戦で……力也にいたっては夜間対応もしてたから」

「今日は、私たちがなんとか持ちこたえないとね」

窓の外では、赤く燃えるような夕陽が街を染めている。その陽光に照り返されたビル群が、空気を焼くような光を跳ね返し、じりじりと肌を炙っていた。


「……あの」

ぽつりと、悠人が口を開いた。

「今日の任務、助かりました。正直、あの場面……危なかった」

冷えた麦茶のグラスに氷がひとつ、静かに溶けていく音だけがした。

「俺、心配なんですよ。このチームって、良くも悪くも杏陽子さんがいないと、崩壊しちゃうんじゃないかって」

杏陽子は小さく笑って、肩をすくめた。

「そんなことない。私の方こそ……悠人がいてくれると、なんか、みなともうまく話せて……なんていうのかな、バランス取れてる。みんながうまく連携できてるんだよ」

「買い被りですよ」

互いに照れたような笑みを交わし、それからしばしの沈黙。

セミの声が、ミンミンと、ガラスの向こうで鳴いている。静かだった。あまりにも、穏やかすぎる時間だった。このまま、何かが少しずつほどけていくような、そんな予感があった


「あのね……」

杏陽子が小さく呟く。


そのときだった。

バンッ!!!

ベランダのガラス扉が、乱暴に開かれる音。

「――!!」

二人が一斉に振り返ると、そこに立っていたのは、乱れた髪に、ほぼ下着姿というありえない格好のヨミだった。

「おい悠人。暑いからもう限界じゃ。水、くれ」

「……え?」

悠人と杏陽子の声が重なった。静まり返る室内に、再び氷のひとつがカランと音を立てる。ヨミは悠然とテーブルに歩み寄り、置いてあったグラスの麦茶をゴクゴクと飲み干した。それから「ふー」と大きな息を吐き、そのまま座り込む。

「お前……なんでここにいるんだ??」

「最近、ここのナントカ隊とやらに入ることになったんじゃ。さすがに、窓の外から監視していたら暑くてのぅ……」

「なにそれ!?」

「うろうろしていたら見つかってしまっての。入隊すれば悠人の監視も許してくれるって言われたんじゃ」

「……局長か……! まったく、戦力になればなんでもいいってことか……!」

「わしの席は悠人の隣にしてもらったんじゃ、これで監視もスムーズじゃな」

悠人が飛び上がる。

「やめろ」

その声に杏陽子は、にこりと笑って立ち上がった。

「……報告書かないといけないから、私はこれで」

「ちょっ……」

悠人が手を伸ばすも、杏陽子はすでにドアの向こうへ。音も立てずに、彼女は空気のように退出していった。一瞬、空気が止まる。

「……ふふ、気まずそうな顔しておる。わしも空気は読んだつもりじゃが」

「まっっ……たく、読めてねぇよ!!」

悠人の怒声が、夏の終わりの空気に、情けなく響いた。


* * *


作戦エリア――東京都・目黒区。

瓦礫の山と化したビル群が、夕暮れの中にひっそりと沈んでいた。小日向はその一角、崩れかけたコンクリート片の影に身を潜め、静かに通信機へと手を伸ばした。

「こちら小日向。指定のラインに到達。確認します。ターゲット、未発見」

受信機から届いたのは、知沙の無機質な声。

《了解。特異体対抗薬を100ミリだけ使用して、探索を継続。交戦時は最小出力で対応してください》

「了解。100ミリ、投与します」

薬剤の蓋を開けて飲み込む。しばらくすると神経をなぞるように力が目覚める。骨と筋肉が微かに震える。小日向は深く息を吸いこんだ。

(最大投与量は250ミリ。今日はその半分以下の指示……でも、大丈夫。演習通りにやれば)

建物の奥――

鉄骨が軋む音。圧縮された空気が破裂するような気配。次の瞬間、真紅に染まった獣型の怪異が、壁を突き破って姿を現した。

「っ……!」

その巨体は、事前に伝えられていた情報とは異なっていた。大きい。速い。小日向は考える間もなく銃を構える。

「右足の関節を狙って、動きを封じる――!」

訓練で叩き込まれた通りの手順。躊躇はなかった。だが。弾は浅く皮膚をかすっただけだった。出力が、足りない。怪異はわずかにその身を揺らすと、即座に跳躍。目にも留まらぬ速さで小日向に迫った。

「動きが……早いっ……!」

回避。反撃。牽制――すべてを思考の外で処理しながら、小日向は頭上にあるはずの援護を待った。しかし、来なかった。

(おかしい……ここで左翼のスモークが入るはずじゃ……?)

