第3話 唐揚げと召集令
目を覚ますと、そこは見慣れた天井だった。
月の形がかすかに残る夜光シール。前の住人の置き土産。この1LDKの部屋は、大学近くの築年数の割に安い物件で、バストイレは一体型。味気ない部屋にすっかり慣れてしまっていたが、今はむしろその雑多な生活感が、ほっとする。あまりにも濃厚な出来事が続いたせいかもしれない。だからこそ、この無愛想な天井が、現実に帰ってきた証のように思えた。スマホに手を伸ばすと、午後6時を少し回ったところだった。どうやら病院を出たあと、そのまま一日中眠っていたらしい。
起き上がると、筋肉に鈍い重みが残っていた。
だが、痛みはない。確かに、自分はあの夜、死ぬかもしれない場所にいた。それが今、布団の中で汗のにじんだTシャツの感触を気にしている。現実と非現実の境目が、まだ皮膚のどこかで曖昧だった。
何気なくテレビをつける。ニュースキャスターが神妙な顔で語っていた。
「昨夜、新宿区で発生した怪異事件について――」
映し出される現場映像。焼け焦げた舗道、ガラスの破片が夕日を跳ね返している。画面の隅に立つレポーターが、やけに声を潜めながら話している。
「この異常事態について、まだ詳細は明らかにされていません。」
コメンテーターが真顔でカメラを見つめ、言った。
「皆さん、自分には関係ないって思ってるんでしょうけど……気が付けば、すぐそばにある危機なんです」
まるで、俺を指差しているようだった。ほんの数日前まで、テレビの中の話だった。まさか自分が、その「すぐそば」にいる側になるとは。
ふいに、スマホが震えた。着信。
表示された名前に、現実がまた一段、戻ってくる。「早川」。四井物産の人事担当だった。
「先日の面談についての感想と、内定承諾の期限についてお話したくて――」
相変わらず穏やかで、余裕ある口調だ。
「他の会社の選考は、どうなっていますか?」
「いえ、もう御社が第一志望ですので」
自然と、背筋が伸びるのを感じた。
「それは嬉しいですね。ではもう、内定承諾ということでよろしいでしょうか?」
「はい。ぜひお願いします」
ほんの数秒で、未来がひとつ定まった。あっけないほど静かに、確かに。
早川の声が、どこか弾んでいる。
「ありがとうございます。一応、メッセージで送った回答フォームに記入していただければ、正式な手続きとなりますので」
「すぐやっておきます」
電話のあとも、いくつかの案内が続いた。
内定式、懇親会、同期との顔合わせ――
未来に向かう段取りが、どれも型どおりであることが、なぜか心を落ち着かせる。
通話が終わると、深く息を吐いた。
四井物産。
新卒人気ランキングで常に上位を保つ企業。誰もがうらやむ安定と名誉の象徴。その肩書きが、いま、この手にある。
(でも……本当に、俺でよかったのか?)
思わずそんな声が心の底で浮かんでくる。どこかで誰かと間違えられたのかもしれない。それでも、間違いであっても、決まった現実に変わりはない。
不意に父の声が浮かぶ。
「来年から会社員か。苦労は買ってでもしろよ」
幼い頃、テレビ会議越しに見た父の背中。世界をまたにかけて働く男の顔は、いつも画面の向こうにあった。言葉も文化も異なる地で、目の奥に光を宿したまま仕事をするその姿にあこがれていた。
「これで安心だ」
そう呟いて、天井を見上げた。英気を養おう。残された大学生活を、できるだけ穏やかに過ごそう。未来のために。窓辺に目をやると、柔らかな夕陽が、レースのカーテン越しに部屋を染めていた。
午後の静けさに、台所の空気がぬるく澱んでいる。
そろそろ、スーパーにでも行くか。そう思いながら、悠人は頭をがしがしと掻いた。何も考えない時間が欲しかった。腹を満たすためのルーティーンが、思考を静かに整えてくれると信じていた。冷蔵庫を開けると、昨日、病院に運ばれる前に買った鶏モモ肉が、ラップ越しにひんやりとした存在感を放っていた。
唐揚げにしよう。迷いはなかった。内定祝いか、あるいは怪異から生き延びた祝勝会か。いや、そんな大げさな意味はない。ただ、唐揚げが食べたかったのだ。こんなときこそ、ちゃんと自炊して、暮らしの感触を確かめるべきだ。
包丁の刃が肉をすべり、赤い繊維が淡々と断ち切られていく。切り分けた鶏肉をボウルに放り込み、醤油、酒、すりおろしたニンニクと生姜。卵を割り入れ、小麦粉をふわり。指先で揉み込むたびに、粘りがじわじわと生まれていく。最後に、タピオカ澱粉。これが、自分なりに辿り着いた、三年間の試行錯誤の果てにある、揺るぎない自信作だった。
コンロの上で油が熱を帯び、やがてパチリと音を立てる。慎重に一つ目の肉を落とすと、油は勢いよく弾け、台所に香ばしさが立ち込めた。じゅわっ。肉の内側で旨みが花開いていくのがわかる。いったん取り出し、温度を上げてから再度投入。二度揚げの技法で、表面は見事にカリッと、黄金色に仕上がった。
炊飯器の蓋を開けると、ふわっと湯気が立ちのぼる。炊きたての白米。これほど心を満たす光景は他にないかもしれない。箸を取り、唐揚げをつまむ。そのまま、口元へ――
ピンポーン。
一瞬、時が止まる。
え……このタイミングで?
箸をそっと置き、スリッパをつっかけて玄関へ向かう。ドアスコープを覗けば、スーツ姿の男が三人。無表情のまま、背筋をまっすぐに伸ばして立っている。
「こんにちは、神岸悠人さんですね?」
「……はい」
「私ども、内閣府特異体対策室の者です。本日より、あなたには対特異体防衛局の一員として正式に勤務していただきます」
言葉が、頭に届かない。
「は? 何の話ですか?」
「特異体対策法をご存じですか? 第1条――『特異体に対抗できる力を有する者は、何人たりとも国に協力しなければならない』」
まるで教科書を読むように男は言う。そして、当然のように続けた。
「法令に基づき、今すぐ対防局に来ていただきます」
「いや、ちょっと待ってください! 自由意志くらいあるでしょう」
「さきほど申し上げたように、この法律は任意ではなく、義務です。」
義務?そんなバカなことがあるのか?
男たちがジリリと間を詰めてくる。
「でも今、唐揚げ揚げたばっかりで……」
悠人は思わず身をよじる。男の手が、肩をがっちりと掴んできた。
「申し訳ありませんが、一刻の猶予もありません。人命救助、治安維持、世界平和のためです」
「でも……せめて、一口だけ……」
切実な願いもむなしく、男たちの目は微動だにしない。背後、テーブルの上。湯気を上げる唐揚げ。炊きたてのご飯。そして、その隣に置かれた、ぽつんと箸一本。
玄関を出る時、悠人はつい叫んでしまった。
「せめて……せめてタッパーに詰めさせてくれっ!」
だがその声も、車のドアが閉まる音にかき消された。
唐揚げは、誰にも口にされることなく、ただ湯気だけを残していた。
ひとつの静かな、確かな日常が、扉の向こうに置き去りにされたのだった。