第33話 青白き影
映画館を出ると、夏の夜はほんのりと湿り気を帯びていた。
街はゆるやかに賑わい、風が通り抜けるたび、街路樹の葉がささやくように揺れた。
加登谷拓海と常盤萌霞は肩を並べて歩いていた。細い指先がそっと絡まり、手を繋いでいることの恥じらいと喜びが、互いの歩幅を自然に揃えさせていた。
「前に言ってた場所、あるでしょ。夜景がきれいなところ。あそこ、行ってみようか」
「……うん、楽しみ。お茶もできるんだよね。いい雰囲気なんだろうな、きっと」
そう言った萌霞の横顔は、淡い期待で少し赤らんでいた。だがすぐにその表情が曇る。
「でも、いいの? 疲れてない? 大学も……国の仕事もしてるでしょ?」
拓海はふっと笑って、目を細めた。
「なに言ってるんだよ。こうして萌霞といられる時間が――…癒しなんだよ」
言葉のひとつひとつが、真っ直ぐに萌霞の胸に届く。この人の隣で過ごす日々が、どれほどかけがえのないものか。
そう思った矢先だった。
前方、道の端。薄闇のなかに、異様な気配が浮かび上がった。にじんだ影のような存在。それが人の形をしていると気づいたのは、ほんの数秒後だった。衣服からのぞかせた腕や足は蛍光灯のように青白く光っていた。
萌霞は一歩も動けず、息をのんだ。足元がすくんで地に縫いつけられる。男の目は虚ろで、焦点がどこにも合っていない。関節が壊れた人形のような、不自然な動き。呻き声が喉の奥から漏れ、やがて、男は力尽きるように地面へと崩れ落ちた。
拓海が咄嗟に彼女の前に立つ。
「大丈夫……ですか……?」
だが、言葉に反応はない。それどころか、倒れた男の身体は、あまりにも静かすぎた。死んでいる――そう直感したとき、拓海の背中に冷たい汗がにじんだ。
(これは……何が起きている?)
辺りを見回すと、空気そのものがざわついている。街の喧騒が一瞬で遠のき、風景の奥から異質なものが滲み出してくる。
「……怪異だ」
拓海の声が震えた。直後、鋭いサイレンの音とともに、特制隊が現れる。隊員たちは迷いなく配置につき、人々を迅速に避難させる。
「大丈夫ですか!」
声の主は、拓海にも見覚えのある青年だった。
「悠人さん……?」
「拓海さん?……とにかく、こっちへ。すぐに避難してください」
悠人は冷静だった、特制隊員たちは連携しながら、街に現れた怪異との交戦に入る。その中心に立つのは、杏陽子。鋭い視線、圧倒的な身のこなし。彼女は隊の刃として、怪異を斬る役目を一手に引き受けていた。そして、彼女の姿を捉えようと、サイレンを聴きつけ待ち受けていたテレビクルーが望遠カメラを向ける。マスコミは中継を始め、全国に映像が広がっていく。
「……本日も対特異体防衛局の迅速な対応により、怪異の出現による被害は最小限に抑えられました。国民の皆さん、ご安心ください」
アナウンサーの声が、まるで予め用意された台本のように滑らかに響いた。特異体研究を行う東京科学大学の特異体に詳しい教授がゆったりとした調子で解説を行う。
「今回の特異体の特徴ですが、青白く光る身体、死体のような質感、そして焦点の合わない目。動きは鈍く、異常な呻き声を発するとのことです。また、積極的な攻撃行動は見られなかったということなんですね。過去の特異体とはどれもあてはまらない、新しいタイプの特異体なのかもしれません。」
「……新型の特異体の可能性があるということですよね。そういう意味ではまだ完全に安心とは言い切れませんよね?」
コメンテーターが神妙な面持ちで口を挟む。
「はい。そうです。外出時には十分な注意をお願いいたします」
アナウンサーはカメラの奥の国民へと視線を向ける。
平常と異常の境界が、もはや曖昧になりつつあった。
指先がタブレットの画面を滑るたびに、無機質な情報が次々と表示される。
八重野の声が、会議室に低く響いた。
「他のメンバーは別の案件にあたっていたけれど、急遽予定変更。特異体データシート、各自確認して」
特異体登録番号:0079〜0085
通称:カビまみれの大根
波形強度ランク:3.0
発生地点:東京都立川市、立川駅周辺
柚里が指先で画面をつまみながら、ぽつりと口を開いた。
「……SNSで、こんな噂が流れてるの。まるで都市伝説みたいだけど、やけにリアルで」
彼女の声には、わずかな揺らぎがあった。
「一見、人生は順風満帆。だけど、心の奥で、なにかが欠けてるって感じてる人がいる。満たされない、理由もなく。でもそんな人のもとにね、ある日、誰かが現れるの。『この人、君にとって必要なの?』って問いかけてくる友人が」
静まり返る部屋。
「そして……もし『ううん、いらない』って答えてしまったら。その人、消えちゃうんだって」
「なにそれ、物理型怪異?それとも知覚型怪異?」
力也が呟く。
「でも、もっと怖いのはそのあと。
消えたはずのその人が、また戻ってくるの。今度は理想の姿になって。優しくて、親切で、あなたのすべてを理解してくれて、完璧な味方になる。もう、他の誰も必要ないくらいに。でも……」
そこで彼女は言葉を切った。
「……気づくの。
その友人の顔が、だんだんあなたに似てきてるって。ほくろの位置、眉の形、笑い方まで。最初はほんの少し。でも、いつか気づく。ほとんどあなた自身になってるって。
