第2話 闇を裂く者
(これが……怪異……)
悠人は本能的に息を詰めた。現実と幻想の境が、裂け目のように足元から崩れていく。彼女は、すでに武器を構えていた。小型の拳銃のようなもの。だが、その体は、明らかに限界に近いようにみえた。薬が効いていないのか、あるいは……すでに何度も無理をしてきたのか。
「逃げよう!」
悠人が声をかけたその時、彼女の身体がふらりと揺れた。
「っ!」
咄嗟に彼女を庇おうと手を伸ばした瞬間だった。悠人の指先が、怪異の青黒い靄に触れた。ビリ、と音がしたような気がした。次の瞬間、彼の手に焼けつくような痛みが走る。
「……な、なんだ……これ……!」
深い藍色の染みが、じわじわと皮膚に広がっていく。まるで火傷のように。熱い。手のひらから、斑点が滲み、浮かびあがるように形を変えていく。その痛みと混乱の中で、悠人はうっすらと意識を掠め取られるような感覚を覚えた。何かが、内側に入り込んでくる。
「馬鹿! 何やってるの!」
鋭く、突き刺すような少女の声が鼓膜を打つ。次の瞬間、彼女の体はしなやかに動いた。痛みも迷いも感じさせず、鋼のようにしなやかな動きで銃を構える。銃口が怪異を正確に捉えると、沈んだ音を響かせながら数発の弾丸が放たれた。続けざまに、少女は地を蹴る。身体は一瞬のうちに宙へと浮かび、そのまま光の帯のように放物線を描く。
「──っ!」
重力を無視したかのような身のこなしで、少女は怪異の目前に迫る。その拳が振り抜かれた瞬間、華奢な手が影の塊を貫いた。怪異の身体が砕けるように揺れ、轟音とともに後方へ弾かれる。壁に激突し、ガラスが割れ、ビルの外壁が崩れ落ちる。粉塵が舞い、辺りの空気が熱を帯びて騒ぎ出す。
そして──沈黙。
崩れた瓦礫の中、怪異は呻きもあげずに倒れ込んだ。
ゆっくりと、まるで絵の具が水に溶けていくように、その黒い身体は空気の中へと溶けていく。
「……逃げた」
かすかに耳に届いた、少女の呟き。それは安堵でも、勝利でもない。ただ、深い疲労の影を含んでいた。
地面に倒れたまま、悠人はその一部始終を見ていた。だが、もはや自分の身体がどこにあるのかも曖昧だった。手が焼けるように熱く、視界がにじみ、息を吸うたびに胸が軋む。
気が付くと彼女がすぐそばに来ていた。
「……特異体対抗剤、まだ少し残ってる……!」
震える指でポケットから瓶を取り出すと、彼女は容赦なく悠人の顎に手をかけ、口を開かせる。その動作に迷いはない。冷たく、けれどどこか切実な熱を帯びていた。
「さあ……飲んで……!」
少女の息が頬にかかる。薬瓶の口が唇に押し当てられ、冷たい液体が喉へと流れ込む。薬の刺激が、脳髄を貫くように広がっていく。それと同時に、まるで胸の奥が激しく揺さぶられたように、悠人の意識が深く、暗く沈み込んでいった
──夕暮れの神社が見えた。
赤く染まる空の下、誰もいない参道。
軋むような木の匂いと、遠くで鳴る風鈴の音。
あまりにも懐かしいのに、なぜかその記憶に触れると胸が張り裂けそうになる。
そして、そこに佇む一人の少女。
黒い髪。寂しげに揺れる瞳。
声がした。優しくて、かすれるような──
「……ありがとう」
どこか遠い場所で、少女の声が確かに響いた。
* * *
目を覚ますと、そこは病室のような空間だった。
どこか違和感があった。白い壁と無機質な天井。その静けさの中に漂う、ただならぬ空気。体にはいくつものコードが繋がれ、周囲には見たことのない機器が無数に並んでいる。まるで、病院と研究所の中間のような場所だった。自分の身に何が起きたのか、すぐには思い出せない。
「ようやく目を覚ましたわね」
背後から、気怠げな声が落ちてきた。
振り返ると、白衣の女性がひとり。髪を無造作にまとめ、目尻にはうっすらと疲労の線が浮かんでいる。だが、その眼差しは鋭く、何かを見透かすような冷静さをたたえていた。
「……僕は、いったい……」
口にした言葉は、自分でも頼りなかった。だが、断片的な記憶が少しずつ蘇る。あの夜。あの闇。あの存在。──怪異。
「あなた、危ないところだったのよ」
彼女は書類をめくりながら続けた。
「天花 杏陽子ちゃんのおかげで助かったわ」
杏陽子──。
あの少女の名を聞いた途端、胸の奥がかすかに熱を持った。
「あなたは医者……ですか?」
「まあ、そんなところね。医者半分、怪異調査半分ってとこ」
「怪異……」
その言葉に、夜の街角に浮かび消えた黒い影がまた、脳裏に蘇った。
「もうすっかり治療も完了しているわ。神岸 悠人くん」
唐突に呼ばれた名前に、思わず身を起こす。
「え……なんで僕の……」
「調べさせてもらったの。あら、フェアじゃなかったわね」
白衣の女は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「私は八重野 怜子。ここ、対特異体防衛局──略して特防局の局長よ」
