第32話 揺れるグラス
対特異体防衛局本部の敷地内。
正面エントランス前に立ち並ぶのは、ぴんと背筋を伸ばしたスーツ姿の一団。そこだけ温度が違うような、張り詰めた空気。悠人は、慣れぬ圧に思わず足を止めた。
「この人たち、誰なの?」
隣で悠人よりもやや背の高い力也が、ひそひそと声を落とす。
「知らないのか? 特異体対策庁のキャリア組だよ。ああして、俺たちみたいな対特異体防衛局、つまり特異体関連独立行政法人を見回ってるのさ」
悠人が視線を巡らせると、その中央、前列に座る一人の男が目を引いた。
「……あの人は?」
「ああ。加登谷海利。うちの、加登谷拓海の兄さん」
加登谷拓海──聞いたことのある名前だった。内勤の若手ながら、評価が高いと聞く。悠人と同じく大学四年生にして、この世界に飛び込んできた、数少ない人材の一人。最近では現地での戦闘にも自ら手を挙げて加わっているそうだ。その兄が、特異体対策庁の中枢にいるということらしい。
「やっぱり海利さんってイケメンだよね~。もちろん拓海さんも!」
柚里の浮ついた声が、横から割り込んできた。力也はむっと眉をしかめる。
「……拓海? あいつ、最近局長に妙に取り入ってないか?」
「嫉妬は見苦しいよ、力也くん」
「俺は信用ならない奴は嫌いなだけだ」
「二人兄弟、しかも父親は東セルの社長、お金持ち!」
「……まじか。で、東セルって?」
「知らないの? 東栄セルファーマ。特異体医療技術じゃ国内トップの製薬会社よ」
悠人も頷く。
「あそこ、学生にも人気だぞ。友達が面接受けたけど、箸にも棒にもかからなかったって」
力也がぼそりと呟く。
「……まるで、特異体対策のために生まれてきたような一家じゃねぇか」
その言葉がやけに現実味を帯びて響いた。
会議室はとても静かだった。この空間だけ、夏の暑さから切り離されているような錯覚。八重野局長の声が、鮮やかにその場を支配していた。
「いい? 私たちは、数ある特異体関連法人の中でも最も命を張り、成果を上げている組織…のはずよ。来年の予算、取りに行かなきゃ。1.5倍、いや、2倍よ。特異体研究ももっと本腰を入れて、事業拡大すべきだわ」
端然とした知沙が応じる。
「研究については、特異体起源研究機構が担当しています」
「実質、私たちがやってるようなものでしょ。あらゆる怪異にかかわる生情報を提供しているのはいつも私たち」
「……我々の使命の本筋とは、少し外れているのでは」
「潰せばいいのよ、研究機構なんて。吸収して、予算も取り込むの。お金がすべてよ。
潤沢な予算こそが、私たちを守る盾なの!」
どこか投げやりなほど強気な局長の主張に、誰も口を挟めなかった。それを引き取るように、加登谷海利がゆったりとした口調で応じる。
「確かに、ここ最近の特異体出現数は明らかに増加傾向にあります。八重野局長のおっしゃることは、数字の上から見ても理に適っている。特異体制圧隊(特制隊)の存在価値は明白です。……予算配分がその重要性に見合っていないのは、問題です」
その声音には、抑制された熱があった。熱くはない、だが情熱がある。
聞く者の耳に、すっと染み込んでいくような言葉。
会議終了後。
帰り支度を整える職員の波の中で、海利が拓海の肩を軽く叩く。
そのまま悠人の方へと、まっすぐに歩いてきた。
「ああ、君が──悠人さん、かな?」
「え? あ、はい」
「ああ、やっぱり。報告書、拝見していますよ。最近の活躍、すばらしいですね」
「……恐縮です」
(報告書……? 読まれてる?でもこの人……どこかで……)
「日本の命運は、君のような若い力にかかっていると思っています」
その瞳は、真っすぐだった。悠人は思った。この人は、まっすぐな人間なんだ。
正しすぎるほどに、正しい。それは、ある種の怖さでもあった。
しばらくすると柚里がどこか得意げな顔で、箱を抱えて戻ってきた。
大きな紙袋の中には木箱に入ったなにやらたいそう大事そうに包装された箱。
「へへん。見て、これ」
力也が目敏く反応した。
「……お、おい! それ今、プレミアついてて入手不可能な『A5和牛セット、天花杏陽子プロマイド付き』、じゃないか!」
「さすが力也くん、目ざといわね。加登谷海利さんが差し入れてくれたの。『柚里ちゃんがいつも頑張ってるから』だって。力也くんには……プロマイドの紙だけあげるね」
「むしろそっちが本体でしょ!それだけで、生きていけます!加登谷兄弟、最高です!」
瞳を潤ませながら感謝する力也に、柚里は冷たい視線と言葉を投げた。
「きもっ!」
悠人はその光景を、少し離れて見ていた。
(……餌付けされてるんじゃないか?)