たった一瞬の空白。そこに、怪異の赤黒い触手が閃いた。

「……ぁあああああっ!!」

凄まじい痛みが脊椎を駆け抜ける。視界が白く弾ける。指が離れ、銃が落ちる。身体が浮き、地面が遠のいた。

《小日向くん!?応答して!!》

通信の声が遠ざかっていく。彼の意識は、そのまま深い水底へと沈んでいった。


静まり返った病室。

白いカーテンが、わずかな風に揺れていた。小日向は無言のまま横たわっている。顔に生気はなく、モニターだけが微かに生を示していた。昏睡状態――それが今の彼のすべてだった。事実は、すぐに明るみに出た。薬剤の投与指示量が、明らかに足りていなかった。知沙の指示による意図的な減量だった。

懲罰委員会が開かれた。冷たい蛍光灯の下、知沙は椅子に座り、顔を伏せていた。

「知沙、どうしてそんなことをしたの」

静かに、だが刺すように語られる声。対面に座る上官が、淡々と読み上げる。

「直接的な原因ではないにせよ、このことがきっかけで全体のパフォーマンスが低下。

結果、小日向君の命が危ぶまれる状況になったのは明白よ」

「申し訳ありません」

「言いたいことは、他にありますか?」

知沙は、わずかに息を吸い込んだが、目を上げることはなかった。

「……何もないです。申し訳ありません」

静かなまま、委員会は終了した。


その後、灰色の廊下を歩きながら、志多見がぽつりとつぶやく。

「どうして、彼女ほどの人間が……。どう思います? 八重野所長」

隣を歩く八重野は、つま先で床を蹴るようにして、気怠げに言う。

「まだ未熟なのかも。若いし。だから発言も幼いのよね~。的を得ていないっていうか。頭はいいのだけれど」

廊下の奥、誰もいない病室の窓の外で、夕日がまたひとつ沈んでいった。


* * *


事務所はもう、夜の匂いを纏っていた。蛍光灯が一つ、かろうじて天井から光を注いでいる。そこに、知沙はひとり。無言のまま椅子に沈み、何かを待つでもなく、ただ時間の流れに身を任せていた。ふいにドアが静かに開いた。現れたのは、悠人だった。彼は何も言わず、手にした紙コップをそっと差し出した。

「まだいたんですか……悠人くん」

知沙がようやく声を出す。

「いや、仕事が終わらなくて……残業を」

そう言って、悠人はぎこちなく笑った。

「いつも残業してるね……」

「もう慣れましたよ。むしろ残業してないと調子悪くするというか、ってこれ最近何度も言ってるかも。たぶん頭がおかしくなってきてるんですよ。定時前だと手が震えてくるっていうか、でも残業するとシャキッとするというか」

冗談めかした言葉に、知沙は小さく口角を動かした。それは笑みとは呼べないほどの、淡い応答。だが、それきり沈黙が落ちた。事務所にはもはや人気がなく、遠くでコピー機が律動的な音を響かせている。


やがて悠人が言った。

「……誰にだって、ミスはあるんじゃないですか。失敗を認め合わないと、次には進めないって……前に、言ってましたよね」

その声には、責める気配も、慰めの色もなかった。ただ、真ん中に立って相手の言葉を待つ人の声だった。

知沙は視線を落としたまま、唇をわずかに開いた。

「……小日向くんの件は、私に責任がある」

彼女の目は、遠くを見ていた。

悠人は何も言わなかった。ただ、差し出したコーヒーが冷めていくのを黙って見つめていた。


* * *


対特異体防衛局、局長室。午後22時過ぎ。

この部屋がこうも静かに感じられる夜は、年に何度あるだろう。八重野は、一人、椅子に深く身を沈めていた。窓の外には、東京の街の灯が果てしなく滲んでいる。机の上には報告書の山。その上に、一枚の紙があった。退職届。


『……責任をとって辞めます。懲戒解雇でも構いません』


その文面が、まるで刻印のように頭の中で繰り返される。もっと、噛みついてくると思っていた。もっと感情を剥き出しにして、「私は悪くない」と叫ぶと思っていた。でも、あの子が差し出してきたのは、ただの静かな諦めだった。八重野は片肘を机に立て、頬に手を添えた。皮膚が冷たい。いつからか、肩が微かに震えていた。

(……心が折れた? いいえ――私が折ったのかもしれない)


責任とは、時に鈍器のように自分へ戻ってくる。

怪異からこの街を守るには、誰かが犠牲にならなきゃいけない。それがたまたま……特制隊の子たちだった。彼女はもっと、大人の判断をすべきだった。私は正しい。この街の安全のために、資金を集め、人員を動かし、全体を支えているのは私だ。

(……むしろ私こそが可哀想じゃないの?一人で…身を削って…)

そう、私は、何も間違っていない。


トントン。

控えめなノック音。

言葉を発するより早く、扉が静かに開いた。

「最近、お悩みのようですね」

志多見だった。変わらぬ静けさをまとい、変わらぬ微笑でそこにいた。

「……相談に乗りましょうか?」

八重野は、軽く顔をそむける。

「いえ、いいの。志多見くん」

八重野は再び机に視線を落とす。震える指先に、志多見は気づかないふりをした。

「理想と現実は常に違うものです。現場の判断と、大局を見据える判断は、別物ですから」

八重野は、胸の奥で何かが割れる音を聞いたような気がした。

「……ありがとう。気がとても楽になったわ」

そう言って笑ったその瞳には、深い翳りが宿っていた。

(私は、正しい。……ずっと、正しい判断をしてきた)

でも――

『どちらも選ぶ道があるんじゃないですか』という知沙の言葉……どうして、あの言葉だけが、こんなにも、耳から離れないの?

静かに目を閉じた八重野の脳裏に、知沙の声がもう一度、焼き付いたように響いた。


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