そうなったらもう終わり。その人が君の代わりに、生きていくことになる。消えた人はどうなったかって?体から青白い光を放つ幽霊になるんだって。そう、最近世間をにぎわせているあいつ。SNSでは『カビまみれの大根』みたいだっていわれてるよ。ひどい例えだよね。
…ところで、力也さんは本当の力也さん?」
冷たい沈黙。
力也が苦笑交じりに口を挟んだ。「おいっ!びっくりさせるなよ。俺は俺だよ」
「ふぅん。ま、力也さんの場合、本物でも偽物でも、どっちでもいいけどね」
「それ柚里ちゃん、ひどすぎない?」
談笑のようで、笑いは続かない。
その場にいた拓海が、ふと記憶を手繰るように目を細めた。
「……たしかに。最初は、怪異かと思った。でも……ただの人のようだった。奇妙で、苦しそうで。呼吸もしてた。」
「え、それって……」柚里が身を乗り出す。
「ああ。立川で偶然見かけたんだ。詳しい調査状況は不明だけど、研究機構と特異体対策庁それに東セルが共同で調査中だそうだ」
「東セルが?」
「そう。そのカビまみれの大根、というと語弊があるな、その症状を患った人々で生きている者は病院に担ぎ込まれたそうだよ。特別療養対象で、本来なら高額な治療費がかかるんだけれど、東セルは今回破格の扱いで対応するそうだよ」
悠人が腕を組んでうなずいた。
「省庁、医療、民間……一丸となってるわけだ。見上げた連携だな」
* * *
杏陽子や悠人達が一旦、作戦室に帰ってくる。
ひと時の休憩。
しかしすぐに八重野によって関係者が招集される。
「作戦にうつるまえに、みんなに新しく加わったメンバーを紹介するわ。小日向 空羅くん。二十歳の大学生」
若者の名が呼ばれると、扉の向こうから一歩ずつ歩み寄ってくるその姿が現れた。年相応の均整のとれた体つきに、黒髪がやや長めに揺れる。どこか淡い光をたたえた眼差しが、周囲を穏やかに見渡している。
「よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた声は、意外にも芯があった。悠人はその佇まいを見て、ふと自分の入隊当時を思い出す。
──ああ、やっぱり同じだ。おそらく、彼も怪異に襲われた際に、特殊な力を発現したのだろう。そして、同じように引っ張られてきた……強制的に。
(でも、表情が、暗くない。むしろ……覚悟のような光すらある)
その違いに、どこかひっかかりを覚える。
「ちなみに彼は、オーディションを通ってきた子よ」
八重野がさらりと言い放った。
「オーディション!?」
悠人と柚里が、揃って素っ頓狂な声をあげた。
「ええ、いまどき『面接』なんて言葉じゃ若者の心に刺さらないわ。『オーディション』よ。
選ばれる喜び、華やかさ、運命の一歩……甘美な響きでしょ?」
(……それ、完全に詐欺の手口……)
悠人は内心で頭を抱える。
「局長、小日向さんが若干引いてます。やめてあげてください」
しかし、八重野は悪びれる様子もなく笑った。
「実は彼、すでに調査任務をこなしているのよ。宗教団体、清禍教──本件に関わる調査」
その名を聞いたとき、部屋の温度が一瞬だけ下がったような気がした。
「メディアでも話題の……」
悠人が確認するように問いかける。
「そう、あの清禍教よ。小日向くん、報告をお願いできる?」
小日向は頷いて一歩前へ出た。
背筋をすっと伸ばしてから、静かに語りはじめた。
「清禍教は現在、都内を中心に広がりを見せる宗教団体です。彼らの教典に従い、儀式を通じて、意識の混濁した、青白い痣をもつ人間たちを生み出している、という不確かな情報があります。ちなみに彼らの教えは、『囚われの心を解放する』です」
小日向の声音は、淡々としているのに、なぜか胸を打った。
「そして教団の人々は、『怪異は幸福をもたらす、崇めるべきもの』だと主張している。バカバカしいと思うでしょう?でも、彼らは本気なんです。心底、信じてるんです」
「信じるにしたって限度があるだろ」
陽凪汰が声をあげる。
「怪異は人間に危害を加える存在だ。それ以外の解釈なんて、ありえねぇよ」
「……教祖の名は、明澄羅。側近には玲沙璃という女性がいます。
彼女は信仰に殉じた美しき聖女として信者たちに語られていますが、実態はただの明澄羅による操り人形のようでした。いや、深く洗脳された哀れなひとりの信徒、と言うべきかもしれません」
淡々とした報告が続く中で、部屋の空気はじわじわと、見えない影で染め上げられていく。
「そして、彼らは一貫して政府──つまり我々の存在そのものを悪と断定しています。怪異を封じる側こそが異常であり、怪異を幸福から引き離す加害者だと」
小日向は、拳を静かに握った。
「……僕の友人も、怪異に襲われました。笑っていた日常が、ある日、突然終わるんです。だから、僕は誓ったんです。絶対に、怪異をこの手でやっつける、と」
その言葉に、陽凪汰がうなった。
「……いい心がけじゃねぇか。気に入ったよ」
八重野が冗談めかして言った。「彼、優秀よ?そのうち陽凪汰くんも追い越されるかもね?」
陽凪汰は鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
しかし、どこか嬉しそうな気配を滲ませていた。




