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第29話 ナポ霊タン注意報

二人の足はすでに、駅のホームに向かって動き出していた。

その背中を、町田駅前のカフェテラスから鋭く見つめていた者たちがいた。

柚里はカップを片手に、身を乗り出す。

「……ねぇ、あの二人、けっこう急いでない?」

「うん。思ったより……真面目に行動してるように見える」と知沙。ポケットに入れておいた端末を手早く確認する。

「……何も情報なし。警報どころか注意報すら出てない」

柚里がふふんと笑った。

「なかなか手の込んだプランじゃない?」

「そんなに忙しい設定にする必要ある?」

呆れたように言う力也の声に、柚里が小さく笑う。

知沙「そういう演出大事。その後が勝負」


* * *


一方その頃。

特防局・局長室。

本棚にはずらりと並ぶ心理学と怪異論の書籍。その中心で、八重野局長がカップを持ち上げ、文庫本に目を落としていた。


―本日は特異体感知器点検、えー、特異体感知器点検日です。

特異体についてのデータやアナウンス、一時的に警報が鳴ることがありますが、ご協力をお願いします。実際には特異体が発生しているわけではありません。―


PCのウィンドウに表示されたスケジュールを一瞥し、八重野は再びコーヒーを口に運ぶ。

―特異体です、特異体です。特異体が発生しました

どこか間の抜けたアナウンス音声が部屋に響く。

「うるさいわね……これ、もうちょっと音量低くできないの?」

「感知器の点検ですから……」

静かに答えるのは、部下の志多見だ。

八重野はふと顔を上げた。

「あ、今日、特異体感知器の点検日って、あの子たちに言ったっけ?」

「え? ……言ってないんですか?」

「……まぁいっか。今日は休みだし、たぶん端末なんて持ってないでしょ。知沙は持ってるかもしれないけど、あの子のだけはテスト信号はカットされる仕様だし問題ないわね」

くるりと椅子を回しながら、八重野は気まぐれに笑った。


* * *


中華料理店『紅龍飯店』の前には、異変らしい異変の気配はなかった。

警戒域の中心として報告された場所であるにもかかわらず、通りには平穏な空気が流れている。ガラスの自動扉越しに見える、紅と金を基調とした内装。朱の看板がわずかに陽に照らされ、きらりと光を返す。


「……とくに、混乱はなさそうですね」

悠人の声に杏陽子は頷いた。

扉をくぐると、立ちのぼる香ばしい香りが、鼻腔を柔らかく満たした。ごま油、八角、葱、炒めた肉の旨味……複雑だが、調和のとれた芳香。店内は円卓が並び、深紅の椅子に座る客たちの談笑が重なり合っていた。その多くは家族連れや、やや洒落たスーツを着た中年夫婦。フォーマルすぎないが、きちんとした装い。

店員は異質な悠人の姿に一瞬その姿に訝しげな目を向けたものの、マニュアル通りの笑顔でふたりを席へと案内する。案内された円卓に座ると、悠人は周囲を眺めた。金箔の縁取り、繊細な龍の文様、真紅のクロス。どこを切り取っても『高級』の二文字が浮かび上がる。


(……これは……間違いなく、うまい。うまいに決まってる……)

気づけば胃が静かに鳴いた。ふたりはほぼ同時にメニューを開く。無言のまま、静かにページを繰る。

「これ、どれだけ食べれば怪異が現れるんですかね?」

メニューから顔を上げ、悠人が問う。

「分からない。……とにかく、いろいろ食べてみるしかなさそう」

杏陽子の声はどこか落ち着きがなく、語尾が揺れていた。悠人はその様子に小さく首を傾げながら、再びメニューに視線を落とす。

「この……小籠包、どうです?」

「あ、美味しそう!」

杏陽子の声が少しだけ弾んだ。

「他にはどうですか? 酸辣湯火鍋なんてのもあります。辛いの大丈夫ですか?」

杏陽子は一瞬言葉に詰まり、

「平気!あ、でも……そんなに得意でも……いや、どっちでもいい」

どっちなんですか、と悠人が思わず聞き返しそうになるのを、かろうじて口の中で留めた。

(……やっぱり、今日の杏陽子さんは、少し変だ)

食事は静かに始まった。香ばしい蒸気の立つ小籠包をひとくち頬張ると、肉汁の旨味が口いっぱいに広がった。それでも怪異は発生しない。皿がひとつ、またひとつと空になるたびに、悠人の眉がわずかに寄っていく。

「注意報ですからね」

箸を置きながら、彼は口を開いた。

「必ず発生するとは、限らない」

杏陽子がすっと、口を拭った。

そろそろ怪異の出現可能性は下がってきているのか。そんな思考を巡らせながら、悠人は再びメニューに手を伸ばした。


店を出た瞬間、胃に収まりきらぬ熱気と香辛料の残響が、ふたりの足取りを重たくしていた。やはり辺りに騒ぎはない。空は青く、通行人は穏やかで、ただ昼の陽がアスファルトを白く照らしていた。