そう思いながらも、言葉にはしなかった。こういうただでくれる時ほど、怖いものはない。
まるで、知らぬうちに首輪をかけられているような、そんな感覚が、胸の奥にじわりと広がっていた。
* * *
和牛セットに沸いた午後。
一息ついた――はずの、ほんの一瞬。
その余白さえ許されないのが、天花杏陽子の日常だった。応接ブースのガラス扉が、軋んだ音を立てて開く。そこから現れた男は、細身のスーツに身を包み、いかにも現場慣れしていそうな曖昧な笑みを浮かべていた。
「桐谷俊一です。お久しぶりですね」
その声に、杏陽子はふと目を細める。たまに局内で見かける顔――だが、言葉を交わしたことはない。老舗テレビ局の社会部記者、兼プロデューサー。噂では、真面目一徹、取材はしつこいほど食い下がると聞く。だが目の前の桐谷は、その評判から想像される熱血というよりも、どこか腰の低すぎる小動物めいて見えた。
「今日は取材に、あとは撮影も少々……日々の業務でお疲れのところ恐縮ではありますが――」
そこに割り込むように、八重野局長の声が響いた。
「天花杏陽子ちゃんを何だと思っているの?こう見えても、うちの広告塔なのよ。むしろ今からが本番ってところでしょう」
その言葉には、軽さとも強さともつかぬ力がこもっていた。
「はは、いやあ……そう言っていただけると、助かります」
相手の言葉に、まるで波に押し返されるような反応の男だった。
「これも特防局の活動の一環。世間の理解を得るためには、ね。杏陽子、しっかりうちのアピール、お願いね」
促されて、杏陽子はゆっくりと頷いた。
打合せはすぐに終わったようだった。
遠目にみていた悠人が心配して杏陽子に声をかけた。
「……大丈夫? 疲れてない?」
局長は、いったい何を考えてるんだろう。
そう思わずにいられない。彼女の実力が際立っていることは、誰もが知っている。だが、命を賭しているという現実を、どれだけの者が真摯に受け止めているのか。できるだけ負担をかけない配慮も必要なのではないか。
杏陽子は、悠人を見ずに答えた。
「……いつものことだよ、大丈夫」
それだけの言葉だった。けれどその声音には、ほんのわずかな揺れのようなものが混じっていた。彼女は目を逸らし、唇の端をわずかに持ち上げた。
「ありがと……」
その囁きに、悠人は一瞬だけ息を止めた。
そして、それを横目でちらりと見ていたのが知沙だった。いつも冷静な彼女の目が、わずかに杏陽子へと向く。けれど、何も言わない。
言葉ではなく、沈黙で告げる理解と距離が、そこにはあった。
* * *
休日。
八重野はいつになく穏やかな時間を過ごしていた。
職場の喧騒から離れ、久しぶりに会う旧い友人・桜井と、評判の隠れ家ビストロで昼食をとっていた。磨き抜かれたグラスの中で、白ワインが光を弾く。ひと口運ぶたびに、舌に広がる香りが日常の埃を払ってくれるようだった。
「やっぱり、ここにして正解だったわ。ほら、予約も取れないって聞いてたし」
八重野は笑みを浮かべて言う。自分が選び取ってきた世界に、わずかな誇りをにじませながら。キャリア。責任。自由。時間を惜しまぬ学びと、使命感。それらは確かに人生を誰よりも充実したものにしていた。そう信じていた。
話題は自然と、最近の社会の空気へと流れていく。子どもを産み育てることへの賞賛、専業主婦という役割への再評価――。「ふふん」と鼻先で笑うのが、八重野らしかった。
「今さら、女の幸せは家庭にあり、だなんて、時代錯誤もいいとこよね。もちろん、立派だとは思うわよ。でも、それが唯一の幸せの形だなんて思ったこと、一度もない」
「……そうね」
友人の桜井は相槌を打ったものの、その声音はどこか歯切れが悪かった。
そのとき、店の前を通り過ぎていった若い夫婦が目に入る。子どもが二人、よちよちと駆け回りながら、通りの風景に小さな喚声を上げていた。カトラリーの音が止まり、一瞬、二人の間に静かな間が生まれる。
「一人でいるほうが、楽だし、自由だし。生き方はそれぞれって……そう思わない?」
八重野は、自分の言葉に少しだけ強さを込めた。肯定のようで、問いかけでもあった。長いあいだ、彼女たちは「持たない」ことで「失わない」強さを共有してきた。子どもを持たず、誰にも縛られず、社会の中で自立し、自分で選んだ場所に立ち続けてきた。
しかし――
「……結婚することになったの」
桜井が言った。声は、穏やかで、しかし迷いがなかった。そして、少しだけ遠慮がちに、お腹に手を添えた。
時が止まったようだった。八重野の脳内で、何かがぽっかりと空白になった。けれど、表情は崩さない。それは長年鍛えた職業的な反射だった。
「えっ、まさか? おめでた??」
わざと少し大きな声を出し、明るく笑う。
「ほんとに? おめでとー! 誰と?ねえ、誰と?」
心が追いつかない。だが、言葉は先に口をついて出る。誰かに急かされているような、取り残されまいとするような、そんな焦燥。
「なんで黙ってたのよ〜」
「……ごめん。忙しそうだったから、なかなか言えなくて」
グラスの中のワインが揺れる。まるで自分の心が映っているように。笑顔のまま、八重野は気づいた。胸の奥――それもかなり深いところに、風が吹き込んでいる。
(……それは、いつから?)
言いかけた言葉が喉の奥で止まり、八重野はそっとワイングラスを傾けた。
笑顔は崩さずに。声のトーンも変えずに。