対特異体防衛局。頭発生する怪異を人々から守る国の組織。たまにニュースで耳に入るワード。だが詳しいことは知らない。
目の前のチューブを見下ろしながら、悠人は問いかけた。
「これ……いったい何を?」
「気にしないで。変なことはしてないから」
あっさりとした返答。その笑みの裏に、信じていいのかどうか測れない感情がにじんでいた。だが、命を救われたという事実が、悠人の猜疑心を抑えていた。ふと、手足を確認する。あの青黒い痣──影のように広がっていたものは、跡形もなく消えていた。
「せっかくだから、帰る前に少し覗いていく?」
八重野が不意に言った。
「彼らの仕事ぶりを。なかなか面白いわよ」
「彼ら?」
「特防局の実働部隊。怪異を相手に、命を張ってる仲間。今この本部で勤務しているのは災害対策班くらいだけど」
その言葉に、悠人の胸がわずかに弾んだ。
もしかしたら、あの少女──杏陽子が、そこにいるかもしれない。
それに、知らない世界をのぞく機会なんてそうそうない。
「……お願いします」
思いのほか、声は迷いなく出た。八重野のあとを、悠人は高揚した気分を隠せぬままついていった。
国家機密の組織。テレビやネットで断片的に語られる、遠い現実の裏側。自分がその内部に足を踏み入れようとしている。そんな非現実感に、胸が妙に高鳴っていた。
八重野は、そんな悠人の気配を感じ取ったのか、肩をすくめて乾いた笑いを漏らした。何も言わず、目の前のドアを押し開く。
そして、飛び込んできた光景は──あまりにも現実的だった。
床には書類が散乱し、壁際には食べ残しのカップラーメンが山積み。モニターには乱れた解析データ。スタッフたちは寝不足の顔で、言葉少なに動き回っていた。まるで終電を逃したサラリーマンの避難所。
「ここが……特防局?」
思わず漏れた声に、八重野はため息混じりに答える。
「まあ、こんなもんよ。人も足りない、予算もない。みんな寝てないし、食事はカップ麺ばっかり。怪異が出たら現場でその場しのぎ。目の前の穴を、ひたすら塞いでいるだけの仕事」
その口調には、どこか底の見えない虚無感が滲んでいた。
悠人はふと思い出す。たしか、怪異対策には巨額の予算が投入されていると聞いたことがある。それなのに、この有様はなんだろう。どこかで誰かが甘い汁を吸っているのか――そう考えずにはいられない。こんな環境で、昨日見たような命がけの現場を支えているのだとしたら、この部屋に漂う疲労と諦念にも、うなずけるものがある。
「……なんてね、冗談よ。夜勤続きなだけ」
八重野が笑って言った。だが、その笑いの裏側に、悠人は確かに何かを感じ取っていた。
悠人は、その部屋の空気を一度ゆっくりと吸い込んでから、視線をぐるりと巡らせた。だが、どこを見渡しても彼がもう一度見たいと願った彼女、天花杏陽子の姿はなかった。
八重野がすっと悠人に向き直って言った。
「見物はここまで。もう帰っていいわよ」
まるで帰りのバスが来たことを告げるかのような、あっさりとした口調だった。だが悠人の足はその場にわずかに留まる。背を向けて歩き出した八重野の後ろ姿に向かって、言葉がぽつりと漏れた。
「……昨日の子は。天花杏陽子さんも、ここにいるんですか?」
その問いに、八重野は一瞬だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。
「いつもはね。いろんなところにいるのよ。お気楽だから」
そう言って、再び歩き出す。
──お気楽、だって?
その響きに、悠人の胸にわずかな違和が広がる。
あの夜、銃を構えて怪異に立ち向かった少女の姿は、むしろ何かを背負い過ぎているように見えた。地を蹴って空に舞い、拳で闇を裂いた、あの一瞬。そこにあったのは軽さではなく、切実さだった。もしかすると──それは、あの夜だけの顔だったのかもしれない。あるいは、ここでの日々が、彼女から無邪気さを少しずつ削り取っていった結果なのか。
八重野の言葉に従い、重い足取りで施設をあとにする。自動ドアが開く音が背後で短く響いた。
「悠人くん、それじゃ。またね」
八重野は気軽な口調でそう言い残し、廊下の奥へと消えていった。その軽さが、なぜか妙に遠く感じられた。悠人は無言で一礼し、頭を下げる。だが、その「またね」という言葉が耳に残る。
(また──会えるのだろうか?)
たぶん、もう来ることはない。ここはあまりにも異質な場所だ。自分の居場所ではない。そして、杏陽子とも、きっともう会うことはない。そう思えば、名残惜しさというより、何か温かなものが胸に満ちていった。記憶の中に蘇るのは、あの夜の匂い。冷たい風。黒くうねる怪異。そして──彼女の指先の感触。薬の瓶を無理やり口に押し込まれたとき、耳元で聞こえた荒い息遣い。優しさではなかった。けれど、間違いなく、命をつなぐための必死さがそこにあった。
悠人は、頬にそっと手をやる。
そこにはまだ、あの指先のぬくもりが、静かに残っているような気がした。