「……どうやら、現れませんでしたね」

悠人が少しだけ残念そうに、少しだけほっとしたように、言った。

「ええ。でも、おいしかった」

杏陽子は小さく呟く。それは任務としての総括とも、個人的な感想ともつかない。


次の瞬間、端末が震え、機械音が鳴る。悠人が即座に確認する。

「……注意報が更新されましたよ」

「一緒に見ても、いい?」

杏陽子が覗き込む。彼女の声は少し息を含んでいた。

ふたりの肩が触れ合う。空気がわずかに揺れる。杏陽子の顔が近くて髪に触れてしまいそうな距離間。

(……服装のせいか、今日の杏陽子さんは、いつもの彼女じゃないみたいだ)

どこか、距離感がうまく測れない。


特異体名:ナポ霊タン。

発生傾向:局地的な霧とともに霊的反応。

概要:対象は不定形の特異体であり、ナポリタンを強く薦めてくる。断るとケチャップ飛沫攻撃を行い、最終的に「ナポリタンにされる」。巷では「昭和の喫茶店のナポリタンに取り憑いた母の記憶が怪異化した」という噂話がひろまっている模様。


「……奇怪すぎる」

杏陽子が額に手を当てる。

「ケチャップで襲われるって……どこから突っ込んでいいか分からない」

ナポ霊タンの新規発生地点:新宿区西新宿 フルーツパーラー『果々苑』。急行せよ。

「……さっき食べたばっかりなのに……」

「でも、食べないと調査にならない。……とはいえ、フルーツパーラーにナポリタン? 関係が見えないな」


それから二人は重たい足取りで『果々苑』のドアをくぐる。

店内はまるで別世界だった。若いカップルたちが甘い時間を過ごす桃色の空間。笑い声。写真撮影。見れば、周囲は表情を崩し合い、互いの顔ばかりを見つめている。

ふたりは、その空気に逆行するように、パフェグラスの間に置かれたメニュー表を眺めながら、無言で向き合った。

悠人は端末で情報を追い、杏陽子は背筋を正して警戒を続ける。

完全なる浮いた存在。周囲の甘さとは対極の、無言の重苦しさがふたりを包んでいた。パフェを運んできた店員は、一瞬だけ眉をひそめたが、やはりプロらしい笑顔で去っていく。

運ばれてきた巨大なパフェに圧倒されながらスプーンを手に取る。甘ったるいフルーツソースが舌を刺した。


店内に一人潜入している柚里。帽子を深くかぶった柚里が身を屈め、様子を観察していた。

「会話、ゼロ!? フルーツパーラーで向かい合ってパフェ食べてて、会話ゼロ……どうぞ」

スマホを手に、険しい表情。

同じく店の外、車の陰に身を潜めた力也と知沙が無線で連絡を取る。

「駄目ね、まったく進展しそうにない。……」

力也「あの、やっぱり単に怪異調査しているだけでは・・?」


その様子をもう一つの影が追っていた。

ガラス越しにしがみつき、二人に食い入るような視線を向ける者。

「ずるいぞ……悠人……うまそうなもの独り占めして……」

ぐぅ、と腹の音が大きく響く。


* * *


局長室は、いつものように柔らかい光に包まれていた。

ブラインド越しに落ちる影は規則正しく、窓辺のサボテンは今日も無言で、微笑んでいるかのようだった。

「……それにしても、この怪異発生場所のテスト用シナリオ。誰が考えたんですか?」

志多見がふと呟くように訊ねた。手元の資料をぱらりとめくりながら、眉をひそめる。

「もちろん私よ」

八重野局長は悪びれる様子もなく、机の奥で手を組んで答えた。その口元には、どこか満足げな笑みが浮かんでいる。

「今度行ってみたいお店をリストアップしてみたの。ずっと気になってたのよね。次にでてくる花影はクロワッサンが美味しいって噂なのよ。サクサクで、バターの香りが芳醇で……ああ、想像するだけで幸せ」

その言葉は、まるで任務中の隊員たちに届けるには、あまりに無邪気だった。志多見が、半ば呆れながら目を細める。

「……で、ナポ霊タンというのは?」

八重野は、少しだけ顔を曇らせた。

「私……ナポリタン、嫌いなのよ」

ぽつりと、遠い目をした。

「母がね、大好きだったの。昭和生まれの女だったから。よく作ってくれてた。でも私は……あのケチャップの匂いが、どうにもダメで。幼い頃は無理やり食べさせられてたわ」

八重野はうんざりしたような表情をする。

「ところで、特異体報知器のテスト。そろそろ終了時刻のはずですが…」

志多見が報告すると、八重野は軽く頷いた。


一方その頃、地下の検査エリアでは――

「よし、今回の報知器検査は全部終わったぞ」

検査員の男が、タブレットを片手に宣言する。

だがその背後から、部下の青ざめた声が飛ぶ。

「あ………このエリア、まだ点検おわってません……」

「え?」

タブレットの画面を覗き込んだ男の顔が曇る。

「おいマジか、どこだ。……下水道?」

男は天井を仰ぐ。

「……面倒なんだよな、あそこ。臭いし、狭いし、暗いし……。しかも今日中に終わらないぞ」

「どうしますか?」

「どうするって……時間オーバーしたらまた大目玉喰らうぞ。…まあ、いままで問題なかったしな。今回も大丈夫だろ。異常なしだ!」

小さく笑い、男はポケットから朱肉付きの印鑑を取り出す。慣れた手つきで「検査完了」の欄にポンッと押し込む。

「……ヨシッと」